国王の執務室にて
国王の執務室ではエドワードとその側近二人が仕事をしている。三人だけで国政を支えられるはずもなく、三人の指示を受ける者の出入りも多い。だが三人が呼ばない限りは誰も訪ねたりしない。唯一人を除いて。
ウォーレンは部屋に入るなり、リアンの顔を見てため息を吐いた。それを見てリアンは不服そうな表情を浮かべる。
「人の顔を見てため息を吐くのは失礼ではありませんか」
ウォーレンとリアンは互いに公爵家当主なので地位は同じだが、リアンはウォーレンに苦手意識があるので言葉遣いは崩れない。一方、ウォーレンは弟カイル以外には丁寧に話すので、この二人の会話はいつもよそよそしさが漂っている。
「顔が変えられないのは仕方がありません。ですが体型は努力出来ますよ」
ウォーレンの視線はリアンの腹部に向けられている。リアンも最近少し贅肉がついてきたことは気にしていたが、見て見ぬふりをしていた。
「仕方がないではありませんか。年には勝てないのですよ。そうですよね?」
リアンは同意を求めようとエドワードとスティーヴンに視線を向ける。しかし二人とも冷めた視線を返しただけだ。太る事を恐れて努力を惜しまないナタリーに合わせて、エドワードも体型には気を遣っている。スティーヴンは毎日乗馬で王宮と屋敷を往復している為、自然と身体が引き締まっていた。勿論美を追求しているウォーレンが体型維持に手を抜くはずがない。年相応に贅肉を許していたのは自分だけだとリアンは初めて気付いたのだ。
「嘘だ、どうして!」
「馬車でなく乗馬で通えばいいのではないか」
「今更馬になんか跨がれないよ。もう十数年も乗ってないんだから」
乗馬は貴族の嗜みのひとつである。しかし王宮に通っている貴族の中で乗馬を選ぶ者は少ない。レヴィ王宮は広大な敷地を有しているので馬車をとめるのに困らないのだ。
「十年後には貫禄のある姿になっていそうですね」
ウォーレンは冷ややかな視線をリアンに送る。リアンは悔しそうに唇を歪めながら視線を返す。
「仕事が出来れば体型なんて何でもいいと思います」
「スミス卿の仕事に問題がなければ、私がここを訪ねる必要はありませんでした」
そう言いながらウォーレンはリアンの机の上に書類を置く。その書類には細かな間違いを訂正する付箋が数ヶ所貼られていた。
「スミス卿はもう少し真面目に側近の仕事をして下さい。一体いつまで陛下に甘え続けるおつもりなのでしょうか」
ウォーレンはリアンの顔が好みではない、というだけで冷たく対応しているわけではない。兄グレンが道を外すきっかけのひとつだったのが引っかかっているのだ。勿論、一番の原因は祖父の強要であったと理解している。彼自身、道を踏み外した兄を見捨てたのだ。しかしリアンの対応が違えば、この部屋にはもうひとつ机があったのではとも思わずにはいられない。
昔のウォーレンは祖父から与えられた任務に手一杯だった。チャールズに仕えるというのは精神的にも負担が大きかったが、最終的に彼は自分の任務を果たせたのである。しかしその時には既にグレンを元の道に戻す事は不可能な状態になっていた。不可能である以上、恥を晒す前にこの世から去って欲しいと願い放置したのだ。
ウォーレンとチャールズには共通点があった。どちらも母親の恋愛感情に癖があったのだ。チャールズの母は夫とは違う男性の子を産み、ウォーレンの母は夫を独占する為に、長男と三男の母である女性を排除してしまった。ただ、ウォーレンの母は息子に興味を持たなかったが、チャールズの母オルガは息子に対する愛情が異常であった。
そんなオルガが亡くなった後、チャールズは安堵の表情をウォーレンに向けた。これでやっと陛下の望みを叶える事が出来る――その言葉はウォーレンに重く圧し掛かる。ウォーレンの任務と一致するので問題はない、むしろチャールズの出生の秘密は絶対に漏らしてはいけない。しかし病弱な彼をわざわざ高額な薬で生き長らえさせて実父に手をかけさせる事が、国の為の行動としていいものなのかウォーレンには判断出来なかった。
