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謀婚 番外編  作者: 樫本 紗樹
謀婚 番外編
34/73

停戦

 レヴィ王宮に現在暮らしているのは、王族九名と赤鷲隊隊長夫人である。それに対し大勢の使用人が働いている。しかしその総数を把握している人間は多分いない。各部署の人数を把握している人間はいるので話を合わせればわかる事だが、総数を出した所で何の意味もなく、誰も確認をした事がないのである。

 レヴィ王宮で働く者はいずれかの部署に所属をしている。住み込みの場所も各部署で別れているのだが、唯一誰もが集まれる場所がある。それが使用人専用食堂である。住み込みで働く者は基本平民であるが、王族の従者や侍女を務める貴族もいる。

 慣例としてレヴィ王家の侍女は侯爵令嬢である。しかし数年前に例外が発生した。シェッド帝国から嫁ぐナタリーの為にと、掃除係であった平民イネスが侍女に抜擢されたのである。異例の事態に使用人の女性達は、いつか自分にも機会があるかもしれないと期待するようになった。侍女は使用人とはわけが違う。主に侍るのに相応しい服を誂えて貰えるし、個室を与えられ給金も桁違いだ。

 そしてガレスから姫が嫁ぐと聞いて使用人達は期待した。しかしこの時侍女の募集は行われなかった。だがガレスの姫の侍女もまた平民であった。そのうち平民にも侍女になれる道が開かれるのかもしれない、そのような事を言い出す者もいた。

 だが平民からサマンサの侍女を募集すると告知が出た時、誰もが手を上げたかというとそうではなかった。理由は簡単で、アスラン語を覚え、アスラン王国に永住する事が出来る者という条件に、誰もが尻込みをしたからである。そもそも王宮で仕事をしている平民にアスラン王国がわかるはずがない。しかも船でしか行けない別大陸と聞けば、それなら今の仕事の方がいいと皆消極的だった。その中でたった一人、立候補した者がいる。すぐさま彼女はサマンサと面談をした後、侍女になった。イネスとは違い、その女性ポーラを羨ましがる者はいなかった。



「エミリーさん、隣良いですか?」

「どうぞ」

 ポーラは夕食を乗せたトレイをテーブルに置くと、エミリーの横に座った。エミリーは一度ライラに赤鷲隊の食事を勧められたのだが、赤鷲隊の食堂で食べる事は出来ないし、ライラと一緒に食べるのもレヴィ王宮では憚られた為、結局王宮の使用人食堂で食事をしていた。

「今日もサマンサ殿下から及第点は貰えませんでした。紅茶を淹れるのは難しいですね」

「サマンサ殿下は味に煩い方だから簡単には無理よ」

 サマンサよりエミリーのような侍女が欲しいから、エミリーがポーラに侍女業務を教えなさいと命令されれば、エミリーに拒否権はない。ライラにもサマンサが心細くならないよういい侍女に育ててねと言われて、エミリーはポーラを預かるしかなかった。ライラの為に必死に勉強した紅茶の淹れ方も、ポーラにだけは教えていた。

「アスラン語もサマンサ殿下とライラ様の覚える速度に私は追いつきません。ライラ様はアスランに永住されるわけでもないのに、何故あれほど真剣に学ばれているのでしょうか」

 ジョージが唯一苦手としているのが言語なので、少しでも役に立つならばライラは何ヶ国語でも覚えるだろう。そもそも言葉を覚える事をライラは楽しんでいる。言葉が地方や民族によってどのように変化していくのかにも興味を持っており、言語学者でも目指しているのかと勘違いしそうになる程だ。

「ライラ様は将来定期的にアスランへ行きたいらしいのよ。叶うかはわからないけれど」

「定期的に? アスランはそれほど魅力的な国なのですか?」

「私もアスラン王国の情報は持ってないの。ただ、サマンサ殿下に子供が生まれた時や王妃になられた時、お祝いに行きたいとは仰っていて」

「ですが船で往復一ヶ月ですよ? 大丈夫なのですか?」

「大丈夫ではないと思うけれど、ライラ様の我儘は案外通るから何とも言えないわ」

 エミリーはスープを口に運んだ。ライラは嫁入りする時、愛馬フトゥールムを絶対に連れて行くと言い張り、結局連れて来てしまった。しかも殺される事もなく赤鷲隊厩舎で世話をして貰っている。嫁入りしてすぐに王宮の外に出たいと言ってジョージと一緒に旅行をし、王都へ遊びに行きたいと行って定期的にジョージと遊びに行っている。この前もサマンサとナタリーを巻き込んで離宮へ一泊旅行もした。

