隊長夫人と副隊長夫人
カイルは赤鷲隊兵舎から自宅へと数日ぶりに戻った。ウォーレンから譲渡された元ウォーグレイヴの屋敷はそれなりに改修が進んでいて、生活するのに何ら苦はないが、彼が家に戻るのは月に数回である。
「おかえりなさいませ」
使用人と共にエミリーが出迎える。彼女は化粧をして綺麗な服を身に纏い、どこから見ても公爵家の嫁である。とても二週間前に男児を出産したとは思えない。
カイルが戻りの挨拶をすると屋敷の中へと歩いていく。それに一歩下がってエミリーが続く。二人が向かった先は子供部屋である。
子供部屋には子供用のベッドが置かれ、その横には乳母が待機していた。カイルとエミリーが入ってきた為、乳母は一礼をすると部屋を出ていった。子供はすやすやと眠っている。
「昼間にウォーレン様がいらっしゃいました」
「兄は満足していましたか」
「判断が出来ないので、数か月後にまた来るとの事でした」
カイルは微笑むと息子に視線を移す。いくらウォーレンでも生後二週間の子供が自分の好みの顔かどうかなどわかるはずもない。
「それとハリスン家を継ぐ男児をありがとう、というお言葉を頂きました」
「兄の好みでなくとも跡を継がせると認めたという事でしょうか」
「それはウォーレン様に確認をお願いします」
二人が話していると子供がぐずり、泣き始めた。エミリーは失礼しますとカイルに断ると、彼に背を向けて子供を抱え母乳を与えた。彼女はあくまでもライラの子供の乳母をする為に出産したのである。ハリスン家が乳母を用意してくれていたが、基本的には彼女が母乳で育てている。
「明後日にライラ様がこちらにいらっしゃることになっています。その時に戻る時期について相談しようと思います」
現在、エミリーは暇を貰っている状況である。本来なら王宮で務める者は豊穣祭の日を除いて外出が出来ない。だが彼女は赤鷲隊預かりである事、父の容態が悪いという嘘の理由を作った事で、臨月になる前に王宮からこちらに移動をしてきた。本当は予定日数日前までライラの傍にいるつもりだったのだが、万が一王宮内で産気付いたらどうするつもりなのかとライラに問われ、仕方なく暇を貰ったのである。現在はハリスン家に仕える女性がライラの侍女業務を行っている。
「ライラ様の出産まで二ヶ月ほどあると聞いていますから、ゆっくりでいいのではないですか」
「父を勝手に病気にしたのでガレスへの往復を考えると、長い間留守にしていても不自然ではないと思いますけれど、私が辛いのです」
エミリーはライラ至上主義である。出産もあくまでライラの為。それは出産した今も変わらない。息子が可愛くないわけではないが、ハリスン家へ養子に出す子供という思いが強い。ライラが女児を出産した暁には、この息子の所へ嫁いでくる可能性を考えると、相応しい子供にしなければいけないと思うくらいだ。
「ライラ様も寂しそうにされていましたよ」
ジョージとカイルも付き合いが長いが、ライラとエミリーの方が長い。ライラが生まれた時から二人は一緒なのである。ライラが公爵家の娘として教育を受けるようになるまで、二人は一緒に遊んだ。帝国の色々な言葉を使って話す事さえ、二人の中では遊びの延長だった。
「まだ下手な公国語を勉強されているのですか」
エミリーの言葉には棘があった。公国語を教えて貰う為に、カイルは度々ライラを訪ねていた。それでも二人きりになるのはジョージに悪いからと、必ずエミリーは同席を強いられていのだが、その時に聞く彼の訛りがずっと引っかかっていたのだ。
「ライラ様が下手だと仰られていたのですか」
カイルは意外そうな表情を浮かべる。エミリーは乳を飲む息子から視線を外さないのでその表情は見えないが、声色で察した。
「聞いていればわかります。何故私が公国語を理解しないと思い込んでいるのか、不思議でなりません」
ジョージには見破られたのですぐに答えたが、カイルには聞かれなかったのでエミリーは言っていない。そもそも彼には思い込む悪癖があると彼女は思っていた。一介の侍女が帝国内の言葉を理解するなど普通は思わないが、それでもライラの傍にいる変わった侍女という認識さえあれば、ジョージのように気付くはずなのだ。
「わかるなら先に教えて下さい。ライラ様に教えを請わずに済んだではありませんか」
「ですが私にわかるのは話し言葉だけなのです。読み書きは出来ません」
