深まる謎と、潜む影
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「鳥の、羽……?」
ナユタが不用意に手を伸ばすと、バチリッ、と軽く電流のような刺激が走る。反射的に引っ込めた手を、肩をすくめてカラハが笑う。
「おいおい、何の対処も張らずに触ろうなんて、怪我してェのか?」
「ちょっと迂闊だっただけだよ。そう皮肉るなってば」
「その気の緩みが……ってな。まあミスは誰にもあらァな」
カラハはそれ以上は言わず、まだ燐光を放つ右手で慎重に羽の付いたネームプレートを持ち上げた。両の目と額の瞳、三つの眼でじっくりと眺めると、名前札の表面にぼんやりと光の筋が浮き上がる。
それは一個の生命体のようでいて、想像以上に繊細だった。複雑に絡み合いながら流れる幾つもの赤紫の光は血管めいていて、妖力の源と思しき羽から流れ出ては還る強い力に、高度な術士の存在を想起させた。
「こりゃア……厄介な相手かもなァ」
「これは、術士本人がやったのかな。だとすれば、寮内に犯人が居るって事になるけど」
カラハは溜息をつきながら首を振る。
「多分だけど、共犯者にやらせたんじゃねェかな。こンだけの事が出来る術士なのに、上に貼られた術式との緻密さがアンバランス過ぎる。羽をセットすれば自動で起動するようなシステムだったんだろうよ」
そしてそっと元に戻したネームプレートを再度、ゆっくりと見詰めた。ナユタも手を組んだまま札の並びを眺めている。
と、そんな二人の間にヌッと白いメモ用紙が差し出された。パパ寮生長が穏やかな笑顔で見せるその紙には、丁寧な字で何かが書き付けてある。
「はいこれ。赤字の、行方不明の寮生の名前一覧です」
必要でしょう、と薄く笑む寮生長の気の回り具合に、何やら底知れぬものを感じながら、ナユタはそれでも不可解げにメモを受け取った。
「え、と。今、術を解いちゃうんじゃなくて?」
「今全部の術を解いてしまえば、大騒動になります。一旦これは元に戻して、行方不明者を捜すなり術士を見付けるなりするんでしょう? ね、マシバ・カラハ君」
「その通りなんだけど──フルネームで呼ぶの、気持ち悪りィからやめてくンねェかなァ」
「ああ、だからあんな丁寧に一つ一つ術式を剥がしてたんだ」
「そういうこった」
そしてカラハはめくった術式のシートを、再び元のように貼り直し始めた。それは剥がすよりも随分と楽な作業で、術士ですらない素人の共犯者がいるのではないかという説を、嫌が応にも裏付けるような手触りを与えるものだ。
「門限の時には異常は無かったようですから、これが貼られたのはそれより前なんでしょうね」
カラハの作業を眺めながら呟く寮生長に、ナユタも頷き同意した。
「今日は集会なんかも無かったから、術が浸透した後なら違和感を覚える人もいないだろうし。かと言って術式を貼るところを見付かると厄介だから、ロビーに人が少なくなる時間──風呂を閉じて以降、週番が門限作業するちょっと前とかかなあ」
「そんなところですかね。……行方不明者の内訳を見るに、二回生が一人、一回生が六人。私としては、この二回生が何か怪しいようにも思うんですよ」
「でもそうじゃなくて、そのリストに含まれていない人物が共犯者ってのも普通に考えられるよね」
「そうなんです、結局は解らない事だらけ。行方不明者は何処へ行ったのか、術士は何をするつもりなのか、共犯者は誰なのか──謎ばかりです」
二人の会話をBGMに、作業を終えたカラハがコキコキと首を鳴らし、ふうと息をつく。綺麗に元通りに貼られた術式は再び機能を果たし始めていて、先程行方不明者の赤札を目の当たりにしたナユタ達ですら、あれは幻だったのではと疑いたくなる程だ。まあ、こちらの方が幻覚なのだが。
これで良し、と伸びをするカラハにナユタは、お疲れ様、と言葉を返すとカラハは口の端だけで笑った。額の眼はもう閉じていて、右手も燐光を零してはいない。
「ちょっとこれ洗ってくらァ」
カラハは右手を振りながらそう言って、玄関ロビー脇にあるトイレへと消えて行った。そんなカラハを見送りつつ、そういえば、と寮生長は呟く。
「何で彼には術が効いてなかったんでしょうね……?」
眼を細めながらも笑みを絶やさず、寮生長はカラハの背中が消えたトイレのドアを静かに見つめ続けていた。
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その男は、息を潜めていた。
暗闇に紛れて彼らの会話を聞き、見付からないよう身体を屈め、壁の影と同化し、ずっと機会を窺っていた。
男の崇める者の計画は完璧に思えた。少なくとも術を発動させるところまでは順調だった。そこから先も何の問題も無いように感じた。
だから彼らが術のシステムを解明し、これからの方策を話し合っている声を聞きながら、男は計画を邪魔する彼らをどうにかせねばならない、という使命感に襲われた。完璧な計画は、完璧に遂行されなければならないのだから。
大丈夫、その為の力も授かっている。男は力と術の込められた羽を握り、呼吸を整えた。
さあ、今こそ役に立つ時が来た。こそこそと影で作業をするだけではない、勇敢な己れを見せる絶好の機会が、幸運が訪れたのだ。
今だ。男は声にならぬ雄叫びを上げ、床を蹴って身を躍らせた。
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入浴時間が午後九時半まで、門限の作業は九時五十分ぐらいから。
門限時には各班班長が班員を確認しますので、そこでの誤魔化しは効きません。
そして門限後、麻雀を始めてからは誰かが見張りの為に玄関ロビーに常駐している状態でした。
……という感じですね。
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