「ライラ様は魅力的な方ですよね。とても綺麗なのに気さくで、時に少女らしくて」

「サマンサ殿下には魅力を感じないの?」

「いいえ。サマンサ殿下もとても魅力的な方です。何でも器用にこなされて、不得手なものは何か探しているのですけれど見つからないのですよ。エミリーさんは御存知ですか?」

 ポーラの質問にエミリーは意味深な微笑を浮かべた。サマンサが不得手な事といえば恋愛関係しかないだろう。カイルに対して常に苛立っているのは見てきた。しかし最近は完全に吹っ切れたのか、気にしていない様子である。

「珍しく二人揃っているのね。私も一緒にいいかしら」

 夕食のトレイを持ったイネスが二人の向かいの椅子に腰掛けた。

「イネスさんお疲れ様です。今夜は早いのですね」

 侍女の一日は主を起こす所から始まり、主が寝るまで終わらない。しかしライラもナタリーも入浴の準備をする所で終わらせるので、他の侍女よりは早く終わる。ライラとナタリーの時間差は単に入浴を始める時間の差である。ちなみにポーラはまだ見習いであり、サマンサには他にも侯爵令嬢の侍女が三人いる為、他の誰よりも早く仕事が終わる。

「今日は夕食が早かったから」

 ポーラは言葉の意味そのままを受け止めて頷く。エミリーはその言葉の裏まで理解して頷いた。エドワードの執着が凄いと言う話は、ライラの側に控えていれば義理姉妹のお茶会で勝手に耳に入ってくる。エドワードが仕事の効率化を進めていると言う話も耳に挟んでいた。それはエドワードが夫婦の時間を確保しようとしての事だろうと、エミリーは理解していた。

「そう言えばサマンサ殿下が旅行を早めた割に、まだその兆候はないの?」

 サマンサが旅行の時期を早めに調整したのは、ナタリーが第三子を妊娠してからでは動けないと判断しての事だった。しかしその旅行から二ヶ月、王太子妃懐妊の話はまだ出ていない。

「アリス様とリチャード様の年の差を考えれば、サマンサ殿下は焦り過ぎだったのではないかと思うわ」

 イネスはそう言うと食事を始めた。エミリーはサマンサの判断は正しいと思っていた。最初の頃の茶会のナタリーの言動からして、アリス出産後に夫婦生活はなかったと思えた。それが夫婦として向き合って数ヶ月で妊娠。次も数ヶ月でと思うのはおかしくない。だがリチャードが生まれて半年が過ぎようとしている。

「それよりも私はカイル様の噂の真相が気になっているのだけれど、エミリーさんは何も知らないの?」

 イネスの質問に、エミリーは口にしたスープを吹き出しそうになって慌てて飲みこんだ。

「私が知っているはずがないわ。サマンサ殿下付のポーラに聞いて」

「サマンサ殿下の所に最近カイル様はいらっしゃっていません」

 カイルが指輪を外して半年。再婚をするのだと貴族令嬢たちは密かに盛り上がった。そしてその噂は使用人まで広がっていた。カイルは赤鷲隊副隊長として王宮内や庭などを歩いていて、使用人でも見かける事がある。一度見かければ忘れない程の端正な顔立ちなのでかなりの使用人が彼を認識しているが、誰も女性を横に連れていた現場を見ていない。

「私は侍女の方に聞きましたよ。記念式典の際にカイル様が連れていた綺麗な女性ではないかと。ただ皆様侯爵令嬢なのに、何処の令嬢なのか誰も知らないらしいのです」

 ポーラの言葉にエミリーは素知らぬふりをした。彼女は確かにカイルと共に会場入りをしたが、その後はウォーレンと合流をして、カイルの結婚相手を探していたのである。

「でもその女性はウォーレン様のお連れだったと聞いたわ。式典の際だけ契約している女性らしいのだけれど」

 エミリーはそれにも素知らぬふりをした。ある意味契約ではあったが、それはもう終わった事だ。彼女はもう晩餐会や式典にウォーレンと出席する事はない。カイルの結婚相手を探す必要がないのだから。

