王太子妃の決意
ナタリーは皇太子シャルルと皇太子妃アナスタシアの間に生まれた第一皇女である。三歳年上の兄ルイと二人兄妹だ。同母なのが彼だけであり、シルヴィとデネブという異母姉もいる。しかしシェッド帝国はルジョン教の国であり、皇帝は教皇を兼ねるのでルジョン教の教えに従わなければいけない。一夫一妻制であり、夫婦はお互いを尊敬しあって暮らす事が教えの中にある。だが彼女の父は彼女の母と結婚する前から一人の女性と仲良くしており、それは結婚後も変わらなかった。皇帝である彼女の祖父がいくら諌めても取り合わず、それ故に皇帝は自分の後継者は孫のルイだと言い出して教育を始めた。
ナタリーは母と二人皇宮で静かに暮らしていた。アナスタシアは彼女に学業を特に修めさせず、行儀作法と自分の母国語を教えた。皇宮では皇帝の血を引く男性の権力が絶大だが、その母に対しては何の敬意も払われない。アナスタシアは北方民族の長の娘という肩書で守られていた。シェッド帝国の中でも屈強の兵士を抱えているのが北方民族で、敵に回したくない皇帝がこの政略結婚を決めた為、皇太子に愛されていない皇太子妃でも無下に扱われる事はなかった。
そんな慎ましい生活をしていたナタリーの日常が、たった一日で変わった。それはアナスタシアが母国の使節団と会見をしているその隙に起こった。祖父である皇帝からの重圧に耐え切れなくなっていたルイが、嫌がる彼女を強引に連れて皇宮の裏にある森へと足を踏み入れたのだ。その森は女神マリーの神託を受ける時に使われる神聖な聖堂があり、皇帝以外の者は足を踏み入れてはいけない場所である。厳しく母から注意を受けていた彼女は抵抗をするも、三歳年上の兄に力で及ぶはずがなく、そしてそれはすぐに祖父に露見した。祖父から逃げる為に行動を起こしたルイは怒られる事が怖くなって妹に罪をなすりつけ、彼女は無実の罪で地下室へと閉じ込められた。
ナタリーは泣いて訴えた。しかし地下室でいくら叫ぼうとも誰も助けてはくれなかった。たまに与えられる食事の質は今までとは違い、まるで廃棄寸前の物。彼女はいつか母が助けてくれると信じて仕方なくそれを食べ、部屋にある聖書を読みながら時間を潰した。
もう何日過ぎたかナタリーがわからなくなった頃、地下室に一人の修道女が訪ねてきた。修道女はアナスタシアも幽閉され、ここを出る為にはレヴィ語を覚えるしか道がないと言った。彼女はそれならもう死にたいと願ったが、マリー様は自ら命を絶つ事は禁じていますと諭され、仕方なくレヴィ語を覚える事にした。
ナタリーが十二歳になると礼拝堂で祈りを捧げるよう祖父から命令された。しかしそれは決して祖父に許されたわけではなかった。彼女は禁忌を犯した娘とされ、心ない者に見つかれば罵詈雑言を浴び、酷い時には暴力まで振るわれた。性的な暴力だけは受けなかったものの、彼女は何故知りもしない人達にこのように扱われるのかわからず、結果皇帝の血を引く証である黒髪を頭巾で隠し、目立たないように修道服を着て、ひっそりと地下室と礼拝堂を往復する日々を過ごした。それでも目敏くシルヴィとデネブは彼女を見つけては暴力を振るった。
ナタリーの二度目の転機は結婚である。レヴィ語を覚えさせられた理由は、学のない彼女でもわかっていた。それでも彼女に拒否権はない。言われるがままレヴィ王国王太子エドワードに嫁ぐ事となる。一緒にシルヴィとデネブも侍女としてついてきた事が不満ではあったが、レヴィ王国でのナタリーの扱いは想像を超えるものだった。自分に宛がわれた陽の当たる部屋、柔らかいソファーやベッド。毎日美味しい食事が出てきて、素敵な庭を散歩出来る。エドワードの態度は素っ気なかったが、それでも定期的に自分の為に服を誂えてくれる事、夜会など夫婦揃って出席する時は嘘でも優しい夫を演じてくれる事、それだけで十分だった。エドワードが不特定多数の女性に声を掛けている現実からは目を逸らし、自分に触れない事も気にしないようにして、レヴィ王太子妃として振る舞う事を心がけた。
そして結婚して三年が過ぎた頃、再びナタリーに転機が訪れる。一度も彼女に触れなかったエドワードが彼女を抱いたのだ。そしてそのたった一晩で子供を授かった。彼女が妊娠を喜んだのも束の間、シェッド帝国の計画を知ってしまう。自分の産んだ子供が男児だった場合、エドワードが王位に就き立太子された後、エドワードを殺してその息子を王位に就かせて傀儡政権を作る、もしくはシェッド帝国へレヴィを取り込む。彼女は母国の計画にどうしていいかわからなかったが、エドワードはそれを完全に見越していた。彼女はエドワードに判断を任せて、アリスを出産した。
