二枚目:論語
渋沢栄一という人がいます。
昨今話題になっていますね。次の一万円札の顔になる人です。江戸末期から明治大正昭和にかけて生きた人です。
彼は日本資本主義の父と呼ばれています。銀行作って会社作って色々やって……そうやって彼の携わった事業や会社が今でも存続してたりします。すごいですね。マジビッグなファーザーです。笠間屋灯が好きな歴史上の人物の一人です。
そんな彼が行動の指針としたのは「論語」でした。
彼の遺した著書も「論語と算盤」。端的にしてスタイリッシュです。
ということで、今回は「論語」です。
古典と呼ばれるものの中で、今なお聳え立つ最高峰にして初心者向け登山道です。
今回も、ちょっぴり精神を背伸びしたいお年頃な人向けの内容になりました。
論語というのは孔子という大昔の人が、弟子とキャッキャウフフしているやり取りを記したものです。
ウフフは賛否両論ありでしょうがキャッキャはしてます。
「子」というのは「先生」という意味くらいで思っていて構いません。現代風に言えば、「孔先生」です。
今風のタイトルにすると「孔先生と愉快な弟子たち」とか「放浪していたらいつの間にか日常を世界にばらされていた件について」とか「先生の冒険を知りたかったけど本人が書かなかったからもう遅い、弟子が書き記して置くしかない」とかそういう感じになります。
ちょっと違うか。
最高峰にして初心者向け。
矛盾したものを両立することは、あまりありません。どちらにか傾くのが常です。
ですが、これに至っては両立してしまっています。触れてみてもらわなければピンと来ないことなのですが、触れる年齢によって捉え方などが変わってくるのもあるからです。
とりあえず先にすすもうと思います。
倫理観や常識の基礎となる考え方というのは、国によってそれぞれ違います。ですが、大抵の場合、宗教の教義が礎になっています。その礎の上に、世の中の様々なルール、法律などが決められていきます。
日本の場合は、世界から見ると少し珍しいパターンです。
神道の穢れと祓いの概念。仏教の死生観。そして儒学の「道」。これらのハイブリットだと言われています。
私もそんな気がしないでもないなぁと思っています。もちろん所説あります。
日本の倫理観の一端を、儒学の基礎である「論語」が担っているといっても、当たらずとも遠からずなのです。
論語は孔子が言ったことを記してある書物です。
なので、子曰く(先生がいわれた)と始まる文がほとんどです。
いくつかパラパラと書かれていることを抜き出して見ましょう。
先生がいわれた
「自分の祭るべき(先祖の)霊でもない神を祭るのは、幸運を欲しがってへつらっているだけだ。してはならないことをするのはよろしくない。反対に、行うべき正義を目の前にしながら、それを行わないのは勇気がないのだ」
こんな具合に書いてあります。細かいところは訳する人で左右されたりしますのでご了承を。
この訳文の最後の一文を抜き出してみますと……
『見義不爲、無勇也』
義を見てせざるは勇無きなり。
既に読んでいる人なら、最初にこれかと思うかもしれませんが、パッと出てきたのがこれだから許してください。
いつもイチャイチャしたパラダイスを読んでいる忍者の先生が使っていたので、有名かもしれません。
意味は「義を見てしないのは勇気がないだけ」といったところでしょうか。
当たり前、と言われるかもしれませんが、その通りです。論語なのですから。倫理観の礎を成している書物なのですから。
主人公の葛藤でよくある話です。義を見てするのが主人公だと思っています。ジャンル問わず。主人公たちは、様々な葛藤があるかもしれませんが、結局は踏み出します。勇気を振り絞るわけですね。拙著の主人公の根底にも、こびり付いています。
古今東西今昔数多の物語は、この一説を浸透させるためにあるのかもしれません。嘘です。調子に乗りました。
「義」とはなんだろうと考えて見ると「やらなければならないこと」「理に適うこと」「正しいこと」などが当たるでしょうか。単純に「正義」「義務」なんて言葉でイメージするのもいいかもしれません。
