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07:待ち焦がれた赤色


 湿った空気を吸い込んだ。

 もったりと重たくてあたたかさを帯びたそれは、ハウスの中で甘さまでまとっているような気さえしてくる。

 寒さがさらに強くなって光もマフラーを巻きつけた頃。

 いつも畑に着くと収穫に取り掛かる光なのだが、この日は祖父がハウスへと手招きした。

 初めの日以来、光はハウスに入っていない。

 ガタガタと扉を揺らして開ける祖父の背中に続く。途端にあたたかい空気に包まれて、ふっと肩の力が抜けた。

 黒いシートを被った畝に、前よりも大きくなっているイチゴの株が並んでいて、視線を巡らせる光の視界に――鮮やかな赤色。


「あ!」


 思わず声を上げた光を、祖父はハウスの真ん中あたりで振り返った。


「そろそろいいだろ。食ってみろ」


 祖父の手が葉っぱを避けてパキッとイチゴを取る。手渡され、両手で受け取った光は目を丸くするしかなかった。

 拳くらいあって、ずっしり重い。


「大きい! じいちゃんイチゴってこんなに大きいのがあるの?」


 文字どおり、拳みたいな形をしている。

 横に広がって先はでこぼこ。イチゴとは先が尖った円錐形のイメージがあって、これは本当にイチゴなのかと言いたいけれど匂いも手触りもイチゴでしかない。


「そりゃあ一番初めの実だからな」


 光の驚きなんて歯牙にも掛けず、祖父はその隣の株からもうひとつ実をもいだ。そしてそのままパクリと口に。もしゃもしゃと咀嚼してすぐに二口目。

 光もつられてヘタを摘んだ。口元に持っていくだけで甘酸っぱい香りでいっぱいになり、思わず齧り付く。

 口に収まりきらない大きさだった。じゅわりと果汁が弾けて、甘さとほのかな酸味に包まれる。


「おいしい……」


 瑞々しいイチゴに、光はたまらず微笑んだ。

 二口目がまだ口にあるのに、祖父はどんどん光へイチゴをよこすから大きな大きなイチゴばかりを三つ、四つと腹に収める。


「形が全然違う」


 ひとつとして同じ形はなかった。

 ボコボコしているもの、台形みたいに先が平たいもの、綺麗に尖ったもの。

 もう食べるのは大丈夫と言って、株にぶら下がっているイチゴを見比べながら光は感心した。

 そして、あんなに机に齧り付いて勉強していたのに、そこで得られる知識は社会のほんの一部にすぎないのだと実感する。


「株に勢いがありすぎると崩れるからな。実が暴れてんだよ」

「……知らなかった。イチゴって暴れるんだね」


 そういう表現があることだって、教科書には載っていない。

 光が知らないことなのに、祖父にとっては常識で。

 ここにきてそんなことはたくさんある。

 それが当たり前なのに、光は静かに衝撃を受ける。自分の過ごしていた生活がすべてだったから、他を見ることもなくそれしかないのだと勝手に思い込んでいたのだ。

 祖父がそんな光を見抜いてかふうと息を吐いた。


「おまえが学校に缶詰されてる間でも、こうしてイチゴ作ったり市場があったり違う生活ってのがあって、自分がいるところだけが全部じゃねーんだよ」

「……うん」

「よし。わかったらイチゴ採るぞ。夕方、出荷するからな」

「うん」


 イチゴは下から手で包むように掴んで、ヘタの根元から折って取る。

 電球を取り替えるときの手だと言われて、光は祖父の動きを見様見真似でやってみた。イチゴを掴んで捻ると案外簡単にもげる。

 クッション材の敷かれた取り箱に実が傷まないように並べていくが、中腰になる作業は結構大変だ。

 赤い実を目掛けて移動し、箱の中を埋め続けるとそれを持つ手も疲れてくる。

 今はまだ実が少ないから大丈夫だったが、この先どうなるのか光はうーんと背中を伸ばしながらちょっと心配になった。


 採ったイチゴを箱ごと持ち帰り、祖父は順番に冷蔵庫へとしまう。

 いつもどおりに野菜も収穫しているから、イチゴを冷やしている間に野菜の梱包を進めて午後になったらまたイチゴが目の前に取り出された。

 作業場の机の上には電子スケールと、透明なパック、ぼこぼこした緩衝材、イチゴの品種が書かれたフィルム。


「詰めかたが決まってる」


 言いながら祖父はA3の光沢紙を広げてみせた。端がよれて黄ばんでいるそこには、イチゴの粒のイラストがパックの種類に合わせてまとめられている。

