10:言葉は胸に染み入って
寝て起きると、すっかり日が高かった。
途中で何度か起きた気もするが、アラームもかけずに寝たからすでに祖父の姿はない。
台所に行くと保温にされた炊飯器、コンロには鍋。
祖父が光のために残してくれたのだとわかって、遠慮せずそれを温めてゆっくりと朝食をとった。
気分は、悪くない。
頭痛もしないし胸も苦しくない。自己嫌悪はしっかりあるけれど、たぶん、祖父たちは気にしないのだろうとも思う。あとは光の問題だ。
真っ黒なままだった液晶を見て、光は迷った末に電源を入れた。
明るくなった画面はしばらくなにも言わなかったが、ぶるりと一度震えて着信があったことを告げる。
通知の表示でそれが母からだとわかってしまった。
けれども、光は瞬いてから指を滑らせる。
【口うるさく言わないように気をつけるから、光も頑張ってください】
光は目が丸くなった。
メッセージの初めだけが見えてしまって、いつもと様子が違うと思ったのだけれど。まさか、こんな言葉があるとは思ってもみなかったのだ。
「光! あ、起きてる」
様子を見にきてくれた美香がガラリと玄関から顔を出した。
スマホを手にしている光に言葉を詰まらせたけれど、光は見ていた画面をそのまま美香へ手渡す。
「大丈夫だよ」
昨日の自分も、今の自分も。
そう言った光に、美香は母の綴った文字を見て苦いものでも食べてしまったみたいにうぇっと顔を顰めて、これでよろこんでたらダメだよと唇を尖らせていたが。
光はなんだか、母の言葉がストンと胸に落ち着いた。こんなことを言われたのは初めてだった。
絶対に今までのような勉強漬けを推してくると思ったのに。家で呼吸ができなくなったときも、ひどく取り乱していたけれど光が大丈夫になると課題と問題集の話しかしなくなった母だ。当然のようにこちらの重たい気持ちなど意に介さず、祖父の家にいようが関係なく遅れる授業と課題対策を説くのかと思っていた。
もしかしたら、祖父がなにか言ったのかもしれない。目の前で過呼吸になった光のことを、放っておくような人でもないし。母も母で、人の言葉をまったく受け付けないわけでもないのだ。
そう考えてみたら光は悩んでいることが不要に思えてしまう。なにかあっても祖父のように見守ってくれる人がいて、父も母も光に期待を寄せているだけ。それなら、大丈夫なのではないか。縮こまる必要なんてないのではないか。
昨日、あんなに嫌な気持ちでいっぱいだったのに今の光はもうそれを昨日に置き去りにしている。
心配そうな美香に畑へ行こうと笑うと、そっぽを向いた相手がしょうがないなあとマフラーを巻き直した。
「兄ちゃん手伝ってんの!」
ハウスに着くと、箱を抱えてイチゴを摘んでいる潤が真っ先に出迎えた。
大きな声を上げた美香に潤は澄まし顔で赤色を箱に増やす。
「そーだよ。たまにはじじい孝行しとくんだ」
「あ? 潤ナマ言ってんじゃねえぞ」
奥にいた祖父が透かさず言葉を挟んだが、潤はまったく気にせずにやにや笑った。
「じいちゃん、うれしいくせに」
「うるせー」
「調子いいこと言ってイチゴ食べたいだけじゃんねえ」
しゃがんでパキリと一粒もいだ美香が目を細めてそう言えば、潤が目を逸らして唇を尖らせる。箱の隅にヘタが山になっていた。
「……美香だって食ってんじゃねえかよ」
「じいちゃーん! 何個か食べていい?」
「好きにしろ」
すでにひとつ食べているにもかかわらず、しれっと祖父に許可を求めるのが美香らしい。光は空の箱を手に取りながらそのやり取りを眺めた。
いっぱいになった箱を出口に持ってきた潤が、その顔を覗き込む。
「光、大丈夫か?」
「うん」
それだけで、そうかと言ってポンと頭を撫でてから潤は作業に戻っていく。