それから暫くナタリーは何事もなく過ごした。エドワードとの夫婦関係は以前のような仮面夫婦に戻っていたが、たまにアリスに会いに来てくれるだけ前よりはいいと思っていた。そんな時、休戦協定の一環でガレスからライラが嫁いできた。それと同時に帝国がライラを誘拐し、休戦協定破棄を狙っていると偶然知る事になる。彼女は何とかライラにそれを伝えようとしたものの、誘拐にエドワードが関わっている事も知ってしまった為、上手く伝えられなかった。しかし、ライラは誘拐される事なく王宮へと戻ってきた。
ナタリーとサマンサとライラ、三人でのお茶会が始まった。その交流を経て彼女はエドワードに本心を伝え、皇女としてけじめをつける為にレヴィ王宮を去る決意をする。だがその話し合いでエドワードと両想いだった事を知り、彼女はレヴィ王太子妃として残ると改めて決意をする。
その後、今まででは考えられないエドワードの執着が始まり、両想いと知って数ヶ月でナタリーは第二子を身籠った。そして男児を出産し皆が祝福をしてくれた。彼女は今、人生の中で一番幸せな時を過ごしている。
「どうしたの?」
ナタリーはライラの部屋を訪れていた。お茶会ではない時にナタリーが誰も連れずにライラの部屋を訪れるのは初めての事だ。突然のナタリーの訪問にエミリーは紅茶の準備をしに部屋を出ていた。
「少し話したい事があって。北方言語でもいいかしら?」
「エミリーに聞かれたくない話なら、紅茶を淹れた後自室に下がらせるけれど」
ライラの提案にナタリーは小さく首を横に振った。
「エミリーに聞かれたくない話ではないの。エドに知られたくない話なの」
ナタリーはエドワードが色々な情報を集めている事は知っていた。しかし一体どのように情報を得ているのかまではわからない。彼に伝わらないように出来る事と言えば、レヴィ語と帝国語を避ける事しか彼女には思い浮かばなかった。
真剣な表情のナタリーの言いたい意味を理解したライラは頷いて了承した。
『ありがとう。ライラならわかると思うけれど、シェッドの事なの』
ナタリーはエドワードと一緒に生きていこうと決意をしてこの一年半、彼から目を背けずに受け入れようとしてきた。ただの男性として見る分にはやや執着の度合いが酷いだけで特に不満はない。しかし王太子エドワードとして見る時、彼女には不安があった。
『ライラの知っている範囲でいいからシェッドの事を教えてくれないかしら。私に出来る事はないかもしれないけれど、それでも皇帝の血を引く私になら出来る事があるか一度考えたいの』
ナタリーは力のこもった眼差しをライラに向けた。彼女はシェッド帝国とは縁を切り、今は子供と共にエドワードに守られている。しかしそれではいけないと思い始めていた。彼が言うように自分には政治的な事は向いていない。それでも二児の母となった今、子供達に胸を張れる母になりたいと、日々アリスの成長を見て自分も成長しなければと強く思うようになった。シルヴィから何故か定期的に届く手紙からシェッド帝国が道を外し始めている雰囲気を感じ取りながら、それを知らないふりをするのはいけないと思えたのだ。
ナタリーの気持ちの変化を嬉しく思ったライラは微笑む。その時ノックの音がしてエミリーが戻ってきた。エミリーは手際よく紅茶を淹れると二人の前に出す。
「エミリー、ナタリーと少し大事な話があるの。衝立の後ろに控えていてくれないかしら」
大事な話なら下がりますと目で訴えるエミリーに対し、ライラはとにかく居てと合図を送る。エミリーは頭を下げると衝立の後ろに消えていった。
『ナタリー、この前は自分で一度に複数を考えられないと言っていたでしょう? お義兄様と揉める事にならないかしら』
『だからライラには悪いと思うのだけど、一緒に考えて欲しいの。持ち帰らずにここで話を聞いて理解する。少しずつ理解を深めて、エドと向き合えるくらいになったら直接言ってみようと思う』
『直接とは、何を?』
『シェッド帝国の民を見殺しにしないで下さいと。父と兄はいいわ。自業自得だもの。だけど民は何も悪くない。ただマリー様を信仰しているだけ。神託でマリー様が戦えと仰せだと言われたら武器を手に取るしかない。そのような神託は本来ならあってはならないのだけど、父と兄なら嘘を平気で言いそうで……』
ナタリーは視線を伏せた。彼女は今でも禁忌を犯した女のままである。それは皇帝就任祝賀会に行った時に思い知った。レヴィ王太子妃と言う肩書があるので、誰もが暴言を吐かなかったし暴力も振るわなかったが、視線は冷たかった。実際兄も同じく森に足を踏み入れているのに、未来の皇帝だからと特別に許された。あの時は見つけられなかったが、本当は森に神聖な聖堂などないのだろうと彼女は思っている。女神マリーは私達を見守っているだけで何かしなさいと伝える事はない、勝手に皇帝が都合のいい事を言っているに違いない、そう思っている。それが彼女の考えであるが、帝国の存在を脅かす考えなので口には出せない。彼女は教皇である皇帝を信じていないだけで、女神マリーは信じていてルジョン教の存在は否定したくないのだ。