「公国人と手紙のやり取りをするわけではないので、読み書きは重要ではありません。亡命者がいつか現れた時の為の、あくまでも尋問用なのですから」
ライラとエミリーは普段はレヴィ語で会話をする。それでも他の言葉を忘れないようにと色々な言葉を使う。ライラが帝国南西語で話しかけ、エミリーが帝国北方語で返すなど、端から聞いていたら違和感しかない状況でも会話が成立する。エミリーは直接覚えたわけではないが、ケィティ語とアスラン語も簡単な会話なら聞き取れるようになっていた。どこかへ潜入捜査させる間者としてはかなり優秀な人材である。勿論、ライラが許可をしないので彼女が間者になる事はないが。
「ライラ様は成長過程で自然と他国語を覚えられたのと、天性の才能によって言葉を使い分けられます。ですから少々発音の教え方が下手なのですよね」
「貴女は違うのですか」
「私は才能ではなく努力で覚えましたから、教えるならばライラ様より上手いと思います」
ライラは耳がよく、聞いた言葉をそのまま発音出来るのである。これは最初に聞いた言葉に訛りがあればそれを覚えてしまう危険もあるが、ライラはそれぞれの訛りを別のものとして覚えられる。王妃の侍女が話すレヴィ語が訛っているとエミリーにはわかってもその発音は出来ないが、ライラはそれさえも使い分けて話してしまう。出身国さえも偽って話せるこの能力は、誰にも出来ないライラの才能である。エミリーは流石にそこまでは出来ないので、ライラの言葉を聞きながら訛りだけを修正していった。彼女は決して他国語を覚える必要はなかったのだが、ライラの侍女になるには必要だろうと努力をして習得していた。
「それでは今後教えて貰えますか」
「そうですね。時間が合えば検討します」
エミリーはあくまでもライラが一番である。たとえカイルの願いであろうとライラより優先順位が上になる事はない。
「それでは明後日、その件も含めて話しておいて下さい」
「わかりました」
「エミリー、久しぶり!」
エミリーは玄関でライラを出迎えるなり、ライラの熱い抱擁を受けた。だがいつもより力が緩いのはライラのお腹が目立ってきたせいである。
「ライラ様、暫くお会いしないうちに随分と大きくなられましたね」
エミリーは臨月までライラの侍女を出来る程、あまりお腹が目立たなかった。少し太ったかもくらいだったのである。一方ライラは臨月なのかと思うほど、お腹が前に出ている。
「そうなのよ。正直エミリーより大きくなってしまって怖いの。ジョージが長身だから、この子も大きいのかしら」
「流石にジョージ様も生まれた時は、さほど大きくなかったのではないかと思いますけれど。立ち話もあれですから中へどうぞ」
エミリーは使用人にライラを部屋まで案内するように伝えると、紅茶の準備をしますので少しお待ち下さいと言って別方向へ歩き出した。
ライラは使用人に案内された客間のソファーに腰掛けた。この屋敷に来たのは初めてなので色々と見たいのだが、使用人が部屋の中に控えているので彼女は大人しく待つ事にした。屋敷の使用人とは初対面であるし、妙な行動をしてウォーレンに告げ口をされ出入り禁止になるのは避けたかったのだ。
暫くしてエミリーが子供を抱えて部屋に入ってきた。一緒に入ってきた使用人はテーブルの横にカートを置くと、ライラを案内した使用人と共に一礼をして部屋を出ていった。
「奥様に紅茶を入れてもらうなんて悪いわね」
「ライラ様に紅茶を淹れるのは私の特権です。他の誰にも譲りません」
エミリーは抱えていた子供をゆりかごに寝かせると紅茶の準備に取り掛かった。ライラは笑顔でゆりかごの中を覗く。
「んもう。ウォーレンが微妙と言っていたけど可愛い子だわ」
「いつウォーレン様にお会いになられたのですか?」
「今朝よ」
エミリーは手際よく紅茶をティーカップに注ぐとライラの前に置いた。そして自分の分も淹れるとライラの正面に腰掛ける。ライラは紅茶の香りを堪能し、口に運ぶと笑顔を零した。
「やはりエミリーの紅茶が一番だわ。代理の侍女がハーブティーを淹れてくれるのだけど、基本的に薔薇の香りなのよね」
「それは仕方がありません。この屋敷も庭は薔薇だらけですし、それは否定する方が疲れるので諦めています」
いくらウォーレンがカイルに譲渡したとはいえ、カイルとエミリーはこの屋敷で毎日過ごしているわけではない。継続雇用している使用人の手にかかれば、自然とウォーレンの好みに寄ってしまうのである。エミリーは一ヶ月半ここで暮らしているが、すっかり薔薇に囲まれる生活に慣れてしまっていた。
