第三章
第三章
時は少し戻る。
帝都ファイガールに残っていたレイは、膨大な量の情報と格闘していた。
師匠であるグローブと行った調査は、あくまでも幻獣のおおよその種類と出没箇所の特定であり、詳細の確認についてはレイに任されていた。
レイの補佐として帝都に残ったサルザスは、情報を記載した用紙の量を見て改めて驚いた。
幻獣に関しての記録はこれほどあったのか。
今回、大型と思われる幻獣として三頭が挙げられており、その幻獣の正体を探るのがレイと補佐であるサルザスの仕事である。
小物の幻獣もいるが、首座達の予言からすると、大型の幻獣であろう。
正体の特定が急がれた。
記録の伝承をまとめると帝都に近いものが比較的新しく、国境付近に近い場所に伝わる幻獣が一番古い。
今まで調べた情報から、帝都に近い二頭に関しては、伝承の域か伝承が現実であっても既に死滅しているものと思われた。
この二頭に関しては、死したことが複数の伝承から確認出来ている。
実際に場所を特定し、幻獣が本当に死滅しているのか。
この確認はグローブの仕事だ。
その時、レイはせっせと書状を書いていた。
行儀が悪いと分かっていながらサルザスはそっと覗き見る。
文章的には時候の挨拶と、この前遭遇したという犬の話であった。
サルザスの頭脳の中で『???』の印が飛び交っていたが、レイは我関せずで文章をどんどん書き進めて行く。
そして封筒に封をすると、同じ文章の書状をもう一通書きはじめ、同じく封をした。
「サルザス殿」
覗き見した後の居心地の悪い顔で振り向いた彼の様子には全く触れず、レイは訊ねた。
「第一の幻獣の遺骸がありそうな場所から北に進んだ一番近い町には宿は二軒でしたよね?」
「そうですが……」
「では、お願いがあるのですが……この封書をそれぞれの宿に届けて頂けませんか? そして師匠達が着いたら渡すよう伝言して欲しいのです。もし十日経っても現れなかったときは破棄してもらうよう併せて伝えて頂きたいのですが……」
「――――宿の者が引き受けますかね?」
「ですから、心付けも一緒にお願いしたいのです。それで引き受けて頂けると思うのですが……」
「分かりました、やってみましょう」
――――これが後日グローブに届いた手紙であった。
さて、問題は第三の幻獣だ。
伝承として伝わっている地域が広く、北の国境付近を中心に広域に渡っている。
この幻獣は、確認対象の中でも古い部類に入るため、語り継がれるうちに、他の地域にも伝わったことも考えられたが、この件を考慮に入れたとしても範囲が広く、幻獣が実在していたとしたら、現れた規模そのものが大きい、もしくは人々に与えた影響が大きいと推測された。
そして……
この幻獣のみが、末期がはっきりしていない。
『眠りについた』や、『どこかへ旅立った』などといった内容で話が締めくくられており、『死んだ』という表現で伝わっている伝承は全く見当たらないのである。
この幻獣が、首座達の示した予言の幻獣であった場合は……考えるだけで恐ろしい。
「厄介だな」
情報はこの第三の幻獣を中心に集めなければならない。
レイは伝承を記録した用紙を纏めながら、ひとり考えに耽った。
過去の戦闘時における陣形の確認のため、閉架書庫を訪れていたライザールは、閲覧室で資料と向き合うレイの姿を見かけた。
足を止めたのは、興味半分からだった。
――――自分より年若い少年が、公的な立場で、知的な職に就いている。それも身分など関係ない立場で。
もっとも、ライザールの中では『幻獣に関しての学士』が実用的な職であるとは捉えていなかったが、貴族達のように遊び惚けていたり恋愛に現を抜かすでもなく、知識を求めて公の立場で行動するレイには新鮮なものを感じていた。
睨むように資料を眺めていたレイが視線を感じふと顔を上げたとき、ライザールと目が合った。
「殿下、これは失礼をいたしました」
慌てて立ち上がったレイに向かってライザールは片手を上げることで制し、そのまま席に着くよう促した。
「進捗状況はいかがです?」
皇子でありながら、智恵院の学士の立場にあるレイに丁寧に接してきていた。
聖剣『黎明剣』の主で近衛師団の大隊長、皇位継承権を持つ皇子……。
剣の実力があり、立場からかその場に居るだけで威圧的な雰囲気を漂わせ、寡黙な人物といった印象を持っていた。
このため、レイは直接話しかけられた事に、おやっと思った。
「お恥ずかしい限りではございますが、全貌の特定には至っておりません」
レイは思いを隠しながらそう言葉を返し、現在判明している内容について概要の説明を始めた。
