駆け引き
義理姉妹の旅行を最初に言い出したのはライラである。それをナタリーに伝え、サマンサも乗り気になり実行された。ライラの狙いは寝室でジョージも一晩過ごせば、自分の寂しさをわかってくれるだろうというものだったが、王女や王太子妃の旅行という事で準備から結構な時間がかかってしまい、その隙にジョージは青鷲隊砦への視察の日程を被せていた。
結局ライラは旅行から戻ってきても三日、ジョージがいない王宮で過ごす事になったのである。恨みがましく彼の枕を叩いた所で寂しさが消えるはずもなく、アスラン語を勉強しながら彼の帰りを待つしかなかった。
「ねぇ、どうしたらジョージに私がいないと寂しいと思わせられるかしら」
「ジョージ様はライラ様と違ってお仕事で王宮を出ておられるのですよ」
エミリーはライラに冷めた視線を送った。ジョージが日程を被せた事がそもそも寂しいと言っているようなものなのだが、そこに何故気付いていないのか不思議だった。
「先程お戻りになられたのですから、今夜は甘えられたら宜しいではないですか」
「あま……っ。そのような事はしないわよ」
「明朝は一糸纏わぬ姿で寝過ごすと思いますけれどね」
「それはジョージが布より直接肌に触れていたい……って何を言わせるのよ!」
ライラは顔を真っ赤にして怒っている。エミリーはそれで情事の後に入浴しているようなのに寝衣を着て寝ていなかったのかと、納得しながら主の寝衣を手に取る。
「ここで私に文句を言っていても仕方がありません。入浴して寝室へ向かわれたらいかがですか」
「私が寝室へ行かなかったら、ジョージは探しに来てくれるかしら」
「どうでしょう? 疲れていてお一人で寝てしまうかもしれません」
ライラは悲しそうな表情をエミリーに向けた。それをエミリーは微笑で受け止める。ジョージの事を器が小さいと感じていたエミリーだが、最近のジョージには余裕があると思っていた。ライラの愛情表現がわかりやすいのもあるのだろうが、公私ともに充実していて誰よりも輝いている気がするのだ。そもそもジョージの愛情表現もわかりやすいのでライラが不安に思う所もないはずなのだが、何が寂しいのかエミリーには少し理解出来ないでいた。
「今夜はここで寝ようかしら」
「余計寂しさが募るだけですよ」
エミリーに指摘され、ライラは悔しそうな表情をする。
「ライラ様は何がお望みなのですか。ジョージ様の仕事がレヴィ王国にとって重要な事はおわかりですよね」
「ジョージが忙しい事は仕方がないし、それでも私と過ごす時間を確保してくれている事もわかっているわよ。私の言う事も聞いてくれるし。でもいつもジョージは余裕そうなの。私はもうジョージのいない生活は考えられないのに、ジョージは違うのが悔しいの」
ジョージもライラのいない生活は考えられないのではないだろうかとエミリーには思えるのだが、それを言うと火に油を注ぐような気がして彼女はそれを口にしなかった。その代わり違う言葉をライラの耳元で囁いた。
「エミリー、そうやって今まで恋の駆け引きをしてきたの?」
「ご想像にお任せします。それでは入浴されますか?」
「えぇ、入浴して寝室に行くわ」
ライラは寝室でソファーに腰掛けながら辞書を見ていた。アスラン語とレヴィ語を直接翻訳してくれる辞書は存在しないので、アスラン語とケィティ語を翻訳する物だ。彼女は先にケィティ語を勉強しておいてよかったとつくづく思った。このままならサマンサが嫁ぐまでにはアスラン語を習得出来そうである。
ノックをしてジョージが部屋に入ってきても、ライラは辞書から視線を動かさなかった。エミリーがたまには引いたらいいのだと教えてくれたので、それを実践する事にしたのだ。今までの自分は彼への愛情を認めてからずっと彼にそれを伝えてきた。それは彼女の父が母にしていた行動であり、それが当たり前なのだと思っていたのだが、母は父と同じ態度ではなかった。いつもあしらう感じで、それでも決して冷たくはないその態度が引くという事なのだろうと思っていた。
ジョージはライラの横に腰掛けたが、彼女の邪魔をしないようにと思ってか特に何も話さなかった。彼女は辞書を閉じるきっかけを失い、そのまま辞書を見つめていた。この状況で辞書の内容が頭に入るはずもなく、結局沈黙に耐えきれなくなった彼女は辞書を閉じた。
「俺に遠慮しなくていいよ」
「遠慮はしていないわ」
そう言いながらライラは引くとは具体的にどうしたらいいのかわかりかねた。母の態度を真似ようとも父とジョージでは雰囲気が違う。詳細をエミリーに聞けばよかったと思うものの、恋愛は人の数だけあるので模範解答はありません、で終わりだろう。