「それでウォーレン様は何か仰られていましたか」
「エミリーの侍女復帰時期について確認に来ただけよ」
エミリーはライラを見つめた。復帰の時期についてエミリーは一ヶ月を目処にしようとしたのだが、ライラが出産してみないとわからないから後日相談としていたのだ。そして今日はその相談の日なのである。
「ウォーレンはエミリーに母親として子供の傍にいてほしいと思っているような気がするの」
「母として、ですか?」
エミリーは聞き返した。ウォーレンから子供さえ産めばあとは自由だと言われている。そのような事を願われるとは思っていなかった。
「ハリスン家の闇は深そうだけど、だからこそ嫌な連鎖を断ち切ってくれる女性をウォーレンは探していた。エミリーは貴族の娘とは違うから、ハリスン家にいい空気を取り込んでくれると思ったのではないかしら」
「いい空気と言われましても、私はこの家で今は特に何もしていません」
エミリーは仕えられる事に慣れていないが、この屋敷の使用人は彼女を奥様として扱う。彼女も大人しくしておくのが得策だと思い、少しの間だけ奥様気分を満喫しようと割り切っていた。そのおかげで今は子供の事だけを考えられている。
「エミリーは空気を読むのが上手だから、何もしていないように見せているだけでしょう? ウォーレンはそういう所を見逃さないと思うわ」
ライラは微笑むと紅茶を一口飲む。
「ハリスン家の嫁としてどうするべきか、一度カイルと相談をして。私はエミリーが側にいてくれるのは嬉しいけれど、子供から母親を奪うような事はしたくないの」
貴族なら乳母に子供を預けて、自分で面倒を見ない母親は珍しくない。だがライラの母は乳母と共に積極的に子育てに参加をし、ライラとエミリーはそのような環境で育った。それこそが二人の中では普通なのである。
「カイルはきっと仕事が一番だわ。父親も母親も側にいないなんて寂しいと思わない?」
ライラの問いかけにエミリーは視線を伏せた。ライラは手元で子供を育てるだろう。ジョージも仕事を調整して一緒にいるようにするかもしれない。だが、エミリーがライラの侍女に戻れば、この屋敷に毎日戻ってくるのは難しくなる。カイルは元々赤鷲隊兵舎で寝起きしていて、たまにしか戻ってこない。将来の公爵家当主として、子供の環境がそれでいいのかエミリーにはわからなかった。
「父には生みの母親がいない事を知っているでしょう? あのような人間に育ってもいいの?」
ライラは父の事が好きだが、エミリーの子供は残念な男にはしたくない。そしてエミリーは公爵家当主であるライラの父がいかに残念かを知っている。
「それは困ります。ですがウォーレン様が何とかして下さるはずです」
「祖父が何とも出来なかったのに、出来ると思う?」
ライラの祖父アルフレッドはガレス王国でも有能な人物として有名である。当然、母親がいない息子クリフォードの周りに自ら選んだ人材を置いた。にもかかわらず、教育は成功したとは言えない。クリフォードが現在外務大臣を務められているのは、サラが妻として支えているからなのである。
黙り込んだエミリーにライラは微笑む。
「ヘンリーも仕事馬鹿だけれど、エミリーの傍にはエマがいたわ。エマのおかげでエミリーは素敵な女性になれたのだと思うのだけど、違うかしら」
「そうですね。母は偉大だと思います」
「だからエミリー、覚悟を決めてほしいの。カイルと結婚をした事を公表して、息子を連れて戻ってらっしゃい」
エミリーは予想外の言葉に驚きの表情を浮かべた。てっきり子供が大きくなるまで侍女をやめなければいけないのかと思っていたのだ。
「ウォーレンには今朝話をしたわ。エミリーが素直にカイルの妻だと認めれば、子供を連れて王宮で暮らしても構わないと」
エミリーは目を見開いた。ハリスン公爵家の次期当主を屋敷ではなく王宮内で育てる。そのような事をしていいのか彼女には判断が出来ない。だが、ウォーレンが認めたのならば多分大丈夫なのだろうと思えた。
「戻ってくるのは落ち着いてからでいいわ。部屋はこちらで用意するから」
「部屋は侍女部屋で十分です」
「あの部屋は狭いわ。王宮の端一角をジョージが借り上げている状態だから、別の部屋に子供用のベッドを置いたらいいの」
エミリーは訝しげな表情をライラに向けた。ライラの話が腑に落ちなかったのだ。
「借り上げとはどういう事でしょうか。ジョージ様は王族なのですから、王宮の部屋を借りる必要はないと思うのですけれども」
