カイルの嫁候補
「御婚約おめでとうございます」
カイルはサマンサの部屋を訪ねていた。恭しく頭を下げる彼に、彼女は不機嫌そうな視線を投げかける。
「ありがとう。これでカイルも気が楽になったかしら」
「そのような事は」
「そう? もうカイルに情報は一切流さないからそのつもりでね」
サマンサは微笑んだ。カイルは複数の間者を抱えているが、王宮内の主要情報源は彼女である。王女である彼女にしか得られない情報もあり、彼は彼女の気持ちを利用して情報を得ていたのだ。
「私に流して頂かなくても結構です。隊長かライラ様に流して頂ければそれで十分ですし、サマンサ殿下が嫁がれた後は別の情報源を探すまでですから」
カイルは涼しげな表情で答えた。サマンサは面白くなかったが、相手にされていない事は最初からわかっているので、不機嫌な表情をする気にはならない。
「カイルも結婚をしたらいいのに。グレンが亡くなったから必要でしょう?」
「私は公爵家など継ぎません。兄の代で断絶すればいいのですよ」
「それをウォーレンが許すかしら。私は逃げきれない方に賭けるわ」
「その賭けは無駄です。サマンサ殿下が負けた時、私には海を渡る術がありませんから賭けになりません」
「私が嫁ぐのにまだ約二年あるわ。その間にカイルが結婚したら私の勝ちでしょう?」
サマンサはにっこりと微笑んだ。カイルは嫌な予感がした。この兄妹、顔は似ていないのだが何か企んでいる時の笑顔は似ているのだ。
「その話は結構です。私は本日別のお願い事があって伺ったのですから」
「お願い? 私はもうカイルの話なんか聞かないわ」
「私個人の話ではありません。サマンサ殿下がアスラン語を学ばれる時、ライラ様も是非同席させて頂きたくお願いにあがったのです」
カイルの依頼にサマンサは小さくため息を吐いた。サマンサが嫁ぐ時、海を渡る以上海軍の船を使っての移動になる為、総司令官であるジョージが引率する事はほぼ決定事項である。順調にいけば往復で約一ヶ月、天候に恵まれなければそれ以上かかる。ジョージがそんなに長い間ライラと離れているのは嫌だろうし、ライラも嫌がるだろう。ライラを同乗させるには理由がいる。そのもっともらしい理由といえば通訳なのである。
「カイルのお兄様を思う気持ちは素晴らしいと思うけど、そこまで甘やかさなくていいと思うわよ」
「私は留守番になりますから、ライラ様が側にいた方がいいと思うのです」
サマンサはつまらなさそうな表情をした。ジョージが戦争以外で国外へ出る場合、国内を守るのは赤鷲隊副隊長であるカイルの仕事になる。それは勿論当然の事なのだが、彼女にとって面白くなかった。幸せそうな花嫁姿を見せつけてやりたいのに、それさえも叶わない。
「カイルのお願いは聞かないわ。お姉様にお願いされたら断らないけど」
「それで構いません。ライラ様は海の向こうに非常に興味を持ってらっしゃいますので、間違いなく仰ると思いますから」
「それならわざわざカイルが来なくてもよかったのではなくて?」
「私はお祝いを一言申し上げたかっただけです。お願いはついでです」
カイルは微笑んだ。それをサマンサはつまらなさそうな表情で受け止めた。
「もう悔しい。絶対にカイルに結婚相手を押し付けてやるわ。エミリー、協力して!」
ライラの部屋にサマンサはお茶菓子を持って尋ねていた。エミリーは慌てて紅茶の準備をし、ライラとサマンサの前にティーカップを置く。
「しかしながらカイル様に相応しい方となると、なかなか難しいのですよ」
「誰でもいいわよ。その辺の使用人でもいいわ」
「そういうわけには参りません。ハリスン公爵家を背負える方でないといけませんから」
ウォーレンとエミリーは先日の舞踏会で、カイルに相応しい貴族令嬢はいないという事で一致した為、現在は騎士階級の令嬢に目を向けている最中である。
「ジョージもカイルを再婚させたがっていたけど、いい人はいないみたいなのよね」
ライラはそう言いながら紅茶を口に運んだ。彼女は再婚したらいいとは思っているが、別段積極的に行動はしていない。
「カイルは昔遊んでいたのだけれど、特定の人はいなかったのよ。今ではすっかり仕事人間になってしまって面白くないわ」
「サマンサ殿下はカイル様のどこがお好きなのでしょうか」
エミリーはサマンサに問いかけた。あの端正な顔立ちに惹かれるのはわかるが、それでもサマンサなら遊び人のカイルに拘らず他に目を向けそうなのにと、エミリーは不思議に思っていた。