ライザールは定期的にサルザスから報告を受けている。このため、調査の進捗状況について、大まかな内容は理解していた。
しかし、今回の説明を聞いて驚いた。
調査の内容ではない、話の内容に対してである。
ライザールは、レイやグローブとは積極的に関わろうとしていなかったため距離を置くような状況におり、また、実際に言葉を交わすのはグローブが主であったため、レイと直接会話するのは今回が初めてと言ってよかった。
彼の話は要点を的確にまとめられており、状況から推測される事案や、そして検討の上の私見などが報告の中に含まれ、話の調子もよく、小気味よい感じで説明が進んでいった。
レイは皇子との会話に緊張する事は無く、敬語は使っていても自然体で話をした事に好感を持った。
レイの研究対象は、ライザールの生活や大隊の本来の仕事とは直接関係が無く、今まで興味を持たなかった分野ではあったが、貴族との会話とは全く違う実りのある話だった。
ライザールが、レイに興味を持った瞬間だった。
レイが話を進める途中で昼食時を伝える時計の音が鳴った。
「昼食はいかがですか?よろしければ昼食を挟んでもう少し話を伺いたい」
いつもであれば、昼食を忘れて調査するレイに、健康管理も仕事のうちとサルザスが食堂まで半ば引きずるように連行していた。そしてその光景は、現在、日常の風景と化しており、士官食堂の名物となりかけていた。
本日はいつもと違う展開に驚く事となったが、無碍に断るのも失礼かと思い、レイは了承した。
ライザールは、皇族よりも軍人としての立場を優先する人物として周りから聞いていた。
また、自身でもそのような評価をしていたレイは、特別大隊の司令室に向かう彼を意外に思った。
そんなレイに気づいたのか、ライザールは苦笑して説明した。
「私が士官食堂に行くと、特別大隊以外の所属の者は緊張して食事が出来ないのです」
なるほどとレイは思った。
確かに、主筋である皇帝の一族、しかも皇位継承権を持つ皇子が直ぐ傍に居るのでは、食事が喉を通らないだろう。
部下達の事を考え、自分の執務室で食事を摂らなければならないライザールに対し、身分が高すぎるのも困りものだと思った。
司令室に入ると、ブレッブが上官の帰りを待っていた。
「ブレッブ、食事の手配を頼む。シルフォード殿の分もだ」
ブレッブはその言葉に驚いたようであったが、何も言わずに二人のお茶を準備した後、ライザールに対し軽く礼をして手配のため司令室を後にした。
部屋に残ったレイは改めて司令室を見た。
今までこの部屋に入室したのは、二回。
初めて特別大隊を訪れた時と、グローブがキンティスを伴って旅立つ時である。
司令室には大きな窓があり、窓の外には露台が設けられている。
その窓の手前には隊長用の執務机があり、直ぐ横には補佐用の執務机があった。
来客用の応接卓が少し離れた場所にあり、ブレッブの煎れたお茶が置かれていた。
ライザールが応接卓横にある椅子に腰掛け、レイは進められた椅子に座し、お茶を一口飲んだ後、報告の続きを行った。
報告が一段落した後、ライザールが雑談とも呼べる話題を提供して来た。
「貴方は、一度古書の文字の中に意識が入ると、食事も忘れてしまうと聞いた」
レイは、ライザールに対し思っていたほど堅苦しい人物ではないかも知れないと思うようになっていた。
「だらしないとお思いでしょうか?」
「いや、それは集中力があると言うことだ。食事を忘れて没頭できる事があると言うことは素晴らしいことだろう。だが……」
一度言葉を止めたライザールをレイは不思議そうに見た。
「サルザスが言っていた。文字の中に入り込むのは午後にして欲しいと」
一瞬置いて、レイが小さく笑い出した。
「それは申し訳無い事をいたしました。毎度の昼食の事を言っているのですね。お恥ずかしい。この頃気がついたら本を持ったまま彼に引き摺られて食堂に行っているのです。いつもであれば師匠に対して私が同じ事をするのですが、今回は彼に甘えてしまっているようです」
「ほう、それはまた、頼もしい」
「頼もしい、でしょうか?」
「ええ、頼もしい。サルザスにそこまでさせる貴方も、智恵院の導師にそこまでしてしまう貴方も」
「……行いを改めるべきでしょうか」
恐る恐ると言った感じでレイはライザールに訊ねた。
それは、智恵院の練士ではなく、少年から大人への階段を上りかけている、少年が大人に問う仕草だった。
何も飾らない、自然体で居る彼に、ライザールは思うままを言った。
「貴方はそのままでよいのではないでしょうか」
