公国との付き合いについて
「ねぇ、フリッツ。フリッツってば」
国王の執務室にはエドワードと三人の側近しかいない。しかしフリードリヒはリアンからの呼びかけを無視して仕事を続けている。リアンはフレッドと呼びかけても一向に返事をしないフリードリヒに対して仕方なくフリッツに変えていたが、フリードリヒは未だに彼に愛称呼びを許可した覚えはない。仕事中でもあるので、無視をしている自分が正しいと思っている。
「俺、少しわかってきたよ。フリッツは今機嫌が悪いでしょ?」
フリードリヒにリアンの声は聞こえているが、気にせず仕事を続ける。別段フリードリヒの機嫌は悪くない。何故こんなにも絡まれるのか理解が出来ないだけである。
「俺の父親が無理矢理ツェツィーリア様をレヴィに連れてきたのが気に入らないの? それとも俺が公国とのやり取りを面倒臭いと思っているのが嫌なの?」
想定外の問いかけにフリードリヒの手が止まる。視線をリアンの方に向けると、彼は珍しく真面目な顔をしていた。
「面倒ならやり取りなどやめていいと思います」
フリードリヒは無表情にそう告げた。彼にとって公国は親戚がいる国という認識ではない。破滅するのなら自業自得、そのような冷めた想いしかない。しかしリアンにとっては意外過ぎる返答で言葉を失う。
リアンの戯れ言をいつもなら聞き流しているエドワードだが、話の流れが気にかかっていた事だったので、彼は手を休めてフリードリヒに視線を向ける。
「フリードリヒから見たローレンツ公国を教えて欲しい」
「突然ですね」
「いや、前々から聞きたいとは思っていた」
為政者として必要だからしていたエドワードの情報集めだが、現状は趣味といってもおかしくない。遠方になれば情報も少なく、信憑性も低くなってしまうのは仕方がないが、隣国であるにもかかわらず、ローレンツ公国の情報は怪しいものばかりである。それ故にローレンツ公国に足を踏み入れて見聞をしたフリードリヒの意見は是非とも聞いておきたかった。だが、自分の血が流れている国を良く見せようとする可能性がある。その判断が難しいので彼は聞けなかったのだが、きっぱりとリアンに言い切ったフリードリヒなら飾り立てる話はしないと思えたのだ。
「シェッドよりも聖書に忠実で優れた国だと言われているが、実際は違うと私は思っている」
「私はルジョン教など興味ありません」
「しかし無理矢理聖書は読まされただろう? ルジョン教徒なら子供に教えるとナタリーが言っていた」
「まさか王妃殿下は教えているのですか?」
フリードリヒは驚きを隠さずエドワードに視線を向ける。それに対しエドワードは笑顔を返した。気に入らない発言に対する、目が笑っていない仮面で。
「私が許すとでも?」
「愚問でした。大変失礼致しました」
フリードリヒは座ったまま頭を下げる。ナタリーを監視しているエドワードが見逃すはずもない。少し考えればわかるのに浅はかだったとフリードリヒは反省する。
「まぁ、ナタリーは教えたくないから教えないと言っていたが」
「教えたくない?」
「彼女は賢いからな」
エドワードの言葉にはツェツィーリアとは違って、という意味が含まれているようにフリードリヒには感じられた。しかしそれは同意見なのでフリードリヒは何とも思わない。フリードリヒにとってツェツィーリアは生母ではあるが、それ以上の意味も情もない。
「帝国対公国の争いがあった頃に、二国間のルジョン教に対する違いなら調べました」
「え、その頃のフリッツって未成年じゃん」
兄弟の話を黙って聞いていたリアンが割って入る。エドワードは厳しい視線をリアンに向けた。リアンはつまらなさそうな表情を浮かべたが、黙れという意味は汲み取ったので口を閉じる。
「聖書の解釈が違うらしいな」
「違います。どちらが正しいのかはわかりません。私はどちらも信じる気にはなりませんでしたから」
フリードリヒはツェツィーリアから公国語を教わっているが、サマンサから帝国語を習っている。サマンサがナタリーに教えて貰った帝国語を忘れない為に、フリードリヒに教えていたのだ。故に彼は帝国語と公国語で書かれているふたつの聖書の解釈を翻訳なしで読んだ珍しいレヴィ人である。
「主に違うのは長子に関してか。いや、一応髪色もあるか」
「やはり詳しいですね」