だがチャールズに迷いは一切なかった。側近として主の為に働くべきだと割り切ったウォーレンは、病弱故に体力がなく自由に動けない主の手足となり、主の願いを叶えたのである。珍しく厳格な祖父に褒められたが、今でもウォーレンはこれが正しかったのか答えを見つけられていない。
それでもチャールズが最期に願った事、エドワードとレヴィ王国の為に働いてほしい――を叶える為に、ウォーレンは現在宰相を務めている。
「リスター卿の仕事がおかしい時期もありましたけれど、あれは一時だけでした。スミス卿は定期的です。いい加減にされるのは困るのですけれども。陛下もそろそろ対応を変えて頂けないでしょうか」
ウォーレンは冷めた新線をエドワードに向ける。それを受けてエドワードは困ったように笑った。
「スティーヴンの問題は解決済みだから今後は大丈夫だろう。リアンに関しては諦めた方が早い」
「何故諦めなければいけないのでしょうか」
「スミス家は代々突出した者が出ない家だ。スミス家出身のリアンにこれ以上を求めるのは心苦しい」
「ちょっとエディ、俺を庇っているようでスミス家を下げてるよね?」
「事実、スミス家出身の宰相は歴史上いない。ハリスンと旧レスターはいるが」
エドワードに指摘されリアンは返す言葉がない。宰相の任期は特に決まっていないが、政策に失敗があれば責任を取らされる為、長期で務める事は難しい。故に国王とは比べ物にならない人数が宰相の座に就いているのだが、二代目レヴィ国王の弟が興して続いているスミス家からは一人も出ていなかった。
「確かに先代よりましなのは認めましょう。しかしそれでももう少し何とかなりますよね」
「父の代の話に限るならば、当家とハリスン家は大差ないと思います」
「それは認めますけれど、当代ならば差は歴然ではないでしょうか」
ウォーレンは射抜くような視線をリアンに向ける。普段飄々としているリアンであるが、流石にウォーレンに対していつもの調子は出せない。二人は年齢が同じであり、幼い頃は比べられる事も多かった。
「ウォーレン、これ以上私の側近を減らそうとしないで欲しいのだが」
「スミス卿より優秀な侯爵家の人間を何人か推薦可能です」
「ウォーレンにはわからないだろうが、私にはリアンが必要だ」
エドワードの言葉にリアンは笑顔を浮かべる。しかしウォーレンは信じられないといった表情でエドワードを見つめた。
「本当に必要でしょうか」
「レヴィの歴史の中で初めてライアン・スミスの名が残る可能性もある」
「そこはリアンで名前を残して欲しいんだけど」
「適当な公爵家当主、として名前を残しても仕方がないと思いますが」
きっぱりとウォーレンに切り捨てられ、リアンは助けを求めるような視線をエドワードに向ける。エドワードはちらりとリアンを見た後、ウォーレンに真剣な表情を向けた。
「私は父のような緊張感のある政治はしたくない。平和な世を作るには多少のゆとりが必要だ。そのゆとりは私もスティーヴンもウォーレンも作り出せない」
「確かに、それはそうかもしれません」
「チャールズは私の治世をどのように望んでいた? そこにリアンはいなかったのか?」
突然振られた話にウォーレンは驚いてすぐに言葉が出てこなかった。エドワードとチャールズの話をした事はあるが、二人きり以外ではした事がなかったのだ。それ程、エドワードにとってチャールズの話題は繊細だった。しかもチャールズの出生についてリアンは知らない。
「チャールズ様はジョージ様さえしっかりしていれば大丈夫だろうと仰せでした」
少しの間の後で口にしたウォーレンの言葉にエドワードは笑みを零す。
「それは確かにそうだな。ジョージあっての平和だ」