「そうでしょうか」
「そうです」
すぐに返ってきた答えに安心したのか、レイはそのままお茶を飲んだ。
その後、食事を持って来たブレッブも合流し、食事を進めて行く。
が、ブレッブはあくまでも今回は聞き役に徹し、会話には入って来ないようだ。
「貴方はどのような国を訪ねたことがあるのですか?」
問いの意図が分からず、レイはライザールを見つめた。
「私はこの国と近隣諸国にしか足を踏み入れた事がありません。ですから、興味がある。貴方は智恵院の練士です。この東の大陸以外にも訪れた大陸はありますか?」
レイはライザールをじっと見つめた。
ライザールは静かにレイを見つめ返す。
腹の探り合いではなく、純粋に興味を持っているらしい。
レイは肩の力を抜いて返答した。
「今回の東の大陸で、四大陸全てに足を運んだ事になります」
世界にある四大陸は、大陸によって特色がある。
北の大陸は、雪に囲まれる期間が長いためか、勤勉なものが多く、工芸品の制作においては質の高い物が多い。
南の大陸は、暖かい気候のためか、漁業に携わる者が多く、気質は大らかなものが多い。
西の大陸は、乾燥地帯が多いためか、治水に関しての技術が高い。
東の大陸は、四大陸の中で一番気候が安定した土地であり、農耕や芸術に携わるものが多い。
その東の大陸の中でも、帝国が領土とする地帯は肥沃な土地である。
現在は、帝国の国力が安定しているため、力づくで国土を奪おうとする国は無いが、少しでも揺らぐと目を付けられてしまう、他国から見れば魅惑的な土地であった。
「どの大陸が印象深いですか」
「どの大陸もそれぞれ趣深いので一概にこれとは……ですが、この国は緑が美しいですね」
その言葉に、寡黙という印象を受ける皇子の口元にうっすらと笑みが浮かんだ。
態度には表れにくいが、国を愛し、大切に護ろうとしている皇子の姿を垣間見る事が出来、この国はよい皇子を持ったと思った。
時間はあっと言う間に過ぎ、午後の勤務の時間帯になった。
司令室を辞す挨拶し部屋の扉を開ける前に、レイはライザールに向かってこんな事を言った。
「殿下、申し訳ありませんが、私に対して敬語をつかうのはお止めになって頂けませんか? それと『レイ』と名を呼んで頂けると私としては助かります」
「何故? 理由をお伺いしても?」
「一として、私は殿下よりも年下です。二として、私は智恵院に所属しておりますが、私は一介の『練士』、師匠のような『導師』としての立場なら分かりますが、私は敬語を使われるような立場にありません。三として、私は師匠や他の学士から名前で呼ばれておりますので、姓でよばれる事に慣れておりません。以上から普段通りの話し方をされる方が、私としては話しやすいと言う事になります」
つらつらと並べられた理由に唖然とするも、ライザールも返答した。
「分かった、そうしよう。では、俺の望みも聞いてくれるか」
その言葉を聞いて、レイはライザールに正対した。
「俺にも敬語をやめてほしい。君とは対等の立場で話をしたい」
「それは出来ません」
間髪入れずに戻った返答に、ライザールは次の言葉がすぐに出てこなかった。
「それは、何故?」
少し間を置いての質問に、レイは直ぐ様答えた。
「この国で殿下に敬語を使わずに話をしたとしたら、周りの紳士淑女から袋だたきにされるか、視線で射殺される状態になると思われます。そういった環境では、仕事がしにくくなりますため、ご免被りたいと存じます。では、失礼いたします」
軽く会釈をして、レイは司令室から退出した。
ライザールは呆然と聞いていた。
あくまでも控えの立場を貫いていたブレッブは、レイの勢いに押されていた。
そして、ライザールの呟きを拾ってしまう。
「なんか、俺だけ約束させられたような気がする」
その言葉を聞いた時、ブレッブは思わず吹き出していた。
「色々な意味で、殿下の周りにいなかった型の人間ですね」
「全くだ」
ライザールは、レイとの会話を楽しんでいた事を自覚していた。
そしてサルザスから引き継いだ一件について、問い質す事が出来ない自分がいた事にも気づいていた。
それから数日後――――
閉架書庫の閲覧室を占領し、主に第三の幻獣について調査を進めていたレイをブレッブが訊ねて来た。
「上将がお呼びです」
レイはサルザスを伴い、ブレッブの後をついて大隊司令室へ向かった。
「上将、お連れしました」
ブレッブの入室に続き、部屋に入ったレイは、ライザールの執務宅に向かった。
「御用でしょうか」
レイの斜め後ろにはサルザスが控えた。
「君宛の書状だ」