「噂ではかなりの美人らしいですね。ウォーレン様やカイル様と並んでも引けを取らなかったと聞きました」

「だけど栗毛と聞いたわ。だから身分はそこまで高くないのではないの?」

「髪色で判断されるのはどうかと思うわ。ジョージ様は栗毛よ」

 エミリーは口を挟んだ。身分が低いと思われるのは困る。ここは身分を高めて、自分ではないという方向へ持っていきたかった。

「確かに。リアン様も栗毛だし、公爵家でも栗毛の方はいるのよね」

「あれではないですか? ウォーレン様とカイル様とその女性の三角関係。どちらも譲らないのでどちらも結婚出来ないみたいな」

「公爵家の二人に迫られるなんて恋愛小説みたいで素敵ね」

 そのような話はないからやめて欲しいと内心エミリーは思ったものの、口に出す事は憚られた。早くカイルが結婚してくれないだろうかと切実に思うだけだった。



 食堂で二人と別れ、エミリーは自室へと向かって歩いていた。彼女も気になってカイルの事を調べてはいるのだが、一向に女性の影は見えない。しかも最近はポーラに色々と教える事もあり、彼女自身少し忙しくしていた。部屋の扉を開けようとして、外の空気を少し吸ってからにしようと思い直し、彼女は廊下の突き当たりまで歩いて扉を開けた。春とはいえまだ朝晩は少し冷え込む。ひんやりとした風を感じながら、エミリーは庭へと足を踏み出した。

 満月なので燭台がなくても問題なく歩ける。エミリーは庭の一角にある長椅子に腰掛けた。本来レヴィ王宮の庭に椅子はあまり置いていなかった。しかしライラがアリスを抱えて芝生に平気で腰掛けるのを見たエドワードが指示をして、所々長椅子が設置されたのだ。ライラはエドワードに二度と芝生に腰掛けるなと怒られたと不満そうに言っていたが、今回はエドワードの意見が正しいので、彼女もその指示には従うようにと注意をした。

「このような時間に女性一人で外に出るのはいかがかと思いますよ」

 声を掛けられたものの、エミリーは気配を感じていたので別段驚く事もなく、ゆっくりと声がした方を向いた。

「王宮内はこの腕章があれば誰も襲ってきませんから」

 エミリーは結局赤鷲隊隊長の腕章をつけたままになっている。彼女は王宮ではなく赤鷲隊に雇われている例外的な侍女である。しかしそれはジョージの従者と同じ待遇を有するという意味であり、王宮内の使用人食堂で食事をしていて咎められる事はない。兵舎が女人禁制なのは常識である。

「カイル様はこのような時間に散歩など珍しいですね」

 カイルはエミリーの横に腰掛けた。

「気分転換をしたい日もあります」

「そうですか。特に今は問題もなさそうに感じますけれど」

 エミリーは赤鷲隊の事は一切知らない。しかしライラが落ち着いている時はジョージが落ち着いている時であり、つまり赤鷲隊が落ち着いていると判断しているに過ぎない。

「確かに仕事面で困っている事はないですね」

 つまり結婚相手についてかと思ったものの、エミリーは言葉にしなかった。平民である彼女にカイルの結婚相手が誰であろうと文句を言う権利はない。ウォーレンは弟に任せたと言っていたので、そこまで妙な令嬢ではないだろうとも思っている。

「王都へは冬に一度行かれたきりですが、二度目は宜しいのですか?」

「えぇ、今の所は」

 数ヶ月前の寒い日。エミリーは防寒具に身を包み、露出しているのは目の周りだけという状態で王都へと繰り出した。彼女は一人で歩くつもりだったのだが、貴女に何かあるとこちらが困ると言って、カイルも一緒についてきた。おかげで彼女は心から王都を楽しむ事が出来ず、同じ事になるのならもう二度と行かなくていいと思っていた。そもそもライラが楽しそうに話す店を自分の目で見たいという願望は叶ったので、十分ではあったのだが。

「しかし買い物もされませんでしたよね」

「何かが欲しくて出かけたのではありません。レヴィ王都を見たかっただけですから」

「ガレスにいた時もあまり外出されなかったのですか?」

「ガレスにいた時は外出に制限がありませんでしたから、好きなだけ歩いていました」

 エミリーは昔からライラ至上主義であるが、ガレスにいた頃はライラが王城へ仕事に出向いてしまえばやる事がない。暇潰しに王都へ行っては声を掛けられた男性と仲良くなる、いまいちと思って別れる、そのような事を繰り返していた。その生活もウォーレンの間者であったニコラスに会って変わった。だがライラと共にレヴィへ行くと決めた時に自ら終わらせた。彼女はもう恋はしないだろうと、その時は思っていた。だが今、心を惑わせる男が横に腰掛けている。