「旅行、楽しかった?」
「楽しかったわ。森で猪が出るかもと聞いたのだけど、結局見られなくて残念だったけれどね」
「猪なんて見ても楽しくないだろう?」
「でも子供の猪は可愛いと聞いた事があったから見てみたくて」
「子供の猪がいたら近くに親もいるから危ない。遭遇しなくてよかったと思う」
ジョージがライラの手を取ろうとするのを彼女はかわすと、立ち上がりベッドへと向かう。彼は偶然かわざとか判断しかねて、とりあえず彼女の後を追い彼女の横に寝転がった。いつもなら彼が腕を出してそこに彼女が頭を乗せるのだが、彼女は枕に頭を預けて天井を見つめていた。
「どうかした?」
「どうして?」
「いつも天井は見てない気がしたから」
「そう?」
ライラはとぼけながらもこの姿勢では眠れないと後悔していた。ジョージと一緒の時は寄り添うか後ろから抱きしめて貰うかして寝ているし、彼が出かけている時は枕を抱えて横向きで寝ているので、仰向けで寝た事がない。隣に彼がいるのに触れない距離で寝ているのも違和感があり、引くという事の難しさを感じていた。
「そうだ、リックの継承権の話は知っている?」
「リック?」
ジョージは誰だかわからないと言った表情を浮かべた。ライラは甥の名前も知らないのかと呆れた表情をしたものの、愛称を知らないだけかもしれないと思った。本来なら将来国王になるリチャードを軽々しく愛称で呼んではいけないのだろうが、彼女は勝手にそう呼んでいた。
「リチャードの事。皇帝の血を継いでいるから帝位継承権があるらしいのだけど」
「あぁ。兄上から聞いている。だけどルジョン教信者にしなければ問題ないと言っていたけど」
ナタリーは月に一度、王都にあるルジョン教の大聖堂へ赴いている。しかしその時に子供を連れていく事はない。あくまでも一個人の信者として通っており、ルジョン教を国教にしたいという発言はない。司教からそれとなく言われても、ここはレヴィ王国ですからと断っている。
「教皇を兼ねる必要があるから、宗教を理解していないといけないわよね。王宮内で育てばまずルジョン教を知る事はないでしょうし、気にしなくても大丈夫という事かしら」
「多分。兄上は帝国を傘下に収めたいとは思っていない。そもそも帝国などどうでもいいという考えだ」
「どうでもいい?」
「義姉上にとって帝国はいい思い出のある場所ではないらしい。だからなくなってもいいとさえ思っている。母である皇妃さえ救い出せれば後は焼け野原になろうと気にもしない」
「それは流石に酷くないかしら」
ライラは顔を歪めてジョージを見る。彼は困ったような表情を浮かべた。
「兄上にそういう感情を期待してはいけない。兵士がいくら死のうと、他国の平民がどれだけ飢えようと気にならない。国が発展するのに犠牲は付き物だから仕方がないと割り切れる人だ」
「そんな……」
「そう割り切れる人だから帝国に戦争するよう嗾けた。俺が戦争を回避しようと動いているのを知っていても、自分の考えを曲げなかった。戦死者の名簿を見ても特に感傷には浸らなかったと思う」
ライラは悔しそうな表情を浮かべた。帝国との戦争後、王都にある病院では怪我をした人達が療養していた。そこへ彼女はナタリーやジョージと共に見舞う事があったが、エドワードの姿は一度も見た事はなかった。ナタリーも皇女である自分が見舞う事に不快感を与えないかとても悩んでいたが、それでも帝国の者として出来る事があるならと、母国から送られてきた宝飾品を換金して医療費に当て、また元々修道女のような生活をしていた為多少医療の知識があり、包帯の交換を手伝ったりもしていた。
「ナタリーは私と一緒にお見舞いに行ったのに」
「だけど義姉上は兄上を咎めたりしていないだろう? 統治者になるのならば兄上の考えは正しい。兄上の足りない部分は俺が支えればいいだけだ」
ライラはナタリーからエドワードのそういった態度に対しての不満は聞いた事がなかった。そもそもナタリーはエドワードに対する不満を言わない。彼女は少し仕事で王宮を空けるだけのジョージに対し、不満を言うのは間違っているような気がしてきた。彼は赤鷲隊隊長として仕事を全うしているだけで、しかも今後面倒そうなエドワードの不足部分も補っていかなければいけない。仕事をして戻ってきた彼に、駆け引きという余計な気を遣わせてはいけないのだ。
「どうかした?」
考え込んだライラにジョージは不思議そうな表情を向けた。彼女は首を横に振って微笑む。
「ジョージはこれからも忙しそうだから、それを支えたいと思っただけ」