ライザールから書状を受け取る。差出人はグローブだった。
「この場で確認させて頂きます。小刀をお借りしても?」
ブレッブが差し出した封書用の小刀を受け取ると封筒を開いた。
内容を確認すると、書状をライザールに渡した。
「確認しても?」
「貴方がたの協力なくば、ここまで順調に調査は進みませんでした。御礼申し上げます。書状にもありますが、一番帝都寄りの幻獣について調査を終えたようですので、今頃、二頭目の調査に移っていると思われます」
「早いですね」
これはサルザスの囁きだ。
「こういった調査を導師は得意としております。追って二頭目の報告も近々くるでしょう」
書状をライザールの手元に残したまま退出しようとしたレイに、ライザールは書状を戻した。
書状を手にしたレイは、静かに頭を下げ退出して行った。
部屋に残ったサルザスは、ライザールに向き合った。
「彼は、この件に含みはないと、他意はないことを自然に表されましたね。」
「そのようだな。隠れて何かを行っている訳ではない。むしろ何かを伝えられずに隠している、といったところか」
的確に表している、サルザスはそう思った。
「第三の幻獣について、情報が少なく、特定が難航しておりますが……どうもシルフォード殿が焦っているように見受けられます」
「焦っている? 彼がか?」
「はい、上手く隠していらっしゃるようですが、私には、焦っているように、切羽詰まっているようにお見受けします」
ライザールは考え込んだ。
遺跡の調査だ。伝承の位置と異なる場合も多々あり、見つからない事も多い。見つからなくても研究に影響はあるかも知れないが、現在の生活には支障はない。見つからない事が彼の責任になるといったことも無いだろう。何故焦る必要がある?
「……サルザス、引き続き彼を補佐してやってくれ」
そう命じ、司令室からサルザスを退出させた。
「ブレッブ、北方の様子はどうだ?」
引き続き探らせていた北方の状況について、問い質した。
「相変わらずのようです。不明になっている小隊と連絡が取れたとも聞きませんし、伝令が見つかったとも聞きません。ただ、妙な事になっているようです」
「妙な事とは?」
「飛竜の事ですが、北に向かおうとすると妙に怯えて飛ばなかったり、戻って来てしまうのだとか。再調査の部隊も飛竜が使えず、国境二つ手前のタルダの町へは馬で、その先は徒歩で移動しているようです」
「飛竜と馬が、北を嫌がるか……」
人が感知し得ない何かを動物達が捉えているのかも知れない。
グローブ達の調査も、もうすぐ国境付近に差し掛かる。安全を考え調査中止を命じた方がよいだろうか。
だが、事態はこの後思わぬ方向へ進んで行くこととなる。
大隊司令室を退室したレイは、閉架書庫の閲覧室に戻り資料の中に埋没していた。
いつの間にか文字の波の合間に入り込んでいたらしい。
既に辺りが暗くなって来ていたため、他の資料の確認は後日にまわそうとした。
今確認している資料は『古今史伝承録第六巻』
主に伝承として伝えられている歴史をまとめた本である。
読み進んで行くと、この本の一部に、第三の幻獣について触れられている部分があった。
注意深く読むと、今までの資料には触れられていない内容をかなり含んでおり、信憑性は高かった。読み進んで行き、ある一文で目が完全に止まった。
その一文から目が離せない。
頁をめくる音が止まり、考え込んでしまっているレイに気づいたサルザスは声をかけた。
「シルフォード殿?」
はっと気づいたレイは、慌てて資料に戻ろうとしたが……。
「失礼、よろしいか」
その言葉と共に、サルザスが資料を取り上げ、目を留めたであろう文章を読み、その一文を口にした。
「幻獣は、リュキュソールの騎士五人に封印された……」
リュキュソールの騎士
カルディス智恵院に属する騎士であり、現在「平和の騎士」として広く知れ渡っている。
智恵院よりもリュキュソールの騎士が所属する騎士団の方が歴史は古く、カルディス智恵院が設立されると智恵院に属する騎士団となり、現在に至る。
リュキュソールの騎士は、自然を感じ使役する特殊な力を持つとされ、厳しい戒律のもと任務にあたっている。
力を持つものが少なく、また、騎士として修行を終えられるものがさらに少ないため、リュキュソールの騎士を名のれる騎士は少数である。
扱う武器も特殊であり、光の刃を持つ光剣を持ち、飛竜の一種である銀竜に騎乗し、銀竜とは生涯を共にすると言われている。
「リュキュソールの騎士にお会いになった事はありますか?」
「……あります」
「どのような感じです?」
