というより未来のニムロデ
私が彼女と出会ったのは、私が高校一年生の時だった。ある日、私は鳥がインメルマン・ターンするところを見たくて、学校の裏庭でカワラヒワを追いかけていた。すると、いきなり私の頭頂にカラフルな液体が降り注いだのである。同時に、私から五十㌢㍍離れた地点で、サン・ピエトロ大聖堂なる鐘の如く水蒸気に波紋を広げ、筆洗いが地表を跳ねた。以上のことから、私は自分の髪を志茂田景樹風にした液体の正体が絵の具の溶けた水であると見破った。
「ご、ごめんなさい! 怪我はありませんか?!」
十㍍上方の踊り場から、一人の女の子が身を乗り出している。
私は、まず右の人差し指と左の人差し指を順番に顎の下に持って来る。次に、前腕を上げて手をひらひらする。
ダンダンダンダンと階段でランマーみたいに音を立てて彼女は下りて来た。
「ごめんなさい、絵を描いていたらっ――」
彼女は自分で作った水溜まりに足を滑らせ、私に覆い被さるようにして転んだ。そして、私も自分の足場の悪さ故に彼女を支え切れず、背中から転倒する。
ズボンが水に侵されるのを感じて目を開けると、私の睫毛の三㌢㍍先に彼女の睫毛があった。もし私達がサイボーグでなかったなら、互いの息を感じ合っていただろう。
「ひっ、あぁぁぁ、ごめんなさい、ごめんなさい!」
彼女は私に馬乗りになったままぺこぺこする。
「絵の具の、良い匂いです」
私がそう呟くと、彼女はきょとんとした様子で私を見つめる。
私が体を起こすと、私達の顔の距離が再び著しく縮まる。
「この色合いじゃ、ここの風景を描いていたとも思えませんが、いったい何を描いていたんです?」
彼女は私から視線を逸らす。
「抽象画です。今では、ほとんど評価されなくなってしまいましたけど……」
「おい、そこで何をやっている?」
少し離れた所から声が聞こえる。教員の声だ。
「いけない。こっちへ」
彼女は私の手を引っ張って走り出す。その勢いで、私のブレザーに付着した灰色や黒色の水滴が吹き飛ぶ。
私の前を走る彼女の青色の制服が、その時の私には青空のように映った。
校舎内を走り回り、私は美術室らしき教室に連れてこられた。
「入って」
彼女が開扉し、私達は中に入る。
「本当にごめんなさい、制服をこんな風にしてしまって」
「びっくりしたけど、なんかおもしろかったです」
「着たままだと、気持ち悪いでしょう」
そう言って彼女が私のブレザーを脱がす。
「そう言えば、自己紹介がまだだったわね。わたしは二年生の加村福風。あなたは?」
「一年生の、天登在都です」
彼女は私より一つ年上だった。未熟な私には、とても大人びて見えた。
「きれい」
彼女は変色した私のブレザーを見た感想を述べる。
「ご、ごめんなさい、そんなことを言っている場合じゃなかったわね。これ、洗濯して、できるだけ早く返すようにするわ」
「いえ、これはこのままにしておきます」
「え?」
「だってこれ、きれいでしょ?」
正直、私にはこの痣だらけの制服の何がきれいなのかさっぱりわからなかった。が、
「うん、とってもきれい」
と言った時の彼女の笑顔が綺麗だということは、私にもわかった。
私は彼女から受け取ったタオルで自分の濡れた髪を拭く。
「よかったら、これに着替えて」
彼女は運動着を取り出す。
「男性用?」
「あなたの前にここを訪れた人が置いて行ったの」
「その仰り様ですと、ここを訪れる人はあまりいないんですね」
「ええ、あなたが二人目」
「まるでネイサン・ベイトマンの邸宅ですね」
「じゃああなたはケイレブ・スミスね」
「空からミックスジュースが降って来たのは、抽選に当たったから?」
「だとしたら、好運なのか不運なのかよくわからないわね」
私が帯革を外し出すと、彼女はさっと後ろを向いた。義体化が進んでも、人の羞恥心は変わらないのだ。
「ところで、どうして教員から逃げたんですか?」
「少し、目をつけられてしまっているの。執行猶予ってヤツかしら」
男に馬乗りになっていたのを目撃されても弁明すればわかってもらえそうなものだが、わかってもらえないと考えるのにはそれなりの理由があるのだろう。ひょっとしてこの人、ホリー・ゴライトリー?
