静かな開戦
エミリーは一日の仕事を終えて自室へと戻ってきていた。彼女の部屋はライラの部屋の隣であり、廊下に出なくても壁にある扉で繋がっている。しかしライラは自室ではなく寝室で寝るので、夜から朝にかけて彼女を呼ぶ事はない。
部屋の大きさはライラの部屋の半分であり、ベッドに机と椅子が二脚、そして箪笥が置いてある。エミリーは極端に私物が少なく、服と日用品を除くと何も置いていない。
エミリーはベッドへと身体を投げ出した。ハリスン屋敷に行くのだから当然そこまで気を回していなければいけなかったのだが、彼女にしては珍しく気が回っていなかった。だからハリスン屋敷に宿泊した翌朝、うっかり彼女は以前の恋人でもあるハリスン家当主の従者と顔を合わせてしまったのだ。
「エミリー。会いたかった」
突然懐かしい声が聞こえ、エミリーはゆっくりと振り返る。そこには穏やかな表情を浮かべている青年、ニコラスがいた。
「お久しぶりでございます、ニコラス様」
エミリーは頭を下げた。ガレスにいた時、ニコラスは貴族だろうとは思っていたが、身分を隠していた為、彼女は同じ平民として親しく接していた。しかし子爵家の息子と知ってしまった今、彼女は以前と同じように振る舞う事は出来なかった。
「そのような堅苦しい挨拶は要らないよ。私は平民みたいなものなのだから」
ニコラスは微笑んだ。彼の言い分はエミリーにはわかる。彼女の父親も元々は伯爵家の次男で、ウォーグレイヴ公爵家に仕えている。上流貴族の家宰や執事は爵位こそないものの、普通の平民とも違う独特の地位にいる。そしてまた、その者は家庭など顧みずに主の為に働くという事も、彼女は身を持って知っていた。
「ですが私達は以前の関係とは違います。私の振舞いによって、主の名に傷がつくような事があっては困りますから」
「やはりよりを戻す気はないのか」
ニコラスは寂しそうな表情を向けた。エミリーは無表情で彼を見据える。
「ガレスでそうお伝えしたはずです」
「今は王宮に居るのだろう? 私も王宮で職を得れば考え直してくれないか」
「申し訳ありませんが、そのつもりはありません。この件についてはウォーレン様にもお話をしているのですけれども、伺ってはいないのでしょうか」
エミリーは無表情のままだった。そんな彼女を見て、ニコラスは悲しそうな表情を浮かべる。
「何年も経ったわけでもないのに、エミリーにとって私は簡単に割り切れる存在だったの?」
「そのようです。申し訳ありませんが仕事がありますので、これで失礼致します」
エミリーは頭を下げると踵を返した。
エミリーには今まで何人か恋人がいたのだが、結婚したいと思える人はいなかった。それでもニコラスは過去の恋人達の中で一番好きだった。彼の正体を知って近付いた以上、心を開いてはいけないと思っていたのに、柔らかく微笑まれると彼女の心も穏やかになった。激しく心を揺さぶられる事はなかったけれど、幸せとはこういう事だろうと思っていた。だから別れを切り出した時、顔は無表情を保ったけれど、心の中では本当にこれでいいのか迷ったままだった。
しかし実際会ってみると、もう当時の感情は戻って来なかった。エミリーの中では既に過去になってしまったのである。ライラの侍女という仕事を諦める程ではないとは思っていたが、これほどまでに何も思わないものだとは想像していなかった。
エミリーは自分の薄情さに呆れながら、そのまま眠りに落ちていった。
翌日、エミリーはライラの部屋で悩んでいた。この部屋の主はアスラン語を覚える為にサマンサの部屋へ出かけており、彼女は留守番である。しかし彼女はただ留守を預かって何もしないという事はない。
テーブルの上には便箋が何枚も広げられており、エミリーが書き出したガレス王国の令嬢の名前がある。カイルに相応しい令嬢を選んでサラへ手紙を書かなくてはいけないのに、どうにもしっくりくる相手が見つからない。また、父に手紙を書くと約束してしまった以上、それも書かなければいけないのだが、そちらは一文字も進んでいなかった。
エミリーは息抜きをしようと立ち上がり扉を開けると、廊下にはカイルがいた。彼女は一礼をすると扉を閉めて鍵をかける。
「ライラ様はいらっしゃらないのですか?」
「ライラ様はサマンサ殿下のお部屋です。すぐに呼んで参りましょうか」
カイルが来たという事はジョージが呼んでいるのだろうと思い、エミリーは問いかけた。しかしカイルは微笑んで首を横に振る。
