09:響く、声
夕飯は鍋だ。
白菜もネギも祖父の作った新鮮なものが揃っていて、冷蔵庫にあった他の野菜も、スーパーで買った鶏肉と豆腐も、全部入れてグツグツ煮込んだ。
潤と美香がやってきて、叔母お手製の漬物とぶり大根が加わる。
祖父の家に不釣り合いなほど大きい土鍋を囲むと、流石に食べきれないのではと思っていたのに今やすっかり空である。潤たちがいたからというのはもちろんだが、野菜も肉もおいしくて光の箸も進んだ。
「明日はこれでうどんだな」
土鍋に残ったわずかな白菜たちとスープに、祖父が鍋は楽でいいと笑う。
「野菜足して追い鍋してもいいじゃん」
「あたしキムチがいいな~」
「家でやれ家で」
棚の上にあったミカンのカゴを持ってきた潤が、ひとつを剥きながら光を振り返る。
「光は? 何味が好き?」
「どれも好きだけど……水炊きかなあ」
「シンプル~。ポン酢うまいしな、いいな水炊きも」
「モツ鍋もいいなモツ。あと豆乳も~」
「キムチはどうしたよ」
潤が呆れた表情を浮かべたとき、突然電子音が鳴って会話が途切れる。
音を奏でるのは光のすぐ横に置かれたスマートフォンだ。一斉に全員の視線がそこへ向かう。
画面には、電話のマークと母の文字。
祖父にも美香たちにもそれは見えてしまっただろう。
光は奥歯を噛み締めた。
出たくない。けれども、出ないのはおかしい。
固まる体を叱咤して、光は震える指先で液晶をなぞり機器を耳へ当てた。
「……もしもし、」
胃が凍りつきながら絞り出した声は、果たして言葉になっていただろうか。
けれども、相手はそんなことを気にもせずに高い声で尋ねる。
『光。しばらく経ったけれど、そちらはどうなの。あなた、ちゃんと課題はやっているんでしょうね?』
つかえることなく浴びせられる言葉に、はくっと喉の奥から空気が落ちた。
スマホを持つ手が震える。
『先生からもどうしてますか? ご様子は? って毎週聞かれているけれど、お母さんが代わりに答えてあげていますからね』
ぐらぐらする視界に胸の奥が痛んで。
あ、いけない。
思ったけれど光は受話器を握ったまま体を抱き込む。ひゅっひゅっと喉が鳴っている。自分のものなのに、知らないもののようだった。
息が、できない。またそんな初歩的なことを忘れてしまって、ああでも母がまだ話していて、学校が、先生が……苦しい、苦しい。息ができない。
『いくら休みっていっても、田舎の緩んだ空気に慣れたらいけませんよ。おじいさんの言葉を真に受けて休んでばかりでは怠け癖がつくでしょう。そんなところに染まる必要はありませんし、あなたにはやることが――』
「伯母さんごめん、切るね」
わんわんと響く母の声を、落ち着いた声色が遮った。手からいつの間にかスマホがなくなっている。
急に静かになって、光は胸をおさえた。
隣に潤が膝をついた気配がして、肩にあたたかさが触れる。
「光、こっちを見て。光」
涙でにじんだ視界に映る、潤。
光の肩に手を置いて、彼はまっすぐと見つめている。
「ゆっくり息吐いて、大丈夫だ。電話も終わってるし、伯母さんもいないし、来ない。大丈夫だ」
潤の声を、聞かなければ。
やわらかな声色に光は必死に耳を傾ける。
はっはっとうまく吸えない息と、跳ねるように打ちつける心臓。
「息を吐いて、そう。少しだけ息を止めてみようか………………うん、いいよ。ゆっくり吐いて……吸って。光、大丈夫、慌てなくていい」
肩にあった手は背をさするように動いていて、そのあたたかさと、聞こえてくる声に光の目から涙が零れる。
今の光には、潤の言葉がすべてだった。
吐いて、吸って。
そしてここには、母はいない。学校でもなく、教科書もノートも広がっていない祖父の家だ。
目の前には心配そうにこちらを見ている、三人。
「うまいうまい。落ち着いてきたな」
ぽんぽんと背中を軽く叩くリズムが、ぐちゃぐちゃになっている光の内側をなだめているようで。
時間をかけて息をすると、なんとか、整ってきた。