「普通の人です」
「普通の?」
「そうです。何処にでもいるような人々です。ただ……本気で戦った場合、特に上位の騎士であった場合は、一介の剣士であれば剣圧で飛ばされるでしょう。この国で相手が出来るのは、聖剣の主であり剣士としても一流であるライザール殿下だけだと思います」
まさか。
冗談だと思ってレイを見ると真剣な顔をして腕を組んで考え事をしていた。
「リュキュソールの騎士、五人……」
深く自分の思考の中に入り込んでしまったレイに、引き戻すために声をかけた。
「シルフォード殿?」
また、はっと気づかされる事となり、サルザスに謝った。
そして、一言。
「今日はここまでとし、後は明日にしましょう」
レイの様子がおかしい事に気づきながらも問い質す事ができず、そのまま二人は閉架書庫を後にした。
翌日、空は雨模様だった。
窓を流れ落ちる雨粒をそれと無く見ていたレイを見つけたサルザスは、レイの顔色が悪い事に気づいた。
「シルフォード殿、大丈夫ですか?」
「ええ、昨夜根を詰めて調べてしまって睡眠不足なだけです」
サルザスは眉をひそめた。
ここ暫くレイと行動を共にしていたが、自己管理が適切に行われており、今回のようなことは初めてだった。
サルザスの頭を、昨日の文章が蘇る。
だが、彼には問い詰められなければならないような要因について、思いあたらなかった。
「今日は無理せず、お休みになったらいかがです?」
サルザスは勧めたが
「ここで休んでしまったら、師匠に怠けていると怒られます」
と茶目っ気を交えて言われてしまえば、それ以上休息を勧める事が出来なかった。
ちょうど書庫へ向かおうとしていた二人のところへ、ライザールが通りかかった。
彼もレイの顔色が悪い事に気づいた。
「顔色が悪いな」
少し体を傾け、顔を同じ高さにしてレイの顔を覗き込みながら、ライザールは言った。
「サルザス殿にも言いましたが、根を詰めてしまっただけです」
青い顔をしたレイは、平気だというように、少し困ったように笑って見せた。
だが、ライザールは騙されなかった。
「ここにはグローブ殿が居ない。ここで調査の指揮を執っているのは君だ。その君が調子を崩していてどうする。休むことも大切なことは知っているはずだ」
「大丈夫です」
青白い顔色で、レイはにっこりと笑って見せた。
ライザールには強がっているようにも見える。
「今日はいつもより冷える。そんな状態で閉架書庫へ行ったら、今よりも体調を悪化させてしまう。閉架書庫よりは俺の司令室の方が暖かい、俺の部屋を使って調べたら良い」
妥協案を示して見せたのだが、レイは拒んだ。
「殿下の執務室とは滅相もない。ご心配には及びません」
譲らないレイに、ライザールは一つ軽くため息を吐く。
そして屈みこむと、レイの背中と膝の裏に手をまわし、レイを抱え上げた。
いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
「ひやぁぁぁ!」
レイが思わず声を上げ、ライザールの胸元に抱き着いてしまった。隠しきれなかった声が出てしまった、思わず反射的にしてしまったという感じだ。
そして、ライザールはというと……。
――――軽い、軽すぎる
それが、第一の感想だった。
そして、第二の感想はというと……。
――――柔らかい
これだった。少年とはいえ、男というものはもっとごつごつと骨ばっていないだろうか。自分の時はどうだっただろうかと考え込んでしまったが、ふと、微かだが、本当に微かな感じであり、気のせいと言っていいほどのものだったが……血の匂いを嗅いだ気がした。超至近距離になったからこそ分かったようなものだ。
「君、どこか怪我をしているのか?」
すぐ近くにある顔を覗き込んで、ライザールはそうレイに問うた。
「いえ? 特に何もありませんが……」
キョトンとした顔で、ライザールに向き合っていた。
全くの素の顔を晒したままで。
何を言っているのかといった感じだった。
だが、そんなレイを見て、ライザールは眉をひそめた。
「……微かだが、君から血の匂いがする。皇宮で血の匂いとは、あってはならないこと。そして智恵院からの使者である君を害するなど以ての外。誰にやられた? どんな風貌の者だ? 隠さずにはっきり言って欲しい。まずは手当だ。……サルザス!」
今まで忘れ去られた存在だったようなサルザスに声がかかった。
「は、はい!」
裏返りそうな声を何とか抑えて、サルザスが返事した。
「手当道具一式持って、俺の部屋へ来い」
ちょっと待て! 一体どうしてそういう話になる?