「いま変な想像したでしょ! わたしはイブニング・ドレスで朝帰りなんかしませんからね!」
「ティファニーで朝食は?」
「わたしには、ティファニーよりティファールの方が似合っているわ。でも、年中無休という点では、ここもティファニーも一緒よ」
「ここはいったい何の教室なんです? 美術室ですか?」
「まあ、用途から言えば美術室ね。元々はただの空き教室だったの。それをわたしが勝手に占拠したってわけ。このこと、先生には秘密よ」
「秘密って、バレないんですか? こんなことして」
「実はもう何人かの先生には気づかれてしまっているの。でも、今のところ追い払われる様子はないわ。わたしがいなくなったところで、空き教室に逆戻りするだけですもの」
「ここで、絵を?」
「そうよ。あなた、抽象画って知ってる?」
「聞いたことはありますけど……」
「昔は、そう、まだ感情がコンピューターで読み取れなかった時代、人々は、絵を描いたり、物語を創ったりして思いを伝えていたの。今では想像もつかないでしょう。自分の気持ちを、メールと同じ要領で伝送できるこの世界では」
「抽象画もその一手段だった」
「そう。でも今では誰も描こうとしない」
「仕方ないですよ。より優れた手段が登場したら、人々はそちらに走ります。工場の経営者が大勢の労働者を解雇して、機械を導入したように」
「本当にそうかしら。わたしには、フィーリング・アブストラクションが絵画より勝っているとは思えないわ。確かに、感情を簡単に、しかも確実に伝えられるのは便利よ。でも、感情は、伝えるだけのものじゃないとわたしは思うの。感情は、伝える人がいて、そして、感じ取ろうとする人がいて、伝わるものなんじゃないかしら。もちろん、不確実だし、非合理的なやり方よ。このやり方じゃ、想いを完全に伝えることなんて不可能かもしれない。けれど、その不完全さこそが、人間の本質だとわたしは思う。無ではないけれど完全じゃない。無能ではないけれど万能でもない。そんな不完全な存在。それが人間なのよ。だから、わたしは不完全を劣性とは看做さない。人間は、決して不完全から逃れられないのだから」
「それじゃあ、絵を理解できるようになれば、少しは先輩の気持ちを、知ることができるようになるんですかね?」
一秒後、彼女はスッと丸椅子の上に立ち、背中から倒れた。まるでプラットフォームダイビングみたいに。これを見ていた私は当然生き胆を抜かれたわけだが、咄嗟に両腕を差し出し彼女の体を支えることができた。その結果、私は彼女をお姫様抱っこする形となった。そして彼女はぐっと自分の顔を私の顔に近づける。
「わたしは中々の天邪鬼よ。そう簡単に心を読まれるもんですか」
「でも天邪鬼同士なら、天邪鬼も天邪鬼でなくなるのでは」
「ふふっ、あなた変わってるわね」
ひょいとつま先を床に付け、彼女は私の手から離れる。
「ここへ連れて来て正解だった。今日はもう遅いから、ここに泊まりましょう?」
いつの間にか、びしょびしょだった制服がもう乾いている。
「こ、ここで二人寝ては狭くなってしまうので、他の教室を探して来ます」
「この棟にここ以外で寝られる教室なんて無いわ。どこも埃だらけですもの」
「じ、じゃあ、他の棟へ」
「教員に見つかるわよ」
「じゃあ、えとー……」
「わたしと一緒じゃ、何か問題があるのかしら?」
彼女は宇宙戦艦ヤマトの乗員のような眼差しをする。
「……いえ、先輩がよろしいのであれば、別に」
「なら決まりね」
こういうわけで、私達は寝袋の中で朝を待った。寝袋が二つあったのも、やはり前の来訪者による影響だろう。