「よくわからないけど、機嫌は直った?」
「機嫌? 最初から悪くないわよ」
「いつもなら俺が腕を出すまで待ってるのに枕に寝たから、一生懸命何が引っ掛かったのか考えていたのに、深い意味はなかったのか」
ジョージは腑に落ちないと言った表情をしている。ライラは微笑んだ。
「ジョージが出かけると寂しいのだけど、これからは寂しいと言わないように頑張るわ。私は恵まれているのだから文句を言ってはいけないものね」
「頑張るとは具体的に?」
「ジョージのいない生活が普通だと思う努力をする事かしら」
ライラの答えにジョージは明らかに不満そうな表情を浮かべた。
「俺が王宮に居る日の方が多いのに?」
「ジョージに触れて寝るのが当たり前だと思うから寂しいの。だから触れないで寝る事が普通になればいいのよ」
「ライラに常に触れていたいと思う俺の気持ちはどうなるの?」
「我慢?」
ライラは笑いながら首を傾げた。自分でも言っている事が滅茶苦茶だと思えてきた。これが引く事なのかわからないけれど、目の前のジョージが焦っているから、少し効果があったような気がした。苛立った表情の彼は彼女の手を掴むと強引に抱き寄せた。
「ここは俺が素に戻れる場所だから考え直して。抱かれたくないのなら考慮するけれど、ライラに触れられないなら王宮へ戻ってくる意味がない」
「まだ王宮が嫌いなの?」
「嫌いだよ。父上も兄上も仕事を増やしてくるし、外にいた方が仕事量の調整がしやすい。だけどライラを連れてずっと外にはいられないし、俺なりに悩んだ妥協点が今の状況。ライラには悪いとは思うけど、俺はここだとライラに触れていないと寝つける気がしない」
「それなら今回青鷲隊砦に行ったのはわざと?」
「あぁ。公国側に問題が生じていないかの確認も必要だったけれど、一人が嫌だったんだ。仕事中の宿なら気にならないけれど、ここはライラが部屋に来るのを朝まで待ってしまいそうで嫌だ」
ジョージの言葉にライラは笑った。
「ジョージはこの部屋で一人きりで寝た事はないでしょう?」
「ないけど、サマンサの晩餐会で遅くなったあれで十分だ」
「そんな一年以上も前の話……」
そう言いながらライラはあの時のジョージとの会話を思い出していた。確かにあの日の彼はとても寂しそうにしていた。
「本当は一泊旅行、行かせたくなかった?」
「いや。俺が予定を変えればいいだけだから、別に今後も数日なら構わないよ」
「ジョージはずるいわ。そうやって自分だけ寂しさを紛らわせて人の気も知らないで」
「王宮に居る間はライラの我儘に付き合うよ。だけど触れないで寝るのは嫌だ」
ジョージはライラを抱きしめる力を弱め、彼女の顔を覗きこむ。彼女は視線を逸らした。
「どうせ私がジョージと離れて寝られないと思っているのでしょう?」
「そんな事ないよ。ライラが一人で寝るのに慣れたら寂しいから、極力王宮を空けないようにしているのに」
ライラはジョージを一旦見つめ、すぐに視線を逸らした。
「私は一生ジョージの掌の上で転がされるのよね」
「結構ライラは俺を振り回していると思うけど」
「どこがよ! 最近特に余裕そうだわ」
不機嫌そうなライラにジョージは微笑むと軽く触れるだけの口付けをした。
「ライラが俺の事を信じてくれているから。だけど不安がないのと寂しくないのは違う」
ジョージは真剣な表情でライラを見つめる。彼女もじっと彼を見つめた。
「だから触れていい?」
「さらっと口付けしておいて順番がおかしいでしょう?」
「あー、無意識だった」
ジョージは笑った。ライラは口を尖らせながら彼の胸を軽く叩く。駆け引きが上手くいったような気がしたのに、気がしただけだったと彼女は悔しかった。
「絶対わざと。そんな無意識があるはずがないわ」
「いや、本当に無意識だって。敵を見つけたら柄に手をかけるのと同じように、ライラの顔が近いと反射的にしたくなるんだと思う」
「そのような言い訳が通ると思ったら大間違いよ」
「それなら触れないようにお互い背を向けて寝たいの? 俺は嫌だな」
ジョージは笑顔だ。ライラは悔しかったが、彼に触れないで寝たいとも思えなかった。彼女は彼の胸に顔を埋める。
「私もお互い背を向けるのは嫌」
ジョージは微笑むとライラを抱きしめた。彼女は考える事が面倒臭くなり、そのまま眠りに落ちていった。突然寝息が聞こえてきて驚いた彼が彼女を揺すったものの、彼女は起きる気配がない。
「人の気も知らないでは俺の台詞だと思う」
ジョージはそう呟くとため息を吐いた。勿論ライラにその声は届いていない。