その9 【帰国】
翌日の昼前にジョージとライラは再びサマンサを訪ねていた。二人は昼過ぎにアスランを立つ。サマンサはライラに包みを渡した。ライラは一言断った後包みを開けた。そこには赤と青の文鎮が入っており、切込み細工が施してあった。
「百合の紋章が入っていて綺麗。大切にするわね」
「えぇ。よかったら宣伝して」
「ふふ。いいわよ。ナタリーにもそう伝えるわ」
サマンサは今まで気に入った物を流行らせてきた。だからこのアスラン工芸品を流行らせたいのだろうと、ライラは笑顔を浮かべながら文鎮を包みに戻した。
『それと相談があるのだけど聞いてくれる?』
サマンサはケィティ語でライラに問いかけた。ライラは笑顔で頷くと横に腰掛けているジョージに視線を向けた。
「ジョージ、女同士の話をするから部屋を出て欲しいのだけれど」
「俺はレヴィ語以外なら何を使ってもわからない」
「そういう問題ではないの。ポーラ、ジョージを客間か何処かに案内して貰えるかしら」
ポーラは頷くとこちらですとジョージに話しかけた。彼は明らかに不満顔だったが、サマンサも部屋を出て欲しいという雰囲気を纏っていたので渋々ポーラに案内されるがまま部屋を出ていった。サマンサは微笑んでレヴィ語で話す。
「ありがとう、お姉様。お兄様は言葉がわからなくても勘がいいから居て欲しくなかったの」
「安心して。絶対にジョージには話さないと約束するわ」
ライラが優しく微笑むとサマンサもつられて微笑む。
「お姉様はお兄様の事を運命の相手だと思う?」
「え? サマンサの話ではなくて私の話なの?」
ライラはサマンサの話を聞くつもりだったので意外な表情を浮かべた。サマンサは困ったような表情をして頷いた。
「自分の気持ちがわからなくて。だからお姉様はお兄様の事をどう思っているのか知りたいの」
「そうね、多分運命の人だと思う。愛おしい気持ちはジョージ以外に抱いた事がないもの。苛立つ事もあるけれど、ジョージのいない生活は考えられない」
ライラははにかんだ。ジョージはからかっても決して彼女の嫌な事はしない。
「お兄様はずるい人だから、丸め込まれないようにしないと苛立ちが募るだけよ」
「たまに反撃するから大丈夫。サマンサはセリム殿下がいない生活は考えられる?」
ライラの問いにサマンサは視線を宙に漂わせた。
「セリムさんのいない生活はアスランではありえない、という意味では考えられないわ」
「あら。『セリムさん』と呼ぶ事にしたの?」
ライラの指摘にサマンサはしまったという表情を浮かべた。その後でサマンサは気まずそうにこれは彼の希望でそう呼んでいると説明をした。それに対しライラは微笑む。
「私がジョージを呼び捨てにしているのは彼の希望なの。だからセリム殿下の希望ならいいと思う。セリム殿下はサマンサに対して優しい?」
「優しくしてくれているわ。優しすぎてよくわからない」
「どういう事?」
首を傾げるライラにサマンサはセリムの事を話した。王都ラービタタルを案内してくれる事、寝るのは別々な事。優しく、裏表はなさそうなのに何を考えているかわからない事。
「セリム殿下はレヴィ王宮にいない感じの人ね」
「そうなの。今まで接してきた男性とは違うからよくわからない」
「サマンサも遠慮せずにしたい事をすればいいと思うわ。抱きついても口付けても何も問題はないのだから」
ライラの言葉にサマンサは困惑の表情を浮かべる。そんな彼女にライラは優しく微笑む。
「急ぐ必要はないわ。ゆっくり歩めば自分の気持ちもわかると思う。私も最初は素敵な人という印象だけで、その後色々な一面を見て、気付いたら好きになっていたから」
「どこで気付いたの?」
「そ、それは内緒。サマンサでも教えられないわ」
ライラは少し頬を紅潮させて首を横に振った。いくら可愛い義妹だとしても口付けされて自覚したとは言いたくなかった。
「お兄様は口が上手いのよね。丸め込まれたの?」
「違うわよ。ジョージが格好良いから好きになったの」