話を大きくしてはならない、そう考えて、レイを抱えたままでその場を去ろうとしたライザールを、レイが慌てて止めた。
「殿下、違う、違うんです」
勘違いをしているライザールを止めなければならなかった。
「違うんです」
レイはすぐ近くにある瞳を見つめた。
その視線を訝しがる。
「違う? 何が違うというんだ?」
ライザールはレイを抱えた腕に少し力を込め、軽くゆするようにした。
続きを促したのだ。
「ですから、殿下の思い違いなのです」
「思い違い?」
「はい」
サルザスは自分がこの場にいるのは邪魔な気がして、存在を消していた。
「私は怪我などしておりません」
その言葉に、さらに眉がひそまる。
「だが、血の匂いが……」
「ですから、怪我ではないのです」
そう言って、レイは顔をそむけた。
心なしか、少し頬が染まっているようにも見える。
「怪我ではない?」
「……」
「レイ?」
「……」
背けた顔をこちらに向けるように言うと、渋々ながらライザールを見上げた。
「怪我をしたわけでもありませんし、誰に害されたわけでもありません」
レイは瞳をライザールに向けた。
「……つ、月の障りが……」
「……?」
言っている意味が分からなかった。
ライザールはじっとレイの瞳を見つめた。
レイは上目に、少し睨めつけるように見詰めると、開き直るようにこう言った。
「ですから、月の障りが来てしまったと言っているのです」
その場に居た男性成人二人は無言のまま立ち尽くした。
――――月の障り?
…………
「……き、君は女性か!?」
驚いたようにライザールが言う。サルザスは放心したようだ。
「ご存じではありませんでしたか?」
「君は一言も言わなかったではないか!」
焦ったようにライザールが言う。
だが、レイは再びキョトンとしてこう言った。
「自己紹介で自分の性別を言う方は、普通居ないでしょう?」
その通りだ。
「すでにご存じかと思っておりました」
「……」
「騎士は体の動作で見分けられると思っておりましたし……」
男性二人はぐうの音も出なかった。
見分けられなかったからだ。
「全くそんな素振りは……」
恐る恐るといった感じで、サルザスが言葉を発した。
自分は彼女と居た時間が一番長かったはずなのに、疑問にも思わなかった。
きびきび、颯爽とした動き。
――――少年と疑わなかった。
思い込みとは、怖いものだ。
「女性らしさがないとおっしゃるのであれば、その点はお詫び申し上げます」
レイの周りには女性が少なかった。居ても、女性らしさというものがほとんどない者たちが占めていた。例外は、典礼儀式の作法を教える女教官だけであろう。そんな環境にいたから、自然と男らしさ? 女性らしさがない仕草が身についてしまっていたのである。
「申し訳ありません」
「……」
これは謝られることでもない。むしろ、自分たちの不覚とみるべきだろう。男性陣はそう思った。
「ご理解いただけたのならば、殿下、降ろしていただけませんか?」
抱き上げられたままの状態だったレイは、ライザールにそう言った。
我に返ったライザールは、じっとレイの瞳を見つめた後、奥の廊下に視線を移して、歩き始めた。
「殿下?」
「ここで君を降ろしたら、書庫で無茶をするだろう? 女性ならなおさら、体を冷やしてはいけないだろう。俺の執務室へ行こう。サルザス、俺の部屋に資料を持って来てくれ」
ライザールは有無を言わせないようしっかりとレイの体を抱え込んで、足早と執務室へ向かった。
サルザスは「了解」の声とともに閉架書庫へ去って行く。
強引に勧められる物事に、辞退する間もなく、レイは諦めの境地で従った。
季節外れの寒気が入り込んだこの日、大人しくライザールの司令室を訪れたレイは、素直に応接卓の椅子に腰掛け、ブレッブが煎れたお茶を飲んでいた。
少し甘めに煎れられたお茶は、体をゆっくりと休めてゆくようだった。
レイの頭には、昨日読んだ文章が何度も繰り返し過ぎる。
リュキュソールの騎士が五人がかりでも滅ぼせず、封印することしかできなかったという幻獣。
その内容が真実であり、復活したのであれば、自分たちはその幻獣を相手にしなければならない。
幻獣の正体を突き止めることが急がれた。
師匠は、その幻獣に近づきつつある。
危険がひしひしと差し迫っている。
昨日読んだ書状は、書状を作成してから受け取るまで時間差が三日ほど生じており、早ければ今頃は、第二の幻獣の遺跡に向かって移動し、到達している頃合いと読んでいた。
「殿下、お伺いしても?」
レイが、執務机で書類に向かっているライザールに話しかけた。
その言葉を聞き、ライザールが顔を上げる。