「……ごめんなさい、ありがとう」
「うん」
ぽん、と潤の手が光の頭に置かれる。
そのままわしゃっと撫でてから離れていって、光は強張った体から力が抜けていくのを感じた。
「ひ、光、病院とか」
真っ青な顔の美香がこちらを見ていて、光はゆっくり首を振った。
「大丈夫。もう治ったよ」
「でも、だってあんなに苦しそうだったのに」
「う、うん、ああなると苦しいんだけど。今はもう平気。ここに来てから、なることなかったからちょっと油断しちゃったんだ」
治ったのだと思っていた。
過呼吸で死ぬことはないらしい。それならたいした問題ではないし、家でなったのを最後に再発もしていないしと楽観視していたのはよくなかった。
こんな、みんなに心配をかけてしまうなんて。
「とりあえず、今日は寝ろ。明日、しんどかったら起きなくていい」
「じいちゃん」
今まで黙っていた祖父が、口をへの字にして息を吐く。
床に転がっている光のスマホを顎で示して言葉を足した。
「携帯はこのまま電源切っとけ。邪魔されずに休めよ」
「……うん。ありがとう」
せっかく、イチゴが高く売れて夕飯もおいしくて、みんなで過ごしていたのに。
自分の不甲斐なさで台無しにしたことが情けなさすぎて光は肩を落とした。けれども、どっと疲れが押し寄せていて体が重たいことも事実。
おやすみなさいと挨拶を残して、光はあたたかな茶の間を後にした。
***
「じいちゃん」
美香が声を尖らせた。
光はもう奥の部屋に行っている。扉が閉まった音を聞いてから口を開いたので、妹なりに気を遣っていることはうかがえたが不満がありありと滲んでいた。
祖父はため息をついてからぞんざいに手を振る。
「オレから言うからおまえらも気にすんな」
「でも、」
「親だから光になんでも言っていいっていうなら、オレだってあいつの親だからな。この場は託せ」
そう言われれば、伯母のことは祖父に任せるしかない。元よりあの伯母にはっきり言えるのは祖父くらいだろう。
ぶう、と美香が頬を膨らませたけれどそれ以上はなにも言わなかった。コタツに埋もれて顎を天板に乗せる。
ふんと鼻を鳴らした祖父が、そんな美香にミカンでも食ってろとカゴを押しやってから今度はこちらに視線を向けた。
「潤、助かった」
まっすぐな言葉に、思わず笑みが浮かぶ。
祖父は筋が通っていてすごいと思う。
肩をすくめてから、潤は素直にミカンに手を伸ばした妹をちらりと見た。
「美香から聞いといてよかったよ。とりあえず、落ち着かせてゆっくり呼吸できるようになればいいみたいだから」
光が祖父のところへ来たことは、妹からの連絡で知っていた。
どうして来ることになったのかも、学校での様子も、これまでの生活も。美香の主観が入りすぎていたが、幼いころから母親の小言に真面目な顔で頷いていたいとこのことは潤だって気にはなる。
常日頃とはいわないが、ふとしたときにそういえばどうしているかなと思い出すくらいには。
「それより、光が気に病まなきゃいいけど」
たぶん、自分たちの前ではあんな姿を見せたくなかっただろう。
電話に出ないでいいと言えばよかった。なにか必要な連絡を取ることだってあるからと、様子を見てしまったことが悔やまれる。光が出たくないことなんてその顔を一目見たらわかることだったのに。
潤はゆっくりとため息をこぼす。
過呼吸がどんなものかは簡単に調べた程度でしかない。潤は専門家ではないし、たまたまさっきはなんとかなったが根本のところを治せるわけでもないし、掛けられる適切な言葉だって持ち合わせていない。
「気にするだろうな。だからこっちは普通にするんだ。過度な優しさなんて求めてねえよ」
「光、真面目だからね」
唇を尖らせたままの美香が言うと祖父も笑う。
「真面目で自分に厳しいやつだからこそ、周りが手を貸したくなるんだ」
ああ、それはわかる。
潤は祖父の言葉にうなずく。思わず手を伸ばしたくなるんだ。
そして願わくば、それが光にとって救いのひとつになっていたらいい。