新しい側近
フリードリヒは六年の大学生活を終え、学生寮から王宮へと戻ってきていた。彼はレヴィ国立大学の留学生、メイネス王国の第三王女ボジェナと婚約をしたが、結婚はボジェナが大学を卒業してからの予定だ。
フリードリヒは王家直轄地となっていたラナマンを拝領し、サリヴァン公爵家当主となっていた。しかし領地ではなく王都に残る事になった。エドワードから直接側近になるようにと言われたからだ。
本来なら当主になった時点でその公爵家の屋敷に住居を移すのだが、フリードリヒは王都に屋敷を持っていないので、その間王宮で暮らすという形を取っている。実際はエドワードから屋敷の打診を受けたのだが、ボジェナと暮らすまでは不要と断っていた。
前々から何を考えているかわからないと思われていたフリードリヒは、今も同じようにそう思われながら王宮で暮らしている。敬称が殿下から卿に変わり、セオドアが側近から外れた以外に変化はない。
フリードリヒが支度を整えると扉を叩く音がした。返事をして従者が扉を開けると、そこにはオリバーが立っていた。
「お初にお目にかかります。近衛兵のノルと申します。本日は陛下より執務室に案内するよう承っております」
「場所は知っているが」
「最初は入り難いだろうと仰せでした」
オリバーにそう言われフリードリヒは大人しく受け入れる事にした。別段入り難いとは思っていなかったが、エドワードの気遣いを無駄にする必要もない。エドワードが細やかな配慮をするのが意外だったが、サマンサの言葉を思い出してそうでもないかと改める。以前サマンサが言っていたのだ。エドワードは心を許した人には優しいと。愛称で呼ぶ権利を与えられたのはそういう意味なのだろう。
フリードリヒはオリバーの後を無言で歩いていく。フリードリヒの私室からエドワードの執務室までは距離がある。だが、別に近い場所に部屋替えをしようとは思わなかった。昔から暮らしていた部屋に愛着があるという訳ではない。歩く距離があった方が、公私を切り替えられそうだと思ったからだ。
執務室の前に着き、オリバーが扉前の従者に目で合図をする。従者はそれを受けて扉を叩き、開く。まずはオリバーが部屋に入り、フリードリヒはそれに続いた。
「陛下、サリヴァン卿をお連れ致しました」
「ご苦労」
エドワードの労いを聞き、オリバーは一礼をすると部屋を辞して扉を閉める。執務室にはエドワードが奥に、その手前にスティーヴンとリアンが向かい合わせに座っている。そしてスティーヴンとリアンの横にそれぞれ空き机が置いてあった。
「おはようございます。本日から宜しくお願い致します」
フリードリヒはそう言って一礼をした。今までの公務でエドワードとやり取りする事はあったが、執務室に入るのは初めてだ。また、面識はあるもののスティーヴンともリアンとも別段仲良くはない。どちらに座るべきかフリードリヒには判断がつかなかった。
「おはよう。もっと気楽でいい。席も好きな方でいい」
エドワードはにこやかにそう告げた。あまりにも柔らかい声色にフリードリヒは戸惑う。
「スティーヴンの隣なんて嫌だよね。俺の横においで」
「多分リアンがサリヴァン卿に教える事はないだろう」
「確かに俺は大学には通ってないけど、先輩だからね」
妙に張り切っているリアンと冷静なスティーヴンのやり取りを聞いて、フリードリヒは迷わずにスティーヴンの隣に腰掛けた。その行動を見てリアンは眉を顰め、口をわなわなと震わせる。
「どうして!」
「だからリアンの隣に机は要らないと言っただろう。書類置き場にはするなよ」
信じられないといった表情のリアンに、エドワードが冷静に告げる。スティーヴンは気にもせず、手元に置いてあった書類に視線を向ける。
「この席で決定なの?」
「リアンが横では集中出来ないと思うが」
「そんな事ないよね?」
親し気に話しかけてくるリアンにフリードリヒは無表情を向ける。今まではあくまでも公爵家の人間と王弟という立場でしか接してこなかった。これほど馴れ馴れしい態度は初めてだったのである。しかしエドワードもスティーヴンも気にしていないのだから、これがリアンの普通なのだろう。しかしフリードリヒはまだ受け入れられない。
「一度こちらで仕事をしてから考えます」
「うわ、冷静。真面目にしなくてもいいのに」
「真面目でないと困るが」
「えー」