「その時は何をされていたのですか?」

「理由がなければ王都を歩いてはいけないのでしょうか。ただの散歩ですよ」

 エミリーは正面を向いたまま、カイルの方を見なかった。正しくは見られなかった。自分はジョージの愛妻の侍女で、自分に何かあればライラが悲しみ、それをジョージは持て余す。だから彼は自分の事を気に掛ける、それくらいはわかる。だがそれ以上はわかりたくもなかった。何を考えているのかわからないように見せかけて、時折見せる彼の柔らかい微笑みに、あやうくときめきそうになるのを必死に抑えてきたのだ。自分の好み過ぎる顔立ちが、今は憎くて仕方がなかった。

「そう言えば貴女も結婚相手を探し始めたと兄に聞いたのですけれど」

「結婚するかはまだ決めていません。ただ数年のうちに出産する必要が出てきただけです」

 エミリーの言いたい意味を理解出来ず、カイルは不思議そうに彼女の横顔を見つめた。彼女はその視線に気付きながらも、正面から視線を動かさなかった。

「ライラ様に乳母になって欲しいと言われていまして。アスランへ行かれる辺りまでに相手を探す必要があるのです」

「乳母になる為だけに子供を産むのですか?」

「子供をないがしろにするつもりはありません。ライラ様のお子様を支える子供に育てるだけですから」

「ライラ様至上主義もそこまで行くと恐怖さえ感じます」

「そうでしょうね。ですから結婚するかは決めていないのです。ライラ様の侍女であれば餓死する事もありませんし、子供一人なら何とかなります」

 王宮内の使用人同士で結婚をし、子供を育てながら働いている者もいる。未亡人で子供を抱えて働いている者もいる。だからエミリーは彼女達と同じだと思っているが、一般的に理解されないだろうというのはわかる。だからもしそうなった場合、ライラには相手は亡くなったと嘘を吐こうと思っている。

「相手は誰でも宜しいのですか」

「流石にそこまで節操なしではありません。ライラ様の傍に置く子供になるわけですから、妙な血が流れる子供ではいけません」

「私は父が公爵、母が侯爵家の出身です。祖母はレヴィ王女ですし、血はかなり貴いですよ」

 エミリーは予想外の言葉に思わずカイルの方を見た。彼は柔らかく微笑んでいる。

「そろそろ認める気になりましたか? 私としてはまだ待てますけれど」

「一体何のお話でしょうか」

「貴女が私と結婚する気があるかどうか、という話です」

 エミリーは目を見開いたまま暫く動けなかった。カイルの周囲に女の影はない。それは彼女が調べたから知っている。誰も彼の横に女性がいるのは見た事がない、それもそうなのだ。彼が彼女に声を掛けるのはジョージ達の部屋のある王宮の端の廊下。目撃者がいない場所である。

「私は公爵夫人になれる器ではありません」

「そう言われると思いましたので、当主の座は兄が継ぐ事で話は決着しています。赤鷲隊副隊長夫人は騎士階級ですから平民ではありませんが、それでも不都合ですか?」

 ウォーレンが公爵家当主を預かるという話はライラにしていた。そもそもあれは自分に聞かせる為でもあったのかと、エミリーはやっと気付いた。ウォーレンは相手に見当がついていると言っていたのだから。

「いつから私を謀っていたのでしょうか」

「謀るとは失礼ですね。こちらとしては好意を十分に見せていましたよ。貴女がそれを直視しようとしなかったので、私も強く出なかっただけです」

 エミリーは正面に視線を戻した。思い当たる節があり過ぎて、彼女は反論できなかったのだ。

「私が望む結婚相手は貴女だと噂になるのは時間の問題でしょう」

「何故急にそのような話になるのですか。ここには他に誰もいないのに」

「私が一言サマンサ殿下に話せば、それだけですぐに広がります」

 カイルは微笑んだ。エミリーは悔しくて瞳を閉じ項垂れた。サマンサがこの話を聞いて黙っているはずがない。噂が広まってしまえば彼女は必然的に注目の的になり、仕事がし難い。それならいっそ婚約してしまった方がまだましのように思えたが、それでは彼の策略にはまったようで面白くない。