「昨日の書状は、到着まで三日ほどかかっておりました。おそらく、軍の通常便を利用したものと思われますが、こちらから北方の麓の町に早便を送った場合、どの程度時間がかかりますか?」
ライザールは少し考え込んだ。今は飛竜が使えない、早馬を使用するしか無い。
「早馬で一日と言ったところだろう。飛竜が使えれば半日もかからず届けられるが、今訳があって飛竜が使えない。途中まで馬を使い、その後徒歩で届けるしか無いな」
「徒歩? もしや、飛竜が『北』の方角を嫌がる事態でしょうか? 馬もあるいは同じで?」
「推察のとおり、その、『もしや』の状態であって、苦労している」
書類を整えながら言うライザールの言葉に、確信が深まった。
「殿下、殿下は幻獣についてどのようにお考えでしょう?」
おやと思いながらも、ライザールは自分が思っている通りに答える。
「貴方にとって失礼に値するかと思うが、幻獣とは文字のとおり幻。俺は存在しないものと考えている。先日キンティスからの書状で実際に遺骸を見たとあったが、一概には信じがたい」
「今の世ではなく、過去の世ではどうでしょう」
「存在したという確たる証拠があったと聞いただけであり自分の目で見た事が無いので、今の段階ではありえないものと思っている」
「では、存在したという証があれば、ご自身の目で『幻獣』を見れば、存在をお認めになられますか?」
「無論」
この遣り取りは一体何を表すのか、ライザールは考えあぐねていた。
そこへ、先日見せた師匠からの手紙をレイはもう一度手渡した。
「これは先日既に拝見したが?」
「これは普通の手紙ではありません、幻獣の遺骸を確認したとことの他に、推察される他の幻獣についての連絡の手紙にあたります」
ライザールは書面に目を通した。それらしき事は何も書かれていない。
「師匠が旅立つ前日、私は師匠に伝えました。第一の幻獣は肉食鳥獣のワランジーの可能性が高いと。既に骨になっていると思われる事も併せて伝えてありました。その部分に関しての回答が文章のこの部分『思ったとおりの具合で』で表されています。今頃は第二の幻獣、狼獣について調べているものと思います」
手紙を見ても、はじめは何も分からなかった。旅が順調に進んでいる事、緑が多く空気が美味しいと言った内容にしか見えなかったからである。親の敵でも見るような目で文章を読み返すライザールに、レイは笑って伝えた。
「はじめから疑って文章の読みにかからないと本当の内容が分からない代物ですよ、その手紙は」
「では、キンティスと同じように幻獣の遺骸を見つけ、そのまま放置したと書いてあるのだな、この手紙には」
「左様でございます」
手紙を受け取り、レイは懐に仕舞い込んだ。
「貴方がたの今回の来訪目的は何だ?」
ライザールは単刀直入に切り込んだ。
「目的……それはこの国に参りました時に申し上げましたが、幻獣の調査です。」
「それだけには思えないが……」
「ご推察のとおり、まだお話していない部分がございます」
ここまで話したとき、サルザスが書面をもって司令室に入って来た。
深刻な顔をしている二人を見て、一言言った。
「お邪魔でしたでしょうか?」
「貴方にも聞いて頂きましょう」
レイはソファへ掛けなおし、話を勧めた。
「我々がこの度派遣されたのには、理由があります。一つ、智恵院で予見を司る首座が三人揃ってレイドバルクで幻獣の復活を予見した事。おそらく貴方がたは何をそんなに慌てる必要があるのか、正気かとお思いでしょうが、智恵院では大騒ぎとなりました。以前予見の首座が揃って同じ夢を見た際は、南大陸のルフィールとアラザスが戦闘になり、両国が揃って滅亡した事がございました。今その土地は荒れ果て砂漠の状態です。ですから智恵院では既に事が起こりえることとして取りかかる事となりました。首座達によればレイドバルクの空が灰色に覆われて見えたとのことで、手をこまねいていた場合、国そのものが傾きかねないと推察され、我々が派遣されました」
二人は聞き耳を立てて無言で話を聞いている。
「ただし、智恵院ではどのような幻獣が現れるかまでは予見が出来ませんでした。このため、幻獣に関して知識を持つ師匠と私がこの国に派遣され、事案を調べ、場合によっては幻獣の対処を命ぜられました」
黙して話を聞いていたライザールが口を開いた。
「何故北から調査を?」
それに対し、レイは正直に答えた。
「北からの旅行者が少なく、獣も出ないと聞いたからであります」
「我々は話した覚えが無いが」
「師匠が酒場で仕入れた情報です。旅人が少ないのは偶然で片付けられるかもしれませんが、獣まで少ないとあれば、何かあると考えるのが智恵院に所属する者であれば当たり前の事です。しかも首座の予見がある。十中八九間違えはないと考えております」
「何故今まで隠していたのだ?」