そう言ってエドワードは背もたれに身体を預けると視線を伏せる。
「今更だと思うが、私は何故チャールズと会話をしなかったのだろう。母が亡くなった後ならば、国の未来についていい討論が出来た気がする」
「それはどうでしょうか。チャールズ様は自分の命が長くない事は自覚しておられました。故に心から未来を案ずることが難しいと常に仰せでした」
「そうか。あの世が存在するのならば、チャールズとグレンは私達を見ているだろうか」
「チャールズ様は見ておられるでしょうが、兄はどうでしょうね」
「グレンは見ていると思いますよ」
ここまで空気のように黙っていたスティーヴンが口を開いた。それを聞いて三人の視線が一気にスティーヴンに集まる。
「グレンは不器用でしたけれど、陛下の事も弟二人の事もとても気にしていました。心の脆さを隠していたので私には何も出来ませんでしたが」
「グレンは俺の事は嫌いっぽかったけどなぁ」
「理解不能だっただけだと思う。私もこの際言うが、陛下に甘えるのはいい加減にしてほしい」
スティーヴンにまで言われリアンは困惑の表情のままエドワードを見つめる。エドワードは無表情だ。
「リアンが優秀になってしまうと、アリスがエドガーに嫁ぎたいと言った時の拒否理由がひとつ減ってしまうからこのままでいい」
「え? 俺の為じゃなかったの?」
「ゆとりが欲しいと思っているのは嘘ではない。だがアリスを嫁がせる気もない」
「えぇ? あの二人の仲の良さを知っててそれを言うの?」
リアンは首を傾げながらエドワードに問うた。しかしエドワードはそれを無視する。
「降嫁に関しては、モリス家の嫡男が申し出ていますよね」
「セオドアは王女が欲しいだけだ。そのような男に嫁がせるはずがない」
エドワードは不満そうに吐き捨てた。そして少し逡巡した後でため息を零す。
「まともな公爵家がない気がする。レヴィの将来は本当に安泰なのか?」
「ハリスンは安泰です。甥のグレンに兄と同じ轍は踏ませません」
「スミス家も大丈夫だよ。エドガーは俺以上な気がするから」
「フリードリヒ殿下が優秀ですから、そちらに期待しては如何でしょうか」
「フリードリヒか。あれは癖が強い。爵位を受け入れない可能性が高い」
「ナタリー様の仕事を押し付けるから」
リアンの言葉にエドワードはリアンを睨む。
「ウルリヒと違って仕事が出来そうな雰囲気があったからな。リアンより優秀なのは間違いない」
「ちなみに俺とウルリヒ様なら俺だよね?」
「そうだな。だが凡人中の凡人ウルリヒより上くらいで喜ばれても困る」
「凡人って言い方酷くない?」
「使えないからクラークに居るのだ。ちなみに夫人と比べるとリアンが負けるかもしれない」
「え、噓だ。エレノア・クラークに俺が負けるの?」
「今はベレスフォード夫人だ。それが嫌なら真面目に働け。これでいいだろう?」
エドワードに笑顔を向けられ、ウォーレンはゆっくりと頷いた。
「そうですね。もう少しだけ猶予を与えましょう」
「何故上から目線なのですか!」
「それでは失礼致します」
ウォーレンはリアンの言葉を無視して執務室を出ていった。それを確認してリアンは天を仰ぐと机を叩いた。
「もう嫌だ。本当苦手」
「ハリスン卿は正論しか言っていない。陛下の親友などと言っていないで真面目に働くしかないだろう」
「うぅ」
リアンは悔しそうに顔を歪めながら、机の上に置かれた書類を見つめる。
「ウォーレンなら本当に側近を入れ替える。書類は完璧に作れ」
「それは俺が側近じゃなくなると困るから、俺を応援してくれてるって事だよね?」
「好きに解釈していいが、次は庇わない」
エドワードは冷たい視線をリアンに向けた後、自分の仕事に戻った。リアンは縋るようにスティーヴンを見るが、彼は既に仕事に戻っている。リアンは仕方なく、付箋の注意書きを読み始めた。