『お義兄様は見殺しにすると思うの?』
『エドはとても繊細で優しい人だから本心は見殺しにしたくないはずよ。レヴィ王太子なのだからレヴィの民を優先で考える事は当然。レヴィの民が納めた税金をシェッドの為には使えない、その理屈もわかるわ。貴族達が反発するとわかっている事を彼はしない、出来ないの』
そこで一旦区切るとナタリーは紅茶を一口飲んだ。ライラはナタリーの視野が以前より広がっている事に内心驚いていた。ナタリーと出会った当時は自分しか見えていなかったのに、一年半で冷静に物事を考えられるようになっていたのだ。しかもそれはエドワードと向き合った事により変わったのだろうと思えた。
『だから私は考えたいの。エドが心を痛めないように、尚且つシェッドの民もなるべく傷付かない方法を。そんな都合のいい話はないかもしれないけれど、考える前に諦めたくないの』
『ナタリーの強い気持ちは受け止めたわ。皇妃殿下を助けるだけではいけないのね』
『えぇ。母だけ助かってもそれでは意味がないわ。私としては腐敗してしまった皇帝の考えを一新して、正しくルジョン教の教えを守る国になればいいと思っているの。ライラも聖書を読んだのなら、今の帝国が本来あるべき姿ではない事はわかったでしょう?』
ナタリーの問いにライラは頷いた。ルジョン教徒は争いを好まない。清貧な生活をして、家族が力を合わせて慎ましく暮らす事で幸せは見つけられると聖書は説いている。それは大陸の北側に土地があり、厳しい冬を過ごさなければいけない国民にとって心の支えになる教えだ。しかし、前皇帝は教皇である事を権力者と勘違いをして徐々に圧政をし始めた。誰もが皇帝に意見が出来なくなり、税率は上がり、民は苦しみ徐々に命を削られ、人口が減れば税収が減る。税収が減るから税率が上がる、この悪循環に陥るのは時間の問題である。ただ、帝国が実際に税金を集められるのは中央だけで、地方民族達は一定の金額をルジョン教への寄付という形で納めるだけだ。これは地方民族の長がそれぞれ地方領主として土地を治めているからであり、実際皇帝が勅令を出して従わせる事は難しい。従わせるには神託だと説き伏せる必要があるのだが、何度も使える手ではない。それ故にローレンツ公国は宗教の解釈の違いを理由に、今の皇帝を教皇とは認められないと皇族の一人が言い出して独立を果たしたのだ。
『シェッド家の治める中央以外は、ルジョン教の教えに忠実だと聞いたわ。特に北方は清貧の教えを守る人が多いと』
『えぇ。母もその教えに忠実よ。だから私は幼い頃から贅沢とは無縁だった。だけど最近思うのよ。何故母は私に北方言語を教えたのかと。レヴィに嫁がせるつもりでレヴィ語を教えるのは理に適っているけれど、北方言語は何の役にも立たない。もしかしたら母は私に何かを悟って欲しくて教えてくれたのではないかと思えてならないのよ』
ライラはアルフレッドの手紙とジョージの話を思い出していた。現在帝国の解体について裏で動いているのは北方民族の長。その妹である皇妃がナタリーをレヴィに嫁に出す計画を立てた張本人だと。レヴィ側から何かをする為に、ナタリーに北方言語を教えた。そしてそれにアルフレッドも一枚噛んでいて、北方言語を操れるライラの嫁ぎ先をルイからジョージ替えた。この二組の政略結婚は帝国解体の為の準備なのかもしれない。
『ひとつだけ確認させて。ナタリーはどの立ち位置で行動をするの?』
『勿論レヴィ王太子妃よ。私はエドと子供達の為にレヴィが平和であるように願っている。隣国とは穏やかな関係でいたいでしょう?』
『わかったわ。ナタリーが気になる事、私の知っている範囲で教える。だけど急にどうしたの? 旅行の時は態度が違ったでしょう?』
『あれがきっかけで考えたの。嫁ぐ事が決まっているサマンサが知っていて、私が知らないのはいけないと思って』
ライラは嬉しそうにナタリーに微笑んだ。ナタリーは近い将来王妃になる。それに相応しい知識は身に着けておいて損はない。
『今暫くは動きがないと思うから、ゆっくり一緒に考えて最善の答えを探そうね』
『えぇ。ありがとう。これから宜しく』
ナタリーも嬉しそうに微笑んだ。
こうしてレヴィ王太子妃と赤鷲隊隊長夫人は意見を共有し、今後起こりうるであろう帝国での騒動に対して協力する事になった。そして二人ともその事を夫に伏せるべく暫くは動かず、二人でお茶会をしても不自然ではないサマンサが嫁いだ後から活動をすると決めた。