「隊長は兵舎前で訓練中です」
戦争は終わったのに訓練をする意味がエミリーにはわからなかったが、彼女は軍務も各国の情勢も知らないし興味がない。今興味があるのは赤鷲隊が訓練中であるにもかかわらず、カイルが王宮の廊下を歩いていた事である。彼女は少し考えたものの、その理由にも辿り着けなかった。
「それでは何故ここにいらっしゃるのでしょうか」
「もし宜しければ私に紅茶を淹れて欲しいと思いまして」
「赤鷲隊の料理長に淹れて頂けば宜しいのではないのですか」
「貴女の紅茶が飲みたいと思ったのですが、ライラ様のついででなければ淹れて頂けないのでしょうか」
エミリーは内心困った。彼女はライラの為に紅茶を淹れる技術を習得したのであり、ライラがいない場所で他人に紅茶を淹れた事はない。しかしカイルは微笑を浮かべている。彼女は無表情のまま彼を見つめた。
「そのような表情をされても困ります」
「やはり貴女には通用しませんか」
「私は貴族令嬢でも、遊びの恋をしたいとも思いませんから」
カイルは狙った女性を必ず落とすという噂話はエミリーも知っている。この笑顔は確かに心が揺らぐと思いながらも、彼女は無表情を貫いた。母に言われなくとも、この身分の違う男性に惹かれれば自分が苦しむ事はわかっている。ライラは気軽に言うけれど、公爵夫人など自分に務まるはずはないし、そもそもカイルの微笑が本気でない事くらいはわかる。
「それでは有料ならいかがでしょうか。金銭は要らないでしょうから情報と取引しませんか?」
「特に求めている情報はありません」
「例の男性がレヴィに来る可能性の話は御存知ですか?」
エミリーは一瞬眉を動かした。無表情を貫こうと思っていたのに、どうしてもライラ関連の話になると反応してしまう。しかもルイが来るかもしれないと言う話を、今朝ライラから聞いたばかりである。
「その方がレヴィに入国出来ない手筈という事でしょうか」
「紅茶を淹れて頂けるのでしたら詳細を話しますけれども」
カイルは相変わらず微笑を湛えている。エミリーは彼の思惑が読み切れずじっと瞳を見つめたが、どうにも本心が掴めなかった。
「サマンサ殿下御用達の茶葉で宜しいでしょうか」
「えぇ。十分です」
「かしこまりました。今から準備して参ります。カイル様の部屋へお伺いすれば宜しいでしょうか」
「えぇ、お待ちしております」
カイルは微笑むとジョージの部屋の隣室へと向かって歩き出した。エミリーも準備の為に調理場へと向かった。
準備を終え、エミリーはカートを押してカイルの部屋へと向かい扉をノックした。するとカイルが中から扉を開けてくれたので、彼女は一礼をして室内へとカートを押して入った。
机の横にカートを寄せてエミリーは淡々と紅茶を淹れると、席についていたカイルの前にティーカップを置いた。彼が彼女に座るように促したので、彼女は自分用の紅茶も淹れるとティーカップを置いてから腰掛けた。
準備をしている間中、カイルの目的を考えていたのだが、エミリーにはどうにも見当がつかなかった。ルイが来る可能性があるにせよ、それは彼が動かずともジョージが何とかするだろう。わざわざジョージがいない時を狙ってライラの部屋を訪ねた理由があるはずなのだが、どうしてもわからなかった。
カイルはティーカップを手に取り口に運んだ。そして満足そうな表情を浮かべている。エミリーはライラの為にしか紅茶を淹れないが、当然ライラの客人にも振る舞う。顔を見ればその人達が正しく自分の紅茶を評価出来るかはわかる。以前振る舞った時、ジョージとカイルは味がわかる人だと彼女は判断していた。だからこそ今回は特別に淹れたのだ。もしわからない人間と判断していれば、例えどんなに好みの男性だったとしても紅茶を淹れない、それが彼女の信念である。
「隊長が大河に架ける橋の工事を優先するように指示をしました。ガレスの令嬢をこちらに招く予定なのでしょうか」
「私は例の男性の話以外をするつもりはありません」
「しかし突然レヴィに招くというのも不自然ですし、陛下の即位三十年記念式典に合わせてくるという事ではないのでしょうか」
「私はライラ様の侍女というだけですから、その式典にガレスからどなたが出席されるかまでは存じ上げません」
ライラから記念式典の話を聞いて絶好の機会だとエミリーは思った。ガレス側は王太子夫妻が出席するだろう。ライラの妹が王太子妃である以上、その付き人としてカイルの相手に相応しい令嬢を連れて来て貰う事は難しい事ではない。難しいのはその人選である。