「帝国語の聖書は目を通した。公国語の方は知らないが、国の成り立ちを考えると想像は出来る」
エドワードは母による愛情の兄弟格差を嫌という程に思い知らされていたので、ウルリヒとフリードリヒの差が何から生じているのか気になった。最初はツェツィーリアが平凡過ぎて、賢いフリードリヒを扱いかねたのだろうという、前王妃に対して非常に失礼な仮説を立てた。しかしオルガとは違い、ツェツィーリアはフリードリヒを息子と認識しており、彼女なりに彼の教育環境を整えている。勿論、その環境が不足しておりサマンサが口を挟んだのだから、フリードリヒの資質を見抜けてはいなかった。平凡過ぎて見抜けなかったのか、観察が不足していたのか、そもそも興味がないのか。
答えが見つからずエドワードが悩んでいた時、ローレンツ公の手紙とそれをツェツィーリアが訳したもの、更にライラが訳したものを見る機会があった。ライラが訳したものが正しければローレンツ公の態度は不遜である。しかしツェツィーリアはわざわざ丁寧に依頼する形で訳していた。兄の要請は絶対であり、どうしても軍隊を動かす為にそうせざるをえなかったのだろうと思い至った時、エドワードは謎が解けた気がした。フリードリヒはあくまでもウルリヒを補佐する存在であり、それ以上になってはいけないのだと。
シェッド帝国も基本的には長子相続である。しかし、それ以上に絶対なのが黒髪だ。初代ローレンツ公は第一皇子であったが金髪だった為に皇太子になれなかった。黒髪に拘っているのはあくまでもシェッド中央であり、その後帝国に吸収された他の民族はそうでもない。アナスタシアの出身地でもある北方ならば金髪が多い。しかしその第一皇子が選んだのは、金髪がいない南西部だった。黒髪と同じく、金髪こそが選ばれし者だという印象を与えたかったのだろう。しかし公国として独立を勝ち取れる程優秀だった初代ローレンツ公は、髪色や性別よりも長子相続に拘った。
「ローレンツ公国は長子相続で、第二子以下はルジョン教関係者になります。レヴィのように土地を貰って臣下になる道はありません」
「黒髪の場合は殺されるという噂があるが本当か?」
「黒髪は今の所産まれていません。従姉は栗毛でしたから金髪以外でも大丈夫なようです」
「あぁ、結婚相手になりそうだった?」
「第一子は金髪でした。妹の方です。彼女は今頃修道女になっていると思います」
「フリードリヒが嫁に貰わないから修道女になってしまったのか、可哀想に」
「冗談は好きではありません」
フリードリヒは珍しく苛立ちを顕にした。基本的に無表情で対応する彼であるが、妻であるボジェナが絡む話だとやや崩れる。勿論無表情を崩すのは彼が心を許している者の前だけであり、エドワードはこの変化を内心喜んでいた。
「見目も良く賢いフリードリヒを結婚相手に選ばないとは、見る目がないのだろうな」
「わざと選ばれないように振舞いましたから」
フリードリヒにとって、ローレンツ公国は何の興味も持てない場所である。ツェツィーリアがルジョン教徒であるという理由で公務を拒否していたのも納得していない。ナタリーは対応していたので尚更だ。
「言葉の壁がなくとも難しいのか」
「宗教を盾に色々とおかしいのです、あの国は」
「詳しく」
「私が母と同行した当時の話ですが、国内は貧しいと感じました。都市と呼べる場所がなく、馬車から確認出来る国民は皆痩せ細っていました」
フリードリヒは王宮内で育ったので、市井を見た事がなかった。故にローレンツ公国へ行くのは嫌だったが、道中に興味があったので了承したのである。そして馬車から見えるレヴィ王国とローレンツ公国の差に驚き、道中の対応の違いに驚き、一生レヴィで生きていこうと決めたのだ。
「やはり公国の独立には無理があったか」
エドワードは背もたれに身体を預けて腕組みをする。ガレス王国は元々レヴィ王国の王子に土地を分け与えたのが始まりなので、国家として何ら問題はない。しかしローレンツ公国は第一皇子がシェッドの皇帝になれなかったが為に独立した国だ。筋を通さずに建国したのならば、余程うまく立ち回らないと難しい。初代は何とか持ちこたえたが、代を重ねる毎に歪み続けている様子。レヴィ王国も嫡男相続だが、周囲に優秀な者で固める事が出来る。シェッド帝国は元々皇帝の力が強いので、ローレンツ公国もそれに則ってしまった場合、立ち行かなくなるのは当然とも言える。