サマンサは冷めた目でライラを見た。それから何か考えるように視線を外す。
「好きな相手なら格好良く見えるのかしら? 私はセリムさんの事をそうは思えないのだけれど」
「それは人それぞれよ。私の両親はとても仲が良かったけれど、母が父の事を格好良いと言っているのは一度も聞いた事がないわ」
サマンサは視線を伏せた。ライラは自分との会話がサマンサの助けにならなかったのを感じ、何かいい助言はないか必死に考える。
「悩むくらいなら口付けをしたら? 私はジョージとしかした事がないからわからないのだけど、エミリーが言うにはそれで相性がわかるらしいわよ」
「何故エミリーとそのような話をするの?」
「エミリーはずっとカイルとの結婚を悩んでいたのにある日吹っ切れたの。口付けが今までの誰よりもよかったと言うのが理由」
サマンサは手を口元に当てて考えた後、ライラを見つめた。
「口付けはどういう雰囲気でするの?」
「それは私に聞かれてもわからないわよ」
「お兄様はしてくれないの?」
「ジョージはすぐにしてくる……って私の話はいいでしょう?」
ライラは再び頬を紅潮させた。ジョージは隙があればいつでもしてくる。昨夜も赤鷲隊の皆と夕食を共にした一瞬の隙に口付けされて彼女は平生を保つのが大変だったのだ。当然彼は何もしていないという平然とした表情で、彼女は机の下で彼の太腿を軽く叩くのが精一杯だった。
「雰囲気がわからないけど検討してみる。ありがとう、お姉様」
「ううん。そうだ。エミリーから手紙を預かっているの。危うく忘れる所だったわ」
ライラは足元に置いていた荷物を開けると一通の手紙を取り出した。それはエミリーからサマンサが悩んでいる様子だったら帰り際に渡して欲しいと依頼されていた手紙である。サマンサはそれを受け取った。
「出立前に貰った手紙の返事らしいわ。何が書いてあるのか知らないけど返事は要らないそうよ」
「わかったわ。後で読んでみる」
サマンサは笑顔を浮かべた。ライラも笑顔で応える。
「出港の時間もあるからそろそろ行くわね。サマンサ、何かあったらいつでも手紙を頂戴。今度はエミリーも連れてくるわ」
「流石に隊長と副隊長の二人を敵に回したくないわ」
「大丈夫よ。置手紙はするから」
「それだけでは大丈夫ではないと思う」
ライラとサマンサは笑い合い、いつかまた会おうと約束をした。
「これからの船旅が憂鬱だわ」
ライラは軍艦を目の前にしてそう呟いた。乗る前なのに気分が良くない。吐くほどではないが、不快感は拭えないのだ。そんな彼女にジョージは諦めろと言わんばかりの表情を向けた。
「だが船でしか帰れない。この二大陸は繋がっていないから陸路はない」
「わかっているわよ」
ライラは定期的に往復しようと思っていたのにこんなにも船が辛いとは思わなかった。しかもジョージの説明ではこの軍艦は大きく安定感があるので、商船ならより揺れるから酔いが強くなると言われたのだ。もし往復するのなら次は軍艦を使えない。それも引っかかっていた。
帰りの海も穏やかで、レヴィ軍艦は予定通りに航海をした。ライラは船に乗って三日船酔いと戦っていたが、その後暫くは調子が良く立ち寄った島でジョージと歩いたりもした。しかしその翌日からまた船酔いと戦う事となり、それからはずっと部屋に籠りきりになった。
「ライラ、ケィティに着いた。歩けそうか?」
着いたという事は停泊したのだろうと思ったが、ライラの気分は優れなかった。彼女は小さく首を横に振る。
「ここにいても良くはならない。じいさんの所まで抱えていくなら耐えられるか?」
ライラは頷いた。ジョージは帽子を手に取り彼女に被せると彼女を横抱きにして軍艦の中を歩いて行く。一緒に乗っていた隊員達も彼女の体調が悪い事は知っていたので不安そうな顔をしている。そんな彼等に祖父の家まで一旦送ってくると言って彼は軍艦を降りた。
テオの屋敷は海が見渡せる小高い丘の上にある。本来ならケィティ内にある運河を運航している船を使う方が早いのだが、流石にそれは躊躇われた。彼女が馬車を苦手としている事も知っている彼は黙々とテオの家まで彼女を抱えて歩いて行った。