「昔、ジョージが部屋代を払っていると話したでしょう? 今は内政を手伝っている賃金代わりとして王宮の端一角を借りてるの。王宮内でありながら赤鷲隊隊長の屋敷と化していて、許可がなければ廊下を歩けなくなっているのよ」
「そのような話、初めて聞きました」
「私も最近聞いたの。元々人通りが少なかったから、言われなければ気付かないわよ」
レヴィ王宮は広い。ジョージ達が暮らしているのは赤鷲隊兵舎に近い王宮の端。普通の貴族ならまず用がない場所であるが、ジョージは不要な人が歩けないようにしていたのだ。
「エミリーは私のお願い事なら聞いてくれるわよね?」
ライラは微笑んだ。エミリーにとってカイルは好みの顔であるが、ライラは顔も性格も好みなのである。一生を捧げようと決めた女主人の命令を断る術を、彼女は持ち合わせていない。
「それではカイル様に戻ってくるように言付けを頼めますか? あの方は毎日戻ってこないのですよ」
「嘘でしょう? カイルの仕事量を減らしてとジョージにはお願いしたのに」
「そのような配慮を頂きありがとうございます。ですが嘘ではありません。隊員達の休みが週一ですから、それに合わせているのだと思います」
「知らなかった。てっきり毎日ここから通っていると思っていたわ。夫婦仲を邪魔するのは悪いと思って、ずっと遠慮をしていたのに」
ライラは不満そうな表情を浮かべた。エミリーとカイルは結婚した後も夫婦として一緒に生活していない。代理としてジェシカを王宮に置いてエミリーはこちらの屋敷に戻っていたが、多くても月に二度。カイルから求婚をしたはずなのに、随分冷たいと彼女には思えた。
「夫婦はそれぞれですと何度も申しております。私達は現状で何の問題もありません」
「夫の顔を見るのが月に数回で何の問題もないの?」
「軍人の妻は本来そういうものです。赤鷲隊兵舎にいる者で、毎日妻の顔を見ているのはジョージ様だけですから」
「私が恵まれていただけなのね。それなら私もここで暮らそうかしら。エミリーも一人で寂しいでしょう?」
「それは私がジョージ様から要らぬ怒りを買い、被害がカイル様に及びそうなので御遠慮願います」
淡々というエミリーにライラは笑顔を向けた。
「そうかしら? 私が帰ってこないから代わりに帰れと、カイルをこちらに寄こしてくれるかもしれないわ」
「ですから私達は現状で問題ありません。ライラ様にはわからないかもしれませんが、私達は主に仕える事を第一としています。夫婦の事は二の次なのです」
ライラは明らかにわからないという表情を浮かべた。エミリーは困ったように微笑む。
「ライラ様が寂しいのでしたら明日にでも戻りますけれど」
「私はエミリーを急かす気はないからカイルと相談してからにして。今日戻るように必ず伝えるから」
「わかりました。それとカイル様に私も帝国内の言葉が話せる事を伝えたので、今後は私が教えても宜しいでしょうか」
エミリーの申し出に、ライラは安堵と呆れをない交ぜたような表情を浮かべる。
「やっとなの?」
「気付くまで待っていたのですが、一向に気付かれないので待ちくたびれて伝えてしまいました」
「私も待ちくたびれたわよ。カイルの下手な発音はエミリーでないと直せないと思っても、素知らぬ顔をしているから考えがあるのだろうと思って黙っていただけだから」
「申し訳ありません。カイル様がより仕事が出来るように、これからは口を挟んでいこうと思います」
「是非そうして。私もジョージの仕事が減るのは嬉しいわ」
ライラは嬉しそうに微笑んだ。エミリーも微笑み返す。
「それと今日はこの屋敷の案内を頼めるかしら。エミリーがどのような所で暮らしているか見てみたいの」
ライラの目は好奇心に溢れている。エミリーは想定内であったこの申し出を笑顔で受けた。
この日の夜、カイルは屋敷に戻ってきたのでエミリーは王宮へ戻る時期を相談した。彼は彼女を心配し、ライラがゆっくりでいいと言うのならこの屋敷であと二か月過ごすべきだと主張をした。彼女は非常に迷ったが、万全の態勢で侍女に復帰をする方が迷惑をかけないだろうとその意見を受け入れた。それを聞いたライラは彼に対し、彼女との手紙の配達を依頼した。
エミリーはライラのお節介に苦笑しながらも、ありがたくその厚意を受け入れる事にした。
【謀婚 帝国編】の連載を始めました。
この番外編といずれ時代が一致する予定ですので、宜しくお願いします。