消灯して寝袋に入ってからしばらく経った後、彼女が語り始めた。
「フランツ・マルクを知っているかしら?」
彼女の優しい地声が、光のない暗然とした空間を漂流する。
「いえ」
「彼は風景画家の息子として産まれたの。彼も絵が好きだったけれど、お父さんの厳しい手ほどきのせいで、次第に人が嫌いになってしまった。そんな彼が変わったのは、馬術の訓練の時だった。彼は馬の背に跨って走っていると、何者にも束縛されない自由を感じたそうよ。おかしな話よね。自分の脚でなら自分の好きな所に行けるはずなのに、自分の脚で歩いている時には自由を感じず、馬の力を借りて移動している時に自由を感じるなんて。でも、きっと人間はそういうおかしな生き物なのよ。自分の脚では右にも左にも行けるけど、本当に行きたい処へは行けない。だから、人には馬のような存在が必要なんだと思う」
「じゃあ人間は、フォアグラ用のガチョウと同じですね」
フォアグラとは、強制肥育されたガチョウの肝臓である。ここで強制肥育について説明する。まず、脂肪をつけさせるために、ガチョウは運動を制限される。小さな檻に入れられたり、首から下を土に埋められたりといった具合に。次に、肝臓を肥大化させるために、強制給餌が行われる。以上が、強制肥育についての説明である。このように強制肥育されたガチョウは狩りの仕方を知らない。だから、檻から解放されても、言い換えれば、自由になっても、彼等を待っているのは死だ。この結末を行きたいところへ行った結果だと言うのは、あまりにも残酷である。
「フォアグラなんて、随分と昔の食べ物を知っているのね」
フォアグラはそのグロテスクな飼育法のために、何百年も前に世界的に生産が禁止された。そのため、今ではフォアグラを知らない人も少なくない。
「そうね。人も家禽も、欲しいものを手に入れられない。幸せになる術を知らない」
彼女は端整な面貌をしている一方で、彼女の発言は陰鬱なものだった。その毒っぽい彼女の世界に、私は自然と心を惹かれていた。
夜が明けて、私はティファールでお湯を沸かしていた。カップスープを作るためだ。
「在都君?」
先輩のお目覚めだ。
「カップスープです。どうぞ」
寝袋から出たばかりでまだ瞼の開け切っていない彼女に、私はカップを手渡す。
「ふふっ、ティファールで朝食をってわけね」
「はい、先輩」
彼女はふーっとしてからスープに口をつける。
「わたしは先輩じゃないわ。あなたの、友人よ」
思いがけない訂正に私は寸毫戸惑ったが、すぐに、
「はい」
と明朗な笑顔で応じた。
それ以来、私は彼女のいるこの教室に通うようになった。
彼女と一緒にここにいると、私は力んだ体がほぐれるような感覚を得た。
彼女が命を絶ったのは、私達が出会ってから半年後のことだった。彼女、加村福風は、両親の留守中に、自宅で首吊り自殺を遂げたのだ。彼女が自殺するなんて私は思いもしなかったが、不思議と、彼女が私の前からいなくなるとずっと前からわかっていたような気がした。なぜなら、彼女は特別だったから。特別が特別であるのは、永遠でないからだ。特別が日常と化したとき、それはもはや特別ではなくなる。特別は常に非日常でなくてはならないのだ。そして私も、彼女にとっては特別だった。だから彼女は一人で逝った。だから彼女は私達の秘密基地で死ななかった。私が特別だったからこそ、彼女は私をおいていったのだ。私が特別だったからこそ、彼女は私を構成要素とするあの教室を、血で汚すことはしなかった。これ等のことを、私は嬉しいとも悲しいとも感じなかった。ただ私には、彼女の死だけが突きつけられた。