光も隣の列に取り掛かることにした。
今日もまた、イチゴが高く売れるのだろう。このタイミングに合わせてちょうどいいイチゴが採れるように育てることは、おそらく光が思っているより難しいはずだ。
葉っぱを掻き分け、実が連なる房から九分くらいまで色の回ったものを選んでいく。
株の根本から出ている黄緑色の茎から、途中で分岐した先に実や花がついている。家系図をぎゅっとしたみたいだなと、不思議な枝分かれを見ると毎回おもしろいなあと思う。
「俺さ、大学出るまでずーっとここにいたのに、実はこうして手伝うのってほとんどしたことなくて」
畝を挟んで反対側に来た潤が、イチゴを摘みながら唐突に言った。
驚いて顔を上げた光へそのまま言葉を足していく。
「ここ田舎だからな、共販だろ? パックにじいちゃんの名前があっても、市場で買われる荷は他の人のと合わせて値段がつけられてる。それって、じいちゃんがいくらうまいイチゴを作っても、みんなより儲かるわけじゃないんだよな。その日の単価とパックの量で決まるから、単価が高いときにたくさん出せるのが一番いいわけで」
クリスマス、年末年始、バレンタインにひな祭り。
イベントに合わせて単価は上がるが、平常時には落ち着くし出回る数が多ければ多いほど下がっていく。
だから、儲かるときにどれだけ出せるかで今シーズンの収入が大きく変わるという。
「本当は自分で販路を確保できたらいいけど、そこまではできないし。だから俺はあんまり共販て好きじゃなかったんだよねー。手え抜いたやつもみんなと同じ値段もらえるしさ。なんだかな~てずっと思ってたんだ」
まあ、手伝わなかったのは面倒だったってのもあるけど。と笑ってから背中をうーんと伸ばして腰をさする。
座りながら前後に進めるようにガーデニングチェアみたいなものへ腰掛けているが、あれはあれでやはり体が痛くなるのである。
イチゴがまだ少なかった頃は座るまでもなかったが、今は中腰で収穫するのは骨が折れる。奥で祖父が使っているが、箱を乗せたまま座れる収穫用の椅子なんかもあった。
座り直した潤は、手際よく箱にイチゴを増やしていく。
「今は職員の人が共販全体で品質上がるように、指導がずいぶん熱心だっていうんだ。研究所の人と通年で生育調査とか講習会やってくれててさ。あと、最近ネット通販もやり始めたんだって? こんな田舎でも結構変わってくことがあるんだなあって思ったら、なんかおもしろいよな」
なんてことないふうに、自分の考えを混ぜてここの出荷や農家の様子を教えてくれる言葉たちに、すっかり光るの手は止まってしまっていた。
「……潤くん、すごいね」
どうやったら傷がつかないで採れるだろう、これはあのパックにちょうどよさそうな大きさだ、色の着きかたが遅くなってきているから量が減りそうだな。
光が気にすることができているのは精々それくらいだった。
仕事としているのならば、もっと先のことや、大きく捉えた見えかたで考えることは必要だ。
また違う視点を知って光は思わず息をこぼす。それに潤が大袈裟だと言いたげに笑った。
「そう? 光だって出荷の流れとか、一年のスケジュールとかわかればもっといっぱい気になることできるんじゃない? 俺はずーっとじいちゃんたちの話聞いたりしてるからこれくらいのことだったら自然に入ってきちゃうだけで、ちゃんと知ろうとしたわけじゃないからさ」
パキッとイチゴをもぐ大きな手。
「こういうのも、勉強なんじゃない? 光、毎日知識を増やしてるんだな」
やわらかな声が紡ぐ言葉が、光の中に降り積もっていく。
なにも残らない、からっぽだと思っていた自分の中には、知らない内に今までと同じものも新しいものも入っているのかもしれない。




