11:たくさんのさよなら
「光、またな。東京でも会おうな」
そう言って一月の真ん中あたりで潤は大学へ戻っていった。
それまでは毎日ではないが、潤の手が空いたときにハウスを手伝ってくれていたし、美香と一緒にお裾分けを届けにきた足で夕食を共にした。
美香も学校が始まって、すっかり静かになってしまう。
連絡先の交換はしているから、これからは文字でのやり取りが増えそうなのでそれはそれで興味深いのだけれど。
「じいちゃん、それなに?」
収穫を終えて光がトラックにイチゴを運んでいるとき。
祖父が小さめのボトルをイチゴの苗の上で振っていた。ぱらぱらとなにかが振りかけられている。
「ダニだな。天敵ってやつだ」
イチゴの害虫にハダニがいて、そのハダニを餌とする別のダニがボトルの中にいるのだという。
捕食させて害虫を減らすために、そういう商品が売られているそうだ。
「農薬使う量を減らせるからな」
祖父は、薬剤散布をしないわけではない。天気予報とカレンダーを見比べたり、ハウスの様子を見て薬を用意しているところを何度か見かけた。光が収穫する棟と農薬を散布する棟が同じにならないよう作業を分担して進めた。
ダニを撒くところは初めて見る。
光は収穫箱を一度置いて、祖父の手元をしげしげと眺める。木屑のようなものが入っていて、そこにくっついているらしい。
簡単な説明をしながら葉っぱの上にパラパラと中身を出して、祖父は全部使い切るとボトルを苗の間に横倒しに置いた。これで終わりのようだ。
ぱんぱんと手を払ってから、祖父がゆっくりと口を開く。
「農薬は使わないに越したことはないけど、今のオレには使わないと病気も虫も全部は防げない。残留しないように使いかたってのが決まってるけど、それでも使う回数をなるべく減らすようにしてる」
光に収穫を任せて、薬を撒く作業をすることだってあった。
虫も病気も出てくる。
イチゴだけでなく畑の野菜も予兆があれば予防用の薬があったし、今のところは大丈夫だが蔓延するとまた別の種類の薬もあるそうだ。
「おまえ、風邪ひいたら薬飲むだろ。農薬も似たようなもんだとオレは思ってる。飲まないが一番。調子が悪くなりそうなときに適切な量を飲む。飲み過ぎは毒になる」
そこまで言うと、一度言葉が途切れた。
イチゴの様子を眺めて前屈みだった祖父がこちらを振り返る。
眼鏡越しの祖父の目が、黙って耳を傾けている光を捉えた。
「別にオレはよ、おまえに農業やってほしいなんてこれっぽっちも思ってねえんだ。ずーっと勉強しっぱなしで親が決めたことでガチガチじゃあ息が詰まるだろ。こうして違うことやってみて、なんか気づくことがあれば儲けもんだ。やりかたも、この先どう進むかも、一個じゃねえって話さ」
めずらしいことに、祖父はさらに続ける。
饒舌な様子に驚いている暇なんてない。光は聞き逃したくなくて、必死に言葉が逃げていかないように努めた。
「光、おまえが期待に応えたいっていうなら、それはそれでいい。おまえがやりたいことをするんだ。周りの言葉に従ったとしても、そうすると決めたのは自分だ。なにするのも最後に決めるのは自分。オレの話に頷くのも否定するのもな」
今はまだ親の言いなりにしかなれないとしても、いずれ、それも近いうちに親元を離れる機会はやってくる。
働いて自分で使えるお金ができたら、今よりずっと自由が効くようになるはずだ。
そのときに、光が与えられた世界しか知らなかったらその敷かれたレールを重たい体で歩いていっていたかもしれない。そんな未来もあると光は理解している。
けれども、それは数ある中のひとつ。
目の前に道なんてまだなくて、自分で作っていくことができるものだと知っている。どうするか、決めるのは自分。