リアンが不満そうにエドワードを見ると、エドワードは冷めた視線を返した。その間も気にせずスティーヴンは書類の文字を追いかけている。また、扉を開けた従者がフリードリヒの前に筆記具と書類を置く。それに気付いてエドワードはフリードリヒに視線を向ける。
「フリードリヒの仕事は当面、今までの公務の延長だ」
「え? 俺の仕事量は減らないの?」
「増やす事なら出来るが」
「酷いよ、エディ」
本当にエディと呼びかけるのかと、フリードリヒは聞きながら書類に視線を落とす。それは先日エドワードに提出した書類だった。国内の学習環境を整える事案と福祉の充実を図る事案。どちらも議会に上げられるように煮詰めろと付箋が貼られている。
「私は学習環境を整える方を優先して欲しいが、どうだ」
「かしこまりました」
「ちょっと! 俺と話しているのに何でフレッドなの」
リアンの言葉を聞いて、フリードリヒは視線を書類からリアンに動かす。フリードリヒは自分が何と呼ばれようと気にしてはいないのだが、流石にフレッドは違和感しかなかった。レヴィ語にした場合の自分の愛称とはいえ、特に親しくもない人に呼ばれるものではない。
「いきなりフレッドはどうか。私でさえフリードリヒなのに」
エドワードも同じ事を思ったのかリアンに苦言を呈す。しかしリアンは気にしない。
「それならエディもフリッツって呼べばいいじゃん」
「愛称は相手に許しを貰ってから呼ぶものだ」
フリードリヒはエドワードの言葉が引っかかった。確かに彼は以前エドワードを愛称で呼ぶ権利を貰い、エド兄上と呼びかけると話をした。しかしその際に自分については何も言わなかった。礼儀としてそれを伝えるべきだったのかと彼は内心考える。本当に何と呼ばれても気にしなかったので、そこまで気が回らなかったのだ。
「私の呼び方は何でも構いませんよ、エド兄上」
フリードリヒの言葉にエドワードとリアンだけでなくスティーヴンさえも彼を見た。
「え、エド兄上? え? え??」
リアンは驚きフリードリヒとエドワードの顔を交互に見る。その間、フリードリヒは無表情、エドワードはやや微笑んでいた。三度交互に見た後でリアンは不満そうにエドワードを見つめる。
「いつの間に許可したの?」
「いつでもいいだろう」
「ちょっと贔屓が過ぎない?」
「リアンの愛称も不問にしてやっている」
「それは俺とエディの仲だから」
「私とフリードリヒは異母兄弟だが」
次から次へとリアンとエドワードがやり取りするのを気にせず、スティーヴンは書類に視線を戻していた。フリードリヒもそれが正しいのだろうと、学習環境を整える事案の書類を手に取る。それを察してリアンがフリードリヒの方を向く。
「どうしてフレッドは仕事を始めようとしてるの」
「私は今日から側近として勤めに来たのであり、遊びに来たのではありません」
「真面目。わかっていたけど真面目過ぎる」
「リアンも真面目にするといい」
「嫌だよ、息が詰まって窒息死したらどうしてくれるの」
「墓に手を合わせてやる」
「窒息死する前に助けてよ」
とても国王の執務室とは思えない騒々しさに、フリードリヒは今後どうしたらいいのか内心困惑していた。隣では淡々とスティーヴンが何かを書き始めているが、流石に彼は未だそこまで集中出来ない。
「フリードリヒが困惑している。少し落ち着け」
エドワードに指摘され、リアンはフリードリヒの方を見る。しかしリアンにはフリードリヒがただの無表情にしか見えなかった。
「落ち着いて見えるけれど」
「わからないならフレッドと呼んではいけない。もう少し仲が良くなってからだな」
「本当に困惑しているの?」
リアンは訝し気にフリードリヒを見る。フリードリヒは無表情のまま頷いた。
「正直、静寂な環境だと思っていましたので困惑しています」
「忙しい時は静かになるから安心していい」
それは安心していいのかとフリードリヒは内心困惑したままだったが、エドワードの表情が柔らかいのでとりあえず頷いて応える。二人の空気感にリアンは首を傾げた。
「想像以上に二人が仲良し。いつの間に?」
「仲良くなければ側近として迎えない。いい加減仕事を始めろ」
エドワードはそう言うと書類に視線を落とした。それを聞いてリアンも渋々仕事を始める。フリードリヒは妙な職場に来てしまったと思いつつ、事案を煮詰める作業に取り掛かった。