「皆は私の言う事を聞いてくれるけど、カイルは聞いてくれないの。それが悔しくて振り向かせようと色々頑張ったけど、結局無理だった。カイルにとって私はお兄様の妹。それ以上にはなれなかったの」
サマンサは悔しそうな顔をする。彼女は自分がハリスン家三男に降嫁するには色々と問題があり、簡単でないのはわかっていた。しかしそれ以前に自分に一切靡かないカイルの態度が悔しかった。幼き頃より知っている仲とはいえ、成長した彼女を見てもカイルの態度は一貫して変わらなかったのだ。
「カイル様も可哀想な方なのかもしれませんね」
「可哀想?」
「えぇ。心から愛せるような方がいらっしゃらないのかもしれません。ジョージ様とライラ様の側にいると、そういう人に出会えるかもしれないと期待したくなりますから」
エミリーは微笑んだ。彼女自身ライラを羨ましく思っていた。自由に生きてきたライラだが恋愛には無関心だった。それが結婚してゆっくり変わっていく様は見られなかったものの、幸せそうに暮らしているライラの側にいると、自分にもそういう人がいるかもしれない、そう彼女自身が期待していたのだ。
「お兄様とお姉様は本当に仲睦まじいわよね。お兄様が素直になったから、今では二人を理想の夫婦だと皆が噂しているわよ」
「外からはそう見えるかもしれないけど、私はジョージに上手くあしらわれているの。今日も日中は会えないし」
「本来なら日中は会えないものです。ジョージ様がライラ様を呼んで仕事をしているのは異例ですからね?」
エミリーに正論を言われてライラは口を尖らせた。ジョージには休みがないので一日中一緒にいる事が出来ない。ジョージも仕事の調整はしているものの、内政の仕事が完全になくなったわけではないのだ。
「ねぇ、サマンサ。アスラン語を覚える時は私も一緒に学んでいいかしら」
「お姉様にアスラン語は必要ないでしょう?」
「いいでしょう? アスラン語を覚えておけばサマンサが嫁ぐ時に同行出来るかもしれないし」
ライラは微笑んだ。サマンサはカイルの思惑通りになった事に不満を感じつつも、義姉の願いを断る理由は持っていなかった。
「一緒に覚えるのは構わないけれど、同行出来るかは保障しないわ」
「覚えておけば、将来ジョージと喧嘩した時にサマンサの所まで逃げ込めるでしょう?」
「それは無理よ。お姉様の顔は目立つから絶対に港で捕まるわ」
サマンサは笑った。レヴィの主要港はケィティと港町コッカーにある。ケィティは勿論、コッカーもレヴィ海軍が港を仕切っている為ジョージの手が回る方が早く、ライラは多分逃げられない。
「レヴィの港を使わなければいいのよ。ガレスへ行けば私の方が有利だわ」
「ガレスへどう行くの? その前に黒鷲軍に捕まるわ」
現在レヴィとガレスは平和条約締結へ向けて協議中である。しかしまだ協議中の為二国間の往来はない。橋も架け直していないので大河を船で渡る必要があるが、その大河は黒鷲軍の監視下にある。
「将来と言ったでしょう? 二国間が平和条約を結んでからの話」
「いつ使えるかわからない言葉を覚えておけるの?」
「大丈夫よ。言葉は案外頭に残るわ。サマンサも嫁いでアスラン語以外を話さなくなったとしてもレヴィ語は勿論、ケィティ語も帝国語も話しかけられれば対応出来るはず」
「そういうもの?」
「そういうものよ。海の向こうで話しかけられる可能性があるかはわからないけど」
「結婚の準備段階でアスラン王国にレヴィ大使館を置くらしいから、レヴィ語では話しかけられると思うわ」
「大使館を? いいわね。外交官になって滞在したいわ」
「お兄様が許さないわよ。往復に一ヶ月以上もかかるのに」
ライラは眉根を寄せた。
「片道六日ではなくて?」
「六日? 間違った情報をどこで仕入れたのよ。順風で片道十二日と聞いたわ。嵐で出航出来なくなると足止めをされるらしいし」
「だけどジョージが以前、海の向こうの大陸には船で六日と言っていたもの」
「向こうの大陸にある一番近い港へ六日で着くという事ではないかしら。アスラン王国へは王都から片道最低十五日よ。シェッド帝都も馬車だと十二日かかるらしいから、そこまで遠くないと思っているけど」
「そんなにかかるのならサマンサに子供が生まれた時、お祝いしてくると言って許可が下りるかわからないわね」
「ライラ様、遊びに行く予定だったのですか?」
エミリーが呆れ顔でライラに問う。ライラは笑顔を浮かべた。
「サマンサは海の向こうへ行くのよ? いくら向こうの王子が熱烈な感じだとしても、サマンサにはエミリーみたいな侍女もいないし寂しいと思うの。だから公務のない私が定期的に通えばいいかなと思って」