「そういう自由があるってことだ」
祖父のその言葉を、光はずっと噛み締めた。
頷くのも、否定するのも、なんて。
祖父は光へ向けてたくさんの言葉をくれた。きっとそれは光にそうしてほしいという希望があるから言葉になるのだろう。
それなのに、どう受け取るかは光へ委ねてくれるのだと言う。
それは紛れもなく、祖父からの信頼なのではないか。ひとりの、光という人間として向き合ってくれていると、そんなの前から知っていたけれど。
あえて言葉にして教えてくれる祖父の懐の深さに、光は胸がいっぱいで視界がぼやける。
今口を開くと情けないことしか言えなさそうで頷くことしかできなかった。だから、せめてしっかりと大きく頷いた。
この日の夜、光はしまいっぱなしだった教科書を開いた。
夕飯はとっくに食べて、風呂も入った静けさに包まれた時間。
触る気にもなれなかったそれをパラパラと開いて、前髪が一緒に揺れるのと、紙の匂いをひどく懐かしいもののように思う。
目に入ってくる数式に頭の中が勝手に答えを導き出そうとするので、ふうと息を吐いてからペンを握った。
さらさらと動く手は自分で思っていたよりもなめらかで抵抗はない。これなら大丈夫だろう。
この日から、光は毎日手付かずだった課題の山を順番に片付けていくようになった。
暦は、三月。
春までと言われた期限が、やってきている。
何月何日とは言われていない。
だから光は三月に入ったその日の朝、朝ご飯に祖父が手をつける前に口を開いた。
「じいちゃん、私、学校に行くよ」
箸に手を伸ばそうとしていた祖父がハッとしてわずかに目を見開く。
姿勢を正して光は先を続けた。
「勉強していい点をとっていたらお母さんたちも文句を言わないってことだよね。だったら頑張る。それで大学に行って、じいちゃんみたいな人の役に立つことをもっと知って、手伝いができるようになるね」
光にとってできることと必要なことを、ずっとずっと考えてきた。
そして、考えかたによっては初めに悲観したほど悪いことなどないのだと思う。
「お母さんは、私がお母さんの言うとおりの大学に入るなら、たぶんお金も手間も惜しまないんだと思う。――それなら、私はやるしかないんだ。お母さんたちの気がすむまで勉強していい成績をとるよ。そうすれば大学に行けるし、好きなことを勉強できる手段になる」
ここまで手をかけてくれ、感謝はしている。この先もまだ頼るしかないことも多い。だから、期待に応えられたらいいなと思う気持ちも変わりはない。
ただ、以前ほど窮屈に感じないのはここでたくさんのことに気付かせてもらえたからだ。
望みどおりに進学できたらそこでできる範囲で好きなことをすればいいし、その後の進路はもう光がなにを選んでも両親の言葉に従う必要もない。従わずに進めるよう、今の光が頑張ればいいだけ。
「じいちゃんのおかげでやってみたいこととか、もっと知りたいことがたくさんあるんだ。勉強すれば自分のやりたいようにできるなら、やりたい。――だから、帰ります。春になったら学校に行きます」
祖父はなにも言わなかった。
ぐっと押し黙って光を見つめて、それからうなずく。
「おまえがそう決めたならいい」
一言だけなのに、なによりも力強い声援のように思えて光の胸はどくんと脈打った。
「……じいちゃんは、大変じゃない? まだイチゴが忙しいよね」
「変な気を回すな。もともと、オレひとりでできる規模しかやってねえよ。おまえが来てずいぶん楽させてもらったんだ」
「よかった。私、役に立ったんだね」
祖父はそれでも毎月光に駄賃だと言いながらも、しっかりお金を渡してくれている。初めに断った光へ、働いたら働いた分の対価っていうのが手に入るんだよ。ぶっきら棒にそう言っていたが、都内でアルバイトをしたくらいはあるのではないだろうか。
