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05:からっぽな器に入れるのは


 次の日も、その次の日も。光は祖父について畑に行ったり朝市に行ったりを続けた。

 祖父は毎日朝のあの時間に光の予定を聞いてくれる。

 具合が悪いわけでもないし基本的には祖父について行きたいと言ったら、ホクロをかいて祖父は目をそらした。それなら、気が乗らないときは言えとぼそりと言う。

 その言葉に甘えさせてもらおうと光は思った。こんなふうに気をかけてもらうのはくすぐったくてそわそわしてしまう。


「じいちゃーん、白菜! あとブロッコリーも!」


 畑から野菜を採って帰ってくると、いつもより多めに祖父が自分たち用によけたので不思議だったのだが。

 夕方、勝手口の向こうから明るい声がかけられて光はその答えがわかった。


「美香ちゃん」

「あ! ほんとに光がいる~」


 扉を開けると久しぶりに会ういとこがいた。

 光よりひとつ年上で、人見知りなどしないような明るい子だったはずだ。よく似合う薄い色の髪はゆるくカールしていて、もこもこの上着にチェック柄のマフラー。

 美香は驚いて固まっている光を気にせずに、ぱっちりした目を猫のように目を細めた。


「ろくにしゃべったことなかったけど、あたしの名前覚えてたんだ」

「いとこの名前を忘れないよ」


 たしかに、あまり話した記憶はない。ここに来ること自体が数えるほどで、母があまりいい顔をしなかったから極力大人しく控えているだけにしていたのである。

 だから光にしてみたら、こうして美香が気さくに話しかけてくれることのほうが不思議だ。


「じゃあ兄ちゃんもわかる?」

「潤くん」

「正解! 意外と認識してくれてたんだねえ。うんと小さいときは庭で遊んだり探検行ったっけね」

「うん」


 それも覚えている。行こう! と手を引いてくれた背中と太陽みたいな幼い笑顔が思い浮かんだ。泥だらけになったのを祖父も祖母も笑って迎えてくれたけれど、確か母には怒られたはずだ。

 叔母が着替えを用意して、気にしなくていいんだよと言ってくれたところまで覚えているけれど、それ以来美香たちとは遊ぶのはいけないことだと思っていた。

 もしかしたら、美香も光が怒られたことを覚えているのかもしれない。彼女は少しだけ苦笑を浮かべて肩をすくめた。


「うちでたまに話題になってたよ、光どうしてるかなって」


 親戚ではあるけれどあまり親しくできていなかったのに、そこで自分のことを気にかけてくれていたというのは光を落ち着かない気持ちにさせた。

 言葉を詰まらせた光を祖父が振り返る。手には野菜の詰まったビニール袋ふたつと、タッパーを入れた鍋。


「光、そのまま美香についてってこれ返してこい。おまえ場所わかんねーだろ」


 美香とひとつずつ袋を持って、光はそこに鍋も抱える。

 行こう、と美香が笑う。手は引かれていないけれど、潮風の匂いと明るい日差しが降り注いだ気がした。


 勝手口からサンダルを引っかけて美香と並んで歩く。

 驚いたことに美香たちの家は歩いて十分もかからないところにあるという。祖父の家とは頻繁に行き来しているそうだ。

 車がなんとか行き違えるくらいの道路は、街灯がともり薄暗い足元を明るくしてくれている。

 海を横に眺めながら道路をしばらく歩いた。美香がビニールを揺らしながらなんとも言えない顔で笑う。


「光、うちに来たことないもんね。伯母さんいっつもイライラしてたし、来てもすぐ帰っちゃってさあ」

「う、うん」


 遠慮のない言葉に光はかろうじて頷いた。

 そんな光に美香はけらけら笑ってさらに続ける。


「久しぶりに来たら、今度はじいちゃんにいいように使われてるんでしょ。大変だあ」

「そ、そんなことないよ。やったことないからおもしろい」

「ほんとにぃ? まあ、光がいいならいいけど。いろいろあったんでしょ。具合悪くなるときあるなら、余計に無理することないからね」


 美香たちにどれほど自分の話が伝わっているのかはわからないが、光が過呼吸になって学校に行けなくなっていることは知っているのだろう。

 ひとつ上の美香も学校では苦労することがきっとある。歳もかわらないそんな相手からも慰められて、光は思わずため息をついた。

 職員室の、あの空気。胃が凍りつくあの感覚。

 学校のざわめきや母、教師の顔が次々と脳裏をよぎって、光は真っ黒な影を引きずっている足元に視線を落とす。

 ずっと自分の中でぐるぐるしていた言葉は今まで喉元まで来ていたけれど、ここでその重たさに口が耐えきれなくなったみたいにぽとりと唇からこぼれた。


「……私は、テストができないといる意味がないみたいだった」

「光」


 思わずというふうに、美香が目を見開いた。

 一度転り始めた言葉は止まらずに光の口からぽろぽろと落ちていく。


「お母さんはなるべくいい学校に行って良い成績をおさめて、大学も国立以外は認めないってよく言ってる。そうすれば、将来ちゃんとした仕事につけるからって。環境が人を作るから、きちんとした学校を出ることが一番って」