「どうしたの?」
パメラは玄関で二人を迎えて驚いた。レヴィ軍艦が港に入った事を自宅の窓から見て知っていた彼女は、孫夫婦がいつ訪ねてくるかと待ちわびていた。しかし目の前には気分の悪そうなライラを抱えているジョージが立っていた。
「おばあさん、すぐ横になれるベッドはある?」
「勿論、今夜泊まっていくと思っていたからいつもの部屋は用意してあるわよ」
「それならライラをそこに寝かせてくる。俺はまだ仕事が残っているから悪いけど、看病をお願いしてもいいかな」
「それはお願いされなくてもするわよ。食中り?」
ジョージは家の中に入ると階段を上っていく。その後ろをパメラが追いかけていく。
「ずっと船酔いをしていて最近満足に食べてもいない。船に積んであった果物ばかりだったから食中りではないと思うけれど」
「果物? 檸檬かしら」
両手が塞がっているジョージに代わってパメラが扉を開ける。彼は礼を言うと室内に入りライラをベッドに寝かせた。そして帽子を取って脇机の上に置く。
「檸檬もかじってた。あとバナナと苺かな。悪いけど仕事を片付けてくる。すぐ戻るから」
「えぇ、私に任せておいて」
パメラは微笑んだ。ジョージはもう一度すぐ戻るからと言って部屋を出て行った。
「あんなに心配性だったのねぇ。知らなかったわ」
パメラは家政婦を呼ぶと水を持ってくるように指示をした。そして横になっているライラに向き合った。
「ライラさん。首元苦しいでしょうから少し開けるわね」
ライラは詰襟のワンピースを着ていた。彼女は頷くと身体を横に向ける。釦が後ろにあるのでそれをパメラが外していく。部屋をノックする音がして、家政婦が室内に入ってくると水差しとグラスを置いて出て行った。
「ライラさん。月の障りの最後はいつだったか覚えている?」
ライラは再び仰向けになり不思議そうな表情をパメラに向けた。何故急にそんな質問をされたのかわからなかったのだ。
「その様子だとアスランへ行っている間はなかったのではないかしら。往復に一ヶ月半強かかっているのに」
パメラは嬉しそうに微笑む。ライラはエミリーが用意してくれた荷物を使用しなかった事に気付き驚きの表情を向けた。
「妊娠しているのでしょうか」
「はっきりした事は私にはわからないけれど、船酔いと悪阻は似ているしそうではないかと思うの。王宮へ戻ったら診て貰うといいわ」
ライラは微笑んで頷いた。エミリーと話していた時の予感が現実になったのが嬉しかった。
夕方、ジョージは仕事を終えてテオの屋敷に戻ってきた。彼をパメラとライラは出迎えた。ライラは着ていた身体の線に沿ったワンピースからパメラに借りた緩いワンピースに着替えていた。それはパメラが捨てられずにいたクラウディアが使用していた服である。
「ライラ、調子は戻ったのか?」
「まだ完全ではないけれど落ち着いたわ。揺れないのがいいみたい。ただ帰りは馬車を使いたいのだけどいい?」
ライラの申し出にジョージは眉を顰めた。
「乗馬の方が酔わないだろう?」
「それはそうなのだけど、フトゥールム以外の子だと何があるかわからないから」
「ライラさんは妊娠しているかもしれないの。慣れない馬を御しきれなかったら大変でしょう?」
パメラの言葉にジョージは驚いてライラを見る。彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「その可能性があるだけで確実な訳ではないのだけど、出来るだけ安全に帰りたいの。街道の視察は馬車でも出来ると思うし」
「それならまず王宮へ帰ろう。不安ならカイルに言ってエミリーを呼ぶか」
「エミリーもアスランへ出かける前に妊娠しているかもと言っていたの。だから呼ばなくていいわ」
「俺はカイルから何も聞いていないけど」
「エミリーが私以外には誰にも話していないと言っていたわ」
ライラの言葉にジョージが笑う。