 古びた椅子に腰掛けて、祖父のゴツゴツした手が一粒のイチゴを掴むと向きを確かめてパックに詰めた。


「ちょうどいいのをズレないように詰めて、1パックのグラムも大体基準に合わせる。あんまり触るなよ、手ズレするからよ」


 大体ちょうどよいサイズのものを見定めて手に取っているようだ。

 平たいトレーのようなパックに一段。

 赤色が鮮やかに並んで、ピチッとフィルムがかけられた。


「今はまだ実が硬いからいいけど、触りすぎるとそこからやわらかくなって傷むからな」


 ひとつが終わればすぐに次のパックへ。

 計りを使いながら重さを確認しつつ、祖父は手早く赤色を並べていく。

 光はそれを眺めながら、一粒ずつ並べるシートによさそうな形と重さのものを当てはめる。贈答用になるらしいこれは、光がハウスで食べたような拳のイチゴではなくて、イチゴのイメージどおりの形のよいものばかりを選ぶように言われている。

 パックはそれぞれサイズに合わせて箱に詰め、それを五段詰んでダンボールの蓋を乗せたらビニール製の紐で縛ってまとめた。

 時計を見た祖父はまた一度イチゴを冷蔵庫にしまってから、資材の在庫確認やら作業台のものの配置を変えたり。CDラジカセに韓流POPのディスクが入っていて目を丸くした光に、祖母がハマっていてうるさいくらいに聞いていたとかそんな話をしてくれた。


 ちょうどよい時間になったのか、三時すぎに行くぞと声がかかった。

 冷蔵庫から出したイチゴを荷台に乗せて向かった先は、コンクリート剥き出しの建物。何本か金属のレーンが走っていて、カゴ型の台車がいくつも並んでいる。出荷センターと錆びた看板に文字が辛うじて残っていた。

 トラックをバックさせて荷台をレーンに近づけて停めた祖父は、出てきた人に手を上げて挨拶する。


「万蔵さん、初出荷ですね」


 朝市で毎日顔を合わせていた職員だった。

 相変わらずのやわらかな笑みで光にも挨拶した彼は、祖父が荷台のアオリを倒すのを待ってイチゴの箱をひょいと運ぶ。

 慣れた手つきでレーンに乗せるので、光も真似して残りの荷物を置いていく。


「今年はみんな早めか?」

「いや、残暑もあったからちょっと遅めです。まだ半分くらい出てないですね」

「ふーん。――光、その辺から紐外していけ」


 箱をまとめているビニール紐は、ストッパーから出ている紐の先を引っ張ると簡単に外れた。

 光がひとつを取っている間に、他の荷物の紐をすべて外し終えた職員が紐を手渡してくれる。すごい手際だった。彼はそのまま祖父の荷物をレーンの真ん中あたりまで押してから、一番前の一段目の箱を手に取る。

 祖父から受け取った伝票を開いて、書かれた内容と箱の中身を確認しているようだ。

 レーンはローラー式のコンベアで、検査の終わった箱がまた積み上げ直され、押されるたびにカラカラ音を立てて奥へ流れていった。

 コンベアの先では違う職員が梱包機で荷物をまとめ直していて、身長くらいある大きなカゴ型の台車に乗せたら終わりらしい。


「次は明日?」

「明後日。今日と同じくらいだな」

「わかりました、お疲れ様です」


 ぺりぺりと伝票を一枚ちぎって、返してくれる。複写になっているようだ。

 後から来た人が祖父の後ろへ荷物を乗せてきて、コンベアに流れるそれを職員がまた確認。同じように伝票を書きながら、パックが違っているよとか明日の予定は? なんてやっている。

 祖父は自分の荷物を梱包するのを手伝い、まとめられたものを光へと差し出した。反射で受け取ったが、台車に運ぶだけだ。

 ずしっと重たいそれを揺らさないように気をつけながら運んで、それを三回くらい繰り返すと祖父の荷物が終わる。

 じゃあなと機械をいじる職員に手を上げて、祖父は出荷場の出口に向かった。


 もう帰るのかと思う光をよそに、壁にかかった黒板を見て伝票に数字を書き込んで、横にいた他の仲間とイチゴの様子をちょっと話して。それでようやく、帰るぞと光へニヤリと笑った。

 いつもより楽しげに見えて、そういえば祖父が自分のことをイチゴ農家だと言っていたことを思い出す。

 ああ、そうか。

 きっと祖父はこのために今までたくさんのものを費やしてきたんだ。朝市も野菜も仕事ではあるけれど、きっとイチゴを出せる日をずっとずっと待っていたんだ。

 光はダミ声の鼻歌を聞きながら、明日からがどうなっていくのかと胸を高鳴らせるのである。


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