「それで言葉を覚えようとされていたのですね」
「そうよ。いちいち通訳がいたら面倒だもの。でも今の話を聞くとその大陸にも複数国がありそうだから、もう少し覚える言葉を増やした方がいいかもしれないわよね。向こうの大陸の地図をまず取り寄せて考え直さないと」
「ライラ様、許可が下りるかわからないのに勝手に暴走しないで下さい」
「だけど私はもう人質の役目も終わっているし、どこへ行っても大丈夫よ」
「そういう問題ではありません」
二人のやり取りを見てサマンサは笑う。
「私もエミリーみたいな侍女が欲しかったわ。そうしたら他国へ嫁ぐ不安も小さくなったかもしれない」
「やはり不安なの?」
ライラは心配そうにサマンサを見つめた。サマンサは微笑む。
「正直に言えば不安よ。ここで私は自由に暮らしていたけど、向こうではそうはいかないだろうし」
「それなら今からでもエミリーみたいな侍女を探せばいいのよ。アスラン王国へついてきてくれる侍女。貴族令嬢は難しいと思うから平民からになるでしょうけど、その子も一緒に言葉を覚えるの。エミリー、いい感じの子を知らないかしら」
思いついた事は何でも口にするライラに、エミリーは冷たい眼差しを向けた。
「ライラ様、私が何でも知っているはずがないではありませんか。王宮使用人の中にサマンサ殿下に仕えたいと思っている女性が何人かいる事は把握していますけれど」
「調べていたのね!」
「私もサマンサ殿下が御一人で海を渡られるのは不安ではないかと思いまして、カイル様のお相手を探すのと並行して気にしていただけです」
「エミリーは本当に優秀ね。もうエミリーがカイルと結婚すればいいのに」
サマンサの言葉にライラとエミリーは一瞬固まった。そしてライラは笑顔をエミリーに向ける。
「いいわ。そうしなさいよ。エミリーは絶対にカイルの顔が好きでしょう?」
「顔が好みなのは否定しませんが、私はライラ様に一生お仕えするのです。カイル様と結婚をしたら侍女が出来なくなるので嫌です」
「そこはウォーレンと話し合う余地があると思うわ」
「ありませんよ。そもそもカイル様の意向を無視して勝手に話を進めないで下さい」
「何を言っているの。エミリーも勝手に探していたでしょうが」
ライラに正論を言われエミリーは言葉に詰まる。サマンサは楽しそうに笑った。
「自分で自分は推薦し難いわよね。いいわ、私がウォーレンに言ってあげる」
「サマンサ殿下。冗談は本当にやめて下さい。サマンサ殿下と仲良くなれる侍女は責任持って探しますから」
「それは勿論お願いするわ。でもカイルの話は別よ。私もエミリーなら不満はないし。ここへ来た時は苛々していたけど、すっきりしたからそろそろ戻るわね。お茶御馳走様」
サマンサは笑顔を浮かべると立ち上がる。エミリーはサマンサを止めようと思ったものの、これ以上口答えするのは立場的によくないと口をつぐみ、仕方なく扉を開けてサマンサを見送った。そして扉を閉めるとライラの側に急いで戻った。
「ライラ様、本気ではないですよね? 私はただの平民であって公爵家の嫁は絶対に無理です」
「カイルは三男だから平民になるし、いいでしょう?」
「よくありません。ウォーレン様が次期当主はカイル様とはっきり仰っている以上、絶対公爵家跡取りではないですか。無理です。務まりません」
「最終判断はウォーレンとカイルがするわけで、先方が承諾したらエミリーに拒否権はないわよ」
「ですから、その場合はライラ様に拒否権を行使して頂きたく、こうしてお願いしているのではありませんか」
「エミリーが侍女をやめるというのなら困るけど、エマと同じ状況なら私は構わないわよ」
ライラは微笑んだ。エマはエミリーの母でライラの母サラの侍女である。エマはエミリーをライラの遊び相手として傍に置きながら侍女業務をしていた。子供が成長した今も変わらず、エマはサラに仕えている。
「あれは母が平民だから成り立ったのです。公爵家の嫁が隊長夫人の侍女を務めるというのは、いかがなものでしょうか」
「だけど隊長夫人と副隊長夫人でしょう? 夫婦が夫婦に仕えている状況ならそこまで不自然でもないと思うわ」
「おかしいですよ。絶対に前例がありません」
「前例がないからおかしいというのは受け付けないわ。嫌ならカイルに相応しい令嬢を探してくるか、先に誰かと結婚するかね」
ライラは微笑みながらそう言うと紅茶を飲んで満足そうな表情を浮かべた。エミリーは予想外の展開にカイルが断るだろうとは思いつつ、自分の逃げ場を確保する為、今まで以上に令嬢を真剣に探さなければと思った。