ちなみに「義」は五常と呼ばれるもののうちの一つです。覚えておくといいかも。陰陽師を目指すなら必須科目です。
最近の世は「触らぬ神に祟りなし」が先行してそうですね。
これは試験に出そうですね。対義語は何でしょうか? みたいな問題として。
こんな感じに色々書いてあるのが論語です。続いて行ってみましょう。
子曰、『知之者不如好之者。好之者不如楽之者』
之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。
意味は、「物事を理解しているだけの人は、好きな人には及ばない。好きなだけな人は、楽しんでる人には及ばない」
もうわかりますね。好きこそものの上手なれ、と同じ感じです。
ビジネス書によく書かれる内容をさらっと記しているわけです。当たり前だと思った方もいるかもしれません。その通りです。礎というのは堅固ですね。
小説サイトでもりもり物語を書いている人たちがたくさんいます。そんな彼らはどの段階にあるのでしょうか。
小説を書く方法を知っているから書けているのでしょうか。小説が好きだから書いているのでしょうか。うひょひょたーのしー! アハハー! なのでしょうか。
ちょっと知りたいところですね。
アヘアヘしながらやれることが見つけられたら、それは人生において素晴らしい出会いでしょう。
世間を見回すと、その段階にある人は容易に見つけられますね。
さかなクンは間違いありません。楽しむ者です。
他にもいっぱいあるんですが、続けると指がつるので次でおしまいにしましょう。
『君子和而不同。小人同而不和』
君子、和して同ぜず、小人、同じて和せず。
意味は「君子は親しみ協調するが、小人はよくつるむが内心仲良くない」みたいなところでしょうか。訳者によって表現はだいぶ違うのでご容赦を。
君子というのは、立派な人、という意味があります。
小人というのは、子供と言う意味ではありません。しょっぺぇやつ、立派じゃないやつ、という意味です。
以心伝心、独立独歩、面従腹背、付和雷同、なんて四字熟語のハイブリッドな感じですね。
そんなような意味がある一文です。
この一文は現代人に必要だと思う言葉、私的一位です。
君子の集まりでは、意見が真っ向から対立しようとも、信頼は崩れません。
対して、小人の集まりでは、意見が違っていて、それを表明したらグループから外されたりしてしまいます。それを恐れて自分の意見を別にして同調したります。
学校でも、会社でも、組織の和を乱さないことが大切だと言われたりします。その和というのは君子の和なのか、小人の同なのか。
残念ながら、現代の日本では小人の同が多勢を占めている気がします。
キリスト教の偉い人の会議では、「悪魔の代弁者」と呼ばれるものを置いています。わざと会議の内容に賛同しない意見を提示する係です。
ユダヤ教では全会一致の決定は無効とされています。
華僑の教育でも知恵者が反駁する意見をわざと言ったりします。
論語をはじめ、古今東西人類の書は、知恵の英知へのルールの一つとして、意見の相違を歓迎して利用しているようです。
現代の……げふんげふん、これ以上はいけない!
昨今の疫病禍の中、主体性を失わず、協調性も失わない、離れていても認め合っている、そんな人間関係が出来たら、将来、何かいいことがありそうな予感がします。
論語は江戸期の藩校や寺子屋の授業でもちろん扱っていて、その前の時代でも知識層に親しまれています。文章スキー家康公も太源雪斎の前で素読をしたかもしれません。
歴史の人物に思いを馳せながら触れてみるのもいいかもしれません。
渋沢翁気分で、隙間時間に目を通すのもいいかもしれません。
初心者で原文そのまま読める猛者はいませんので、解説がひっついてたり、わかりやすい訳文があるものを選ぶといいでしょう。
あ、今書いた内容をそのまま鵜呑みにするのはいけませんよ。
儒学のテーマは「中庸」です。
ほどほどがよろしいという意味です。
ではまた。次の三枚目は何にしようかしら。