「リアン、公国との関係はゆっくり手を引け」
エドワードは冷めた目でリアンを見た。リアンは怪訝そうな表情を浮かべる。
「ゆっくりじゃないといけない?」
「急に手を引いたら不審だろう。それにシェッド連邦の準備が終わっていない」
「シェッドに押し付けるの?」
「元に戻すだけだ。そのつもりがなければジェリーをシェッドにやらない」
エドワードの従兄弟であるジェロームは近衛兵であるが、現在はルジョン教の教皇であるシャルルの娘シルヴィの配偶者だ。近衛兵は一生レヴィ王家に忠誠を誓うのが習わしであり、ジェロームはあくまでもシェッド連邦に潜入中という体である。エドワードがそう言いきってしまえば、例外の対応でも誰一人文句は言えない。
「元に戻すとシェッド連邦が大きくなりませんか?」
「宗教を正しく信仰するのならば何の問題もない」
ルジョン教を信仰して慎ましやかながらも充実した生活を送る国を作る為に、皇妃アナスタシアは日々努力をしている。純粋に宗教を信じている民からの皇妃アナスタシアに対する敬愛の念は強く、彼女が生きているうちなら何とかなるとエドワードは踏んでいる。
「それでもリチャードが執務を行う年齢までは引き延ばすつもりだ」
「片付けられそうな機会が訪れても、ですか?」
今まで黙っていたスティーヴンの質問に対し、エドワードは笑顔を浮かべた。
「あぁ。仮想敵国のない国の統治など面白くも何ともないだろう?」
エドワードは常にありとあらゆる可能性を考えている。周囲の国をレヴィ王国に取り込んだ場合の未来も当然予測していた。その結果が現状維持である。これはジョージが戦争をしたがらないからではない。国を大きくし過ぎると政治が腐敗するか、内戦を始めるかという予測しか導けなかった為だ。レヴィ人と自治区のケィティ人で構成される現状のレヴィ王国で繫栄し続けるのが一番平和を享受できるという判断である。だが平和も続き過ぎればおかしな意見を言い出す者が必ず出てくる。国力は置いておくとしても、周囲に平和を脅かす可能性がある国があった方がいいだろうと彼は結論付けた。
「それが面白いと思うのは陛下だけですよ」
「息子達は距離が近過ぎる。要らぬ反発を招きかねない」
エドワード達は元々緊張感の漂う関係だった。リアンは自由にしていたものの、表向きは違う派閥の三人がエドワードに仕えているという構図だった。しかし今は王家と五公爵家のうち三家が近く、侯爵家以下の貴族の中には面白く思っていない者もいる。
「だからクラークの嫡男を側近にしようとしてるの?」
リアンの言葉にエドワードは返事をしなかった。リチャードの側近にと誘ったものの、エレノアからは息子が成人するまで待ってほしいと返信があったのだ。ここで他の人間を探してはベレスフォード家軽視になってしまうので、了承の旨を伝えた後でリアン達には王太子の側近候補を探してくるなと釘を刺していた。
「いつまでクラークと呼ぶのですか。ベレスフォード家です」
「あそこの当主夫人はクラーク卿だと俺は思ってるよ」
フリードリヒの指摘にリアンは笑顔で応える。実際ベレスフォード家を取り仕切っているのは当主のウルリヒではなく妻のエレノアであり、彼女の旧姓及び土地名がクラークなので間違っているとは言い難い。
「ウルリヒ兄上の息子を王太子殿下の側近にして大丈夫ですか?」
リアンを無視してフリードリヒはエドワードに問いかける。エドワードはフリードリヒにウルリヒは使えない弟だと言った記憶があるものの、フリードリヒからそう言われるとは思っておらずやや困った笑みを零す。
「エレノアの息子に興味がある」
「昔から彼女を評価していますよね」
「彼女は公爵家当主としての資質を持っている。クラークの血を継ぐ者に教育を怠るとは思えない」
「もうベレスフォード家をやめてクラーク家に戻した方がわかりやすくない?」
「唯一のウルリヒの存在価値をなくそうとするな」
「陛下、言葉が過ぎます」
スティーヴンが冷静に指摘をする。エドワードは視線をスティーヴンに向けた。
「レスターがウルリヒの肩を持つ必要性などあるか?」
「その公爵家はとうに潰れました」
スティーヴンは淡々と答える。彼はレスター公爵家に未練を一切持っていない。そもそも彼も当主には不向きで、家の事は全て妻のミラが取り仕切っている。