「殿下が先ほどおっしゃっていたではありませんか。証拠でもない限り幻獣は信じないと。
文章のみで実際にお目にかかっておりませんので、まだ不信があるかもしれませんが。『幻獣など存在しない』それが世間一般の感覚である事は我々も承知しております。ですから、第一の幻獣の所在と遺骸がはっきりするまで、私も発言は控えておりました。気違いと思われてはかないませんから。確たる証拠が出たと書状にありましたので、私もお伝えする事ができます。……師匠に同行したキンティス中尉は腰を抜かす程驚いた事と思いますよ」
レイの話にただ驚く二人。
そこに更に話が続いた。
「第三の幻獣についてはっきりした事が分かっておりません。おそらく、この幻獣が一番大規模で死んではおらず封印された状態、もしくは目覚めかけた状態にあると思われます。まずはこの幻獣の正体を暴く事、そして対処にあたる、言い換えれば復活できぬよう処分する事が我々の行う事になりましょう」
レイは一息ついて言った。
「これを取り逃がせばレイドバルク国全体が焦土と化す可能性があるのです、殿下。私はそれを避けるために派遣された練士です。改めてご協力をお願い出来ないでしょうか?」
そう言ってレイは以前に一度見せた礼をライザールに対して行った。
その姿を見て、ライザールは腹を括った。
まだ自身の目では見ていないものの、存在するもの、敵として認識したのだ。
「このままでは幻獣が復活する。国が滅びる。そう聞いて我々は手をこまねいてはいられない。実際には何が必要だ?」
ライザールが質問をした。
「幻獣にもよりますが……まずは人手。対処するにしても人手が無くてはどうにもなりません。精鋭を集めて頂きたい。幻獣を見ても恐れず立ち向かって行けるような。腰を抜かしてしまうような兵では困ります。後は幻獣の正体を確認してから付け加えたいと存じます」
「わかった」
その言葉の後、レイはサルザスが持って来た蔵書の森の中へと姿を隠し、残りの幻獣の正体を確かめるべく埋没して行った。
ライザールは大隊の中の、特に精鋭達に向かって戦う稽古と出陣の準備をするよう言い含め、レイの指示を待った。
ライザールの執務室は、レイとサルザスが本のページをめくる音とメモを取る音、ライザールのペンの音で占められた。
そこへ、報告の第二便が届いた。今回は急便、一日程で届けられたようだ。
キンティスからは第二の遺跡らしき場所を発見した事が綴られていた。骨粉が見つかったためまず間違いは無いだろうとのことだった。
レイの師匠にあたるグローブからは、より詳細な情報が一見では分からない状態で送られて来た。レイからすれば事実がつらつらと書かれている。その中の一文に目が止まる。
『雲行きが怪しい、大量に発生、移動する兆しあり』
レイの頭の中では『雲=蜘蛛』『移動する兆し=復活』に変換されている。
レイの頭の中ではぐるぐると思考が巡る。昔、広域にわたって幻獣の影響を受けたのは蜘蛛獣であったからでないのか。蜘蛛は糸を使いあらゆる生き物から精気を奪い取る。
あわてて資料の山から記載した事項を確認する。
「……あった」
レイは小さな声を上げた。幻獣の記述を見つけたのである。
サルザスが準備してくれた書籍『東西異聞収録原書』からその答えが導きだされた。
そこには獣の名前として予想通り『蜘蛛獣』と書かれていた。それも種族として「グララディス」と。最悪中の最悪である。
蜘蛛獣は、蜘蛛の糸に捕まった者、人間動物問わず精気を徐々に奪って行く。完全に精気を奪われた者は、乾涸びた廃人のように化す。そして下手に手出しをするとその者も糸の餌食になってしまう。グララディスはその中でも巨大で甲殻が固く、糸も粘着性が強く、通常の幻獣とは対処方法が違い難しいのである。
「殿下、最後の幻獣は『蜘蛛獣』の『グララディス』のようです。この幻獣はやっかいです。普通の剣や槍は通用しません。大量の松明と油の準備をお願いいたします」
レイはライザールに要求した。
「なぜ、大量の松明と油が必要か?」
当然の問いだった。
「蜘蛛獣『グララディス』から発せられる糸は通常の刃物では切り落とせません。対処として松明の炎を利用して糸を焼いて切る方法になります。また胴体部分も堅牢なため、殿下の持つ『黎明剣』のような聖剣もしくはリュキュソールの騎士がもつ光剣以外傷をつける事が出来ない事をあらかじめご了承下さい。今回、幻獣の体内に油を流し込み、その後、炎にて胴体を焼き払う必要があります。炎による浄化です。これを行わない限り、何度でも幻獣は復活してしまいます。――――今、この時にこれからの国のためにも決着をつける必要があるのです」
「わかった」
ライザールは一言で了承し、部隊に準備を進めさせた。