「光、確かバリバリの進学校だよね? 中高一貫?」

「小学校から」


 美香が少しなにかを考えてからさらに尋ねた。


「習い事とかは?」

「今は塾とスイミングだけ」

「……成績が落ちたの?」

「うん。中間テストで、六位になってしまって」

「…………うん?」


 美香が首を傾げて固まった。やはり驚くほどの順位だろう。

 光はため息と一緒に情けない自分のことを吐き出す。ここまできたら、申し訳ないが全部聞いてもらおうと思ってしまった。

 震える唇を動かして続ける。もうとっくに足は止まっていた。


「今までなんとか三位以内だったんだけど、いつもより間違ってしまって。お母さんをひどく泣かせてしまったし、学校でも先生に呼び出されていろいろ指導してくれたんだけど。――一位じゃないと、私がここにいる意味はないということですか? て聞いたら、先生も言葉に詰まってしまって」


 つまりそれは、やはりテストができてこそ光の存在意義があるということだ。

 初め、担任からは調子が悪いのかと聞かれた。心配をしている様子はよくわかった。去年も同じ担任だったからか、三者面談で母が言ったことをしっかり覚えていて日頃から光の勉強面に助言をしてくれている。

 そんな親身な先生の期待まで裏切ってしまったのだ。


「私が悪かったのはよくわかるんだけど。でも、勉強しかないのかと思ったら急に胸が苦しくなって。そうしたら息のしかたも忘れたみたいで、本当にダメだな。……勉強しか私にはないのに、それができなかったらなにが残るんだろう」


 なんのために学校に行って、母の言うようによい仕事に就くための手段が失われて、じゃあ勉強を抜きにした光の残りの部分とはなんなのだろう。

 六位になった光。それは周りにとって受け入れ難いものだったらしい。

 応えられるように勉強してきた。いつだって余裕なんてなかった。やればやるほど、自分の知らないことが出てきて果てしない。

 知ることは楽しいはずなのに、毎日毎日必死になっていたから楽しむことなんてずっと前に忘れてしまった。


「光さあ……」


 ここまでずっと黙っていた美香が、髪を耳にかけながら口を開く。今までのころころ変わる表情とは一変して、眉が寄って唇が尖っている。

 不満があるとその顔にありありと書いてあって、光はぐっと奥歯を噛み締めた。がさりとビニールが鳴る。


「テストで六位ってすごいからね?」


 身構えた光に反して、美香が意外なことを言った。


「全部で何人いるのか知らないけど、上から六番目だよ」

「いや、でも、」

「あーはいはい、わかった。光にとっては低いしすごくないんだよね? じゃあ、順番は置いておこう」


 うーん、と星が出始めた空を見上げて、それから美香はにぱっと笑う。


「勉強したことは積み重なってるでしょ。大丈夫だよ、それって光の一部だよ」


 先程の不満の色は一切ない、あっけらかんとした言葉に今度は光が目を見開いた。

 立ち尽くす光に美香が足を踏み出しながらさらに続ける。


「忘れちゃったなら覚え直せばいいし、光の残った部分で違うことやってみるのもいいじゃん。――伯母さんがいないんだよ? 初めてじゃんこんなこと。じいちゃんもあたしも告げ口なんてしないから、伯母さんの言うことなんて無視してさ。ゆっくりしたらいいよ」


 光は返事ができなかった。

 驚きに固まったまま美香をまじまじと眺める。数歩進んだところで、寒いから行こうと振り返った美香を、もつれる足で慌てて追った。

 寒いのに体の奥が熱を持つ。

 叔母と叔父に挨拶をするときも、鍋を返すときも、みんなそろって見送ってくれたときも胸がどきどきして光はまともな受け答えができなかった。それでも、そんなことを気にした様子もない人たちがまたねと手を振って送り出してくれる。

 寒いはずの帰り道は行きよりもずっと短い距離で、あっという間に祖父の家に帰ってきた。

 飯できてるぞというぶっきら棒な声が当然のように出迎えてくれて、光の中の熱が冷めることはなかった。


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