「公国の血が流れている男が王太子の側近をする。いい餌になるとは思わないか?」
「私は餌だったのですか?」
「フリードリヒの才能は国に必要だから誘った。だいたい長子でなければ意味がない」
ツェツィーリアとローレンツ公国がどれ程繋がっているのか、エドワードは掴みきれていなかった。だからこそウルリヒは才能の有無にかかわらず王都から追い出す必要があったのだ。一方フリードリヒは公女と結婚に至らなかったのだから、公国側から接点を持ってこないだろうと判断していた。
「ベレスフォード家は公国に興味がないだろうが、向こうがどう思うかは別だ」
「しかしウルリヒ兄上は公国語を理解しませんから接触のしようがありませんよ」
フリードリヒの言葉にエドワードは表情こそ繕ったものの、大きな見落としがあったと気付いた。レヴィ王国は大国故に、他国から訪ねてくる者はレヴィ語を覚えてくる。ただし公国だけは覚えてこないのだ。ウルリヒが公国語を簡単な挨拶しか理解しないと知っていたのに失念していた。
「シェッドでさえ覚えてくるのに、本当に何様なんだろうね、あの国」
エドワードの動揺など気付かずにリアンが話すので、エドワードは平然とリアンを見る。
「スミス領には通訳がいるのか?」
「父上に嫌々公国語を覚えさせられた執事がいるよ。あ、彼がこの世を去ったら公国語が読めませんと縁を切ろうかな」
「手紙を持ってきて貰えれば翻訳しますし、返信も代筆しますよ」
「それ、フリッツに何の得があるの?」
「私はあの国が好きになれないので、陛下が掌で転がすつもりなら手伝おうかと」
フリードリヒはしれっと言い放った。それに対しリアンは怪訝そうな表情を浮かべ、エドワードは楽しそうに微笑む。エドワードにとってジョージは頼りになる総司令官だが、根が真面目で自分と同じ思惑を抱いてくれない。しかしフリードリヒはかなり近いと思えた。
「どうせ見栄ばかり張って碌な手紙ではないだろうが、それを逆手に取るのも一興だろう」
「スミス家の印象を悪くしそうで嫌なんだけど」
「たいして良くないから問題ない」
「酷い! これでも筆頭公爵家なんだけど」
「近い将来ハリスン家になると思うから、せいぜい今のうちに堪能しておくといい」
エドワードに冷めた声でそう言われたものの、リアンは返す言葉が見つからなかった。実際、スミス家が筆頭になったのはレスター公爵家がなくなったからだ。公爵家として一番資産を持っているのがハリスン家であり、ウォーレンが宰相を務めている現在はいつ入れ替わってもおかしくない。
「筆頭がそれほど大切ですか? 王宮舞踏会での立ち位置くらいにしか影響しないと思いますが」
「土地にも家名にも執着のないフリッツにはわからないよ」
筆頭公爵家はハリスン家とレスター家のどちらかであった。スミス家は歴史はあるものの、突出した当主に恵まれず一度も選ばれていない。故に念願の筆頭なのである。
「私にもわからないな」
「スティーヴンは口を挟まないで。今はリスター侯爵家なんだから」
「申し訳ございませんでした、スミス卿」
「うーわー。絶対馬鹿にしてるでしょ」
「リアン。フリードリヒに話しかけた理由は何だ」
収拾がつかなくなりそうだったので、エドワードはリアンに鋭い視線を向けた。そもそもはリアンがフリードリヒにフリッツと呼びかけた所から仕事が止まっているのだ。
「え? 何だっけ?」
リアンは思い出せないようで、助けを求めるようにフリードリヒに視線を向ける。しかしフリードリヒが答えを持っているはずがない。ただ言える事はひとつだった。
「機嫌は別段悪くありません」
「機嫌が悪くもないのに俺は無視されてたの?」
リアンは疑うような眼差しをフリードリヒに向ける。しかしフリードリヒは無表情で頷いた。そのやり取りを見てスティーヴンが呆れたように口を緩ませる。
「今笑ったでしょ、スティーヴン」
「いいえ。私は仕事に戻りますから、お静かにお願いします。スミス卿」
「お願いします、スミス卿」
「もう! フリッツまで!」
リアンはエドワードに視線を向けるが、エドワードは既に仕事を始めていた。スティーヴンとフリードリヒも何事もなかったかのように仕事に戻っている。リアンは何を聞こうと思ったのか思い出そうとしたものの、思い出せなかったので渋々仕事に戻った。