たぶんだが、潤や美香にも手伝った分だけしっかり渡しているはずだ。
力になってもらってばかりの祖父へ、光でも返せたものがあったなら。それがほんの少しだったとしても光の胸をあたたかくした。
「冷めるから食え」
「うん」
ずっと目の前で湯気をたてていた料理へ、ふたりそろって箸をつける。
すっかり空になるまで時間はかからず、すぐにまた昨日までと同じ時間の流れに戻っていった。
母には、光から連絡を入れた。
帰ることと学校に行きたいと伝えたら、電話の向こうで泣いていた。
怒ってはいないことにほっとし、泣かせてしまったことになんとも言えない気持ちになったけれど。大丈夫だ、これならきっとやれる。
こんな締め付けにも期限があると思えば光にとっては希望になった。息苦しさは全部は消えていないけれど、学ぶ環境を整えることを惜しまないのなら。せっかくだ、利用させてもらおう。
そうすれば母たちの言葉に従いながら、光は光でもっと先に自分で生きていけるよう準備ができる。ひとまず、大学まで。そこまで目一杯勉強しよう。
荷物を詰めて部屋を片付け、借りていたブルゾンも綺麗に畳む。このブルゾンは光からねだって祖父に譲ってもらった。
「光、無理ばっかしちゃダメだからね。愚痴言ってもいいんだからね」
昨日、そう言う美香からもらった選別も忘れずに包んだ。美香も、春から専門学校に行くことが決まっている。またね、と笑った顔はやはり明るくて眩しかった。
光は、やわらかな日が差し込む部屋をぐるりと見渡す。
迎えたのは、祖父の家を出る日。
朝ご飯を食べて、朝市に荷を出して。
そのまま軽トラで駅までやってきた。まばらに人がいるホームが向こうに見える。
車が停まって光るが降りると、祖父は完全にエンジンを止めてから運転席のドアを開けた。
駅の前、まだ蕾をたたえた枝ばかりの桜の木の下で光は祖父の顔をしっかりと見つめた。
「じいちゃん、ありがとう」
背筋を伸ばして、一度息を吸う。
「じいちゃんのところに来てよかった。しっかり、頑張ってくる。ちゃんとたくさん食べてたくさん勉強する。だから、じいちゃんも体に気をつけてね」
光に心配されるような祖父ではないが。こういうことは、光の気持ちとして取っておいてもらおう。嫌がらないで受け止めてもらえたらうれしい。
目を細めると、祖父はわずかに視線をそらしてホクロをかいた。でもそれは本当に少しの間だった。
低い声が、誰でもない光へ一直線におくられる。
「光。オレのことを忘れるなよ」
眼鏡越しの眼差し。
「やりたいことやってこい。帰ってきたけりゃ帰ればいい。いいか、オレのこと忘れるなよ」
汽車賃だけはどっかに持ってろ。そうすれば帰れる。ここにまた帰ってこれる。しんどかったら休みに来い。だから、忘れるな。
そんな言葉たちが、どれほど光の胸に焼き付いたのか祖父にはわかるだろうか。
忘れるわけはない。
この先なにがあっても、ここで冬を過ごした光は祖父からもらった言葉も祖父のことも、色褪せずに生き続ける。
ここへ来る前の、狭い世界で立ち尽くす光はもういない。躓いても大丈夫だと、時間をかけて教えてもらった。
「行ってきます」
こんなに穏やかな気持ちでこの季節を迎えられるなんて。
冬の初めにここへ降り立った光に言っても、絶対に信じないだろう。
じっと向けられる視線が確かな見送りだった。光は背筋を伸ばしてまっすぐと歩き出す。
一度も振り返ることはしないで踏み出した足は、光の行きたい場所へいつだって向かえるともう知っている。
あたたかな日差しのなか、光は胸いっぱいに息を吸ってゆっくりと吐き出した。