「悪い人ですね」

「そういう男性は嫌いですか?」

 嫌いと言えれば楽なのに、生憎エミリーは嫌いではない。そもそも長らくカイルに惹かれないように必死に想いを殺そうとしていたのに、結局殺せないでいる。彼女は額に手を当て、小さくため息を吐いた。

「私は地味に生きていたかったのです。カイル様の横に並ぶのなら、見た目も変えないといけないではありませんか」

「その腕章で身分は証明されますから問題ないのではないでしょうか」

「やはり私に拒否権はないのですか」

「ない事はありません。私の求婚を断った事が、どう周囲に思われるかまでは存じ上げませんが」

 間違いなく気まずくなるとしかエミリーには思えなかった。ライラの侍女を続けていく事さえ困難になる可能性もある。サマンサともどう接していいのかわからない。

「一旦婚約という状況で、サマンサ殿下が嫁いでから答えを出すという事でも宜しいでしょうか」

「サマンサ殿下に遠慮は要りません。あの方はもう吹っ切れていますよ」

「今はポーラを育てる事に専念したいのです」

「貴女がそうしたいのでしたら構いません。ただ婚約を解消出来ない事は承知して下さい」

「わかっています」

 急に結婚するよりは一旦婚約期間を置いた方がまだいいだろう。その間にカイルとどう向き合っていくべきか考えて、結婚するまでに話し合いをしようとエミリーは思った。彼女としては乳母になれればいいので、以前ウォーレンが言っていたように、子供だけハリスン家に置いて逃げる選択肢は確保しておきたい。

「それではこれを受け取ってくれますね」

 カイルはそう言うとポケットから小さな箱を取り出した。エミリーはその箱に何が入っているのか一瞬で理解したものの、手を出そうとは思えなかった。

「準備が良すぎではないでしょうか」

「兄から貴女が結婚相手を探していると聞いたので急いで用意しました」

 カイルは笑顔でエミリーの左手を掴んだ。彼女は観念したように彼の方を向く。彼は箱を開け、その中から指輪を取り出すと彼女の左手薬指へとはめた。

「何故丁度いいのでしょうか」

「兄が号数を知っていました。記念式典の時に全身測られたのでしょう?」

 エミリーは力なく頷いた。あの時はドレスも宝飾品も靴も用意して貰った。その時に測定した控えが残っていてもおかしくはない。

「派手なのは嫌かと思い控えめにしたのですけれど、好みでなければ後日一緒に買いに行きましょう」

「いえ、これで十分です。今後贈り物は一切要りませんので、そのようにお願いします」

 エミリーはライラの横に控えているので宝飾品の価値はわかっている。いくら小さいダイヤモンドだとしても、それがピンクダイヤモンドである以上、決して控えめな価格でない事はわかる。侍女の給金で買える代物ではない。

「以前から思っていましたけれど物欲がありませんね。ライラ様もそうですし、そういう環境で育ったのですか?」

「自分を着飾る事に興味がないだけです」

「私が貴女を着飾らせたいと言えば付き合ってはくれますか?」

 エミリーは嫌そうな顔をカイルに向けた。

「そういう趣味でしたら別の方を選んで頂けませんか」

「そうですか。そちらは追々という事にしましょう」

 そう言うとカイルは立ち上がり、エミリーに手を差し出した。

「部屋まで送ります」

「結構です」

 エミリーはカイルの手を無視して立ち上がった。

「婚約者に対して随分とつれない態度ですね」

「私が断れない状況にしておいて、喜ぶと思っている方が間違いです」

「それは申し訳ありません。まさか貴女が結婚相手を探し始めるとは思っていなかったので、他の男性が出てくる前に手を打ちたかったものですから」

 カイルは優しく微笑んでいる。エミリーはその笑顔に持っていかれそうになる自分の心に、必死に喝を入れた。

「それでは、おやすみなさいませ」

 エミリーはカイルに一礼をしてその場を去ろうとした。しかし彼は彼女の手を掴むと口を彼女の耳元に寄せて囁いた。

「おやすみなさい」

 カイルはエミリーから離れるとそう言って赤鷲隊兵舎へと歩いて行った。彼女は囁かれた方の耳に手を当てて、暫くその場に立ち尽くしていた。

 ―― 愛していますよ、エミリー ――

 これだから遊んでいた男は! とエミリーが我に返り、苛々しながら王宮へ戻るのに数十秒かかった。無表情でいる事の多い彼女の顔が珍しく紅潮していて、嬉しそうだった事を月以外知る者はいない。

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