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01:潮風が運ぶもの

 息ができないことが、こんなにも痛くて苦しいものだとは知らなかった。

 焦った顔の担任と周りにいた先生たちが駆け寄ってくる。大丈夫かとしきりに声をかけられるも(ひかる)は必死で、ただただ息がしたいのにできなくて苦しくて悲鳴をあげるように喉を鳴らすしかない。

 誰かが呼んだらしい救急車まできた。隊員のやさしい声に合わせて息をすることができるようになるまで、おそらくそれほど長い時間ではなかったのに光は気が遠くなる思いだった。

 じっとりとした汗で制服がへばりつく。前髪も額に貼り付いていたことに、拭ってようやく気が付いた。


 なにかあってはいけないとそのまま病院に行かされ、呼び出しで機嫌の悪い母親に連れられて家に帰る。過呼吸だった。

 車に乗っている間も家に着いてからも、次の日起きた時にも、母からはぐちぐちと嫌味を言われ重い足取りで学校へ向かったことは覚えている。

 担任が朝一番に声をかけてくれ、その励ましの言葉を聞いたらまた酸素がなくなって、また過呼吸で――それから、学校へは行っていない。

 休みたいとしぼりだして伝えたら、母親は嫌そうな顔のまま好きにすればと不満げな声が返ってきた。

 それからまた、二週間。






 苔むした石段に、赤色の花びらを落とした寒椿。

 ツツジみたいな低木も生えていて、落ち葉と飛び石と、金魚が泳いでいる甕がある。その横には植木や植木鉢がいくつか並んで、わさっと茂ったものもカサカサに枯れたものも関係なく玄関先を賑やかにする。

 初めて来たわけではないのに、こんなだっただろうかとぼんやり思っているとしわがれた声が振り返った。


「光。早くあがれ」


 ガタガタ軋む玄関扉は磨りガラスに模様が入っていて埃っぽい。

 丁寧とは言えない手つきでガラリと開けた祖父の背中は、あっという間に靴を脱ぎ捨てていくから光は慌てて追った。

 荷物をまとめて祖父のところへ行けと言ったのは母だ。父も反対しなかった。ため息をついてそれっきり。

 息苦しくなった光は、逆らう気力も湧かずに言われたとおりキャリーケースとリュックを持って家を出た。電車を乗り継いで四時間。着いた先には軽トラックに乗った祖父がいて、祖父の家までやって来たところだ。


「じいちゃん」

「会わねえうちに背が伸びたな。最後に来たのはいつだ?」


 土間からガラス戸を開けた先は茶の間。

 コタツに新聞の山と空っぽの灰皿、テレビのリモコン。

 光の家であるマンションとはずいぶん違う光景と、独特の匂いがする。懐かしい匂いだ。


「……たぶん、ばあちゃんの葬式だと思う」

「二年ぶりか。おまえの母ちゃんは寄り付かねーからな」


 がははと笑った祖父は、記憶と変わらず鬼瓦みたいに鋭い目をニヤリとさせて、ひん曲がった唇から嫌味とも冗談ともつかないことを言う。

 薄茶色の大きなレンズの眼鏡越しだけど、小さな子供だったら泣いてしまうかもしれないなあと光は思った。実際に自分が幼い頃にはここに来て泣いた気もする。

 左目の横にある大きなホクロをぽりぽりかいて、祖父は上がり框のキャリーケースをよいせと中へ運んだ。


「昼飯は食ったのか」

「新幹線で弁当を食べたよ」

「じゃあちょうどいいな。一時になったら出かけるからよ、荷物出したり適当にしてろ。奥の部屋好きに使え」

「うん」

「きれぇなカッコはすんなよ」

「う、うん?」


 きれいな格好? なんだろう。

 光は自分の服を見るが、シャツに薄いセーター、チノパン、上着にはグレーのコートだ。余所行きというものでもない。このままでいいかとひとりで頷いた。

 示された扉をそっと開ける。

 外でごうごういう風に、木枠の窓が飽きもせずに揺れて音を立てていた。

 色褪せた畳の部屋は押入れの襖と、小さい箪笥と、足が折り畳めるテーブルがあった。変な模様のカーテンがタッセルでとめられていて晴れの日差しがここまで届く。

 背負いっぱなしのリュックを下ろしてキャリーケースの横に並べた。畳を数えたら六枚。両親とここへ来ても日帰りするばかりだったし、祖母の葬儀のときはホテルを取った。泊まるのは初めてだなと光は思う。

 泊まっていけばいいのにと祖母がよく言っていた気がする。その声が頭の中で懐かしく響いたと思ったが、祖母の声が合っているのか自信がなくてそんな自分にため息がこぼれた。


 石油ストーブと座布団。

 付け足しだと言わんばかりに持ってきたものを置いた祖父は、光の格好が変わっていないことに口をへの字に曲げた。

 ちょっと待ってろと言ってドスドス廊下を戻ってから、すぐにナイロン生地のブルゾンを持ってきた。袖口や首元がよれよれで少しタバコのにおいがするが、ふわりと軽い上着だ。


「そんないいやつダメにするぞ。こっち着とけ」


 受け取るや否や、祖父はじゃあ行くぞと玄関を示した。申し合わせをしたかのように、ボーンと時計が低く唸る。

 テレビでしか見たことのないタイプの時計に後ろ髪引かれながら、光は靴を履いて祖父の背中を追う。玄関はガラガラと大きな音で閉められた。

 石段を降りて、小道を下って道路に出るとコンクリートの塀の向こうは船置場、その向こうには青い青い海が広がっている。見通しのよい海を前に、びゅうと吹く風が光の短い髪を混ぜて去っていく。


 さざんさざんと波の音とウミネコが鳴く声が響いて、ああそうだったと光は息をこぼした。

 ここはいつでも潮の香りがして風が強くて、じいちゃんとばあちゃんがミカンをくれたり飴をくれたり。数えるほどしか来たことがないのに、そんな記憶がぽつりぽつりと光の中へ戻ってくる。

 軽トラに乗ると、落花生の飴の袋に入った黒飴が渡されたので光はコロコロと口の中でしみるほど甘いそれを舐めた。

 自分の中に残っていたわずかな懐かしさが形を取り戻したみたいな気がして、光は苦しいような重たいような胸からゆっくりと息を吐き出した。窓の外を流れていく海が眩しかった。


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