「エミリーのライラ至上主義は相変わらずだな。夫より先に主に報告か」
「状況的に今回はジョージが先になってしまったけれど、私も王宮に居たならばエミリーに一番に言うわ」
「一番に言うのではなくて、エミリーが先に気付くの間違いだろう」
ジョージの指摘にライラは口を尖らせる。実際エミリーならば自分より先に気付くのは間違いないので反論出来ない。
「でもそうか。俺は父親になれるかな。実感がわかないな」
「大丈夫。おじいさんはあれでも父親として振る舞えていたわ。子供と向かい合えば親にならざるを得ないものよ。もし本当に妊娠していたのなら曾孫をここへ連れて来てね」
パメラは優しくジョージに微笑んだ。彼も嬉しそうに微笑んで頷く。
「あぁ。その頃には父上がここで暮らしているだろうから気軽に来られると思う」
「それは楽しみだわ。私もおじいさんの薬を飲んで長生きするわね」
三人で笑っているとテオが帰ってきた。
「どうした。楽しそうだな」
「おじいさん、曾孫の顔が見られそうなのよ。あと二十年は生きないと!」
「それはめでたいが二十年は欲張り過ぎだ。百歳まで生きる気か」
「失礼ね、二十年後はまだ八十歳よ」
「まだという歳でもないと思うが、クラウディアの分まで見守っていこうか」
テオは呆れながら笑う。パメラも笑うとライラとジョージも笑った。
テオの酒の勧めを断ったジョージはライラとベッドで横になっていた。
「ここでライラに好きだと言ってから二年半か。早いな」
「そうね。色々あったわね」
ライラはジョージに寄り添いながら今までの事を思い出していた。結婚してから帝国との戦争までの日々、戦争後の王宮での暮らし、王都へ遊びに行った事、両親や祖父との再会、アスランへ行く為に言葉を覚えた事、国王即位三十周年式典、アスランやその周辺国への旅行。
「今後は王宮でゆっくりするといいよ。帝国の動きはまだ暫く落ち着いていそうだから」
「そうね。エミリーと仲良く妊婦生活を楽しむわ。先輩のナタリーもいるし」
ライラが笑顔を向けたのでジョージも笑顔で頷く。
「でもサマンサが子供を産んだら絶対にアスランへ行くから」
「今回の船酔いで懲りただろう?」
「帰りは船酔いではなく悪阻だったのだから大丈夫よ。それに母は強しと言うでしょう?」
ライラは笑顔のままだ。それは違うとジョージは思いながら呆れた。
「それはその時に考える」
血の繋がりのない姪と甥を可愛がっているライラが、自分の子供を置いてアスランまで旅行するとも思えないし、子供を連れて船旅をするのも難しいだろうとジョージには思えた。出産後に意見が変わるかもしれないので、彼は答えを先延ばしにした。
「ジョージは男の子と女の子、どっちがいい?」
「男の子かな。女の子なら間違いなくウォーレンが口を挟んでくるだろうから」
「ジョージに似た女の子でも可愛いと思うけれど」
「それはウォーレンの美的感覚から外れる」
ライラはつまらなさそうな顔をした。確かにウォーレンの好みには合わないだろうが、彼女はジョージに似た子供が欲しいと思っている。そんな彼女に彼は優しく微笑むと軽く口付けた。
「まだ確定したわけではないのだろう? 気が早いよ」
「でも妊娠していると思う。王宮を出る前からそういう予感がしていたの」
「それなら確定するまで王宮でゆっくりしていて。俺はすぐに街道の確認の為に留守にするけど無理はしないで」
「心配しなくていいわよ。エミリーが多分何もさせてくれないわ」
ジョージは納得して頷く。エミリーならライラが無理をしないように目を光らせてくれると思えたのだ。
「今日はそろそろ眠るといい。随分疲れがたまっているだろう?」
「ありがとう。ジョージが戻ってくる前に少し仮眠をしたのに眠いの。おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
ライラは微笑むと瞳を閉じた。彼女は瞳を閉じると数分もかからず眠りに落ちる。ジョージは彼女の髪を撫でながら愛おしそうにその寝顔を見ていた。