「無駄になる努力はしない方がいいと思うのですけれども」
「私が侍女業務の空き時間で何をしていようとも、カイル様には関係ないと思います」
エミリーは淡々とそう言うと紅茶を口に運んだ。彼女もガレスの令嬢を選ぶのは無駄だろうと感じていた。彼女は主の為になるだろうと判断し、ガレスの男爵令嬢から公爵令嬢まである程度把握している。人を覚える事をあまり得意としていないライラの為に、お茶会に呼ばれた際に招待者や招待客がどういう女性なのかを伝える為だ。その記憶を必死に引っ張り出したものの、カイルに相応しいと思える女性がいなかったのである。
「兄に言われて断れないのかもしれませんが、どうしてもハリスン家を存続させる為に私の子供が必要になった場合は、こちらで何とかしますから」
「政略結婚をするという事でしょうか」
「隊長の側で仕事をしたいので家庭は要らないのですけれど、それでもいいという話なら受けてもいいとは思っています」
カイルはジョージに何を聞かれてもいいように間者を使って日々情報収集をしているし、書籍や文献も色々と読み漁り記憶に留めている。彼は自分がそれを活用出来なくとも、ジョージが活用出来るのならそれでいいと思っていた。
「つまり割り切れる女性を探して欲しいという依頼でしょうか」
「私の父の妻については御存知ですか?」
突然の質問に、エミリーは一瞬言葉に詰まった。カイルの父ロナルドの噂で耳にしたのは息子三人の母親は全員違うのだが、長男を産んだ正妻を側室が自殺に追い込み正妻の座に就いて次男を産み、三男を産んだ側室も正妻が自殺に追い込んだという話である。この噂の真意は確かめていないが、ウォーレンが恋愛感情を持てないのは、この強烈な母親の影響だろうと思わずにはいられなかった。
「噂を聞いた事がある、という程度です」
「自殺に追い込んだという話でしたら、私の記憶に残ってはいませんが事実のようです。そのような家庭環境で育った私が、まともな恋愛感情を抱けると思いますか?」
カイルの冷めた視線にエミリーは戸惑ったものの、動揺を見せずに柔らかく微笑んだ。
「思い込みはよくないと思います。どこに縁があるかはわからないものですよ。ライラ様もとても幸せそうですし」
「あのお二人は稀有な例だと思いますけれど」
カイルの言葉にエミリーは微笑で応えた。ジョージとライラは持ち上がった結婚話に興味を持つ事もなく、特定の異性と仲良くなる事もなく、平和の為と割り切ってした結婚がお互いにはまったのである。政略結婚でも問題なく生活出来る夫婦はそれなりにいるが、まるで恋愛結婚をしたのかと錯覚する程仲が良い事は稀なのである。
「隊員の依頼も断って頂いて宜しいですよ。私も注意はしているのですが、まだ貴女に仲人のような事を依頼する人がいるようですね」
「心配して頂きありがとうございます。そちらは無理のない範囲で対応しているので大丈夫です」
カイルの相手を探す事よりも赤鷲隊隊員の相手を探す方がエミリーには楽だった。渋々対応している事ではあるが、隊員達に隊長夫妻のように幸せになりたいと言われると断り難いのだ。勿論、相応しい人が見つからない場合は素直に謝って済ませている。騎士階級は子孫を残す事は絶対ではない為、無理に相手を選ぶ必要はないだろうと彼女は割り切っていた。
「ところで例の男性の話はして頂けないのでしょうか」
「えぇ、情報をまだ持っていませんからね」
さらりとそう言ってのけてからカイルは紅茶を口に運ぶ。エミリーはその言葉を理解するのに少し時間がかかった。まさか騙されたとは思っていなかったのだ。
「私を謀ったのですか」
「私はただ紅茶が飲みたいと思っただけですよ。情報の代わりに宝飾品を贈りましょうか」
「結構です。カイル様はこのように女性から情報を引き抜いていたとよくわかりました。もう二度と同じ手には引っかかりません」
エミリーは悔しくて仕方がなかったが、表情に出ないように必死に取り繕った。相手はハリスン公爵家三男であり、赤鷲隊隊長ジョージが最も信頼している側近である。あまりにも距離が近くて忘れていたが、本来ならエミリーが勝てる相手ではない。
「そうですか。それは残念ですね。貴女の淹れる紅茶はとても美味しいので何度でも頂きたかったのですが」
「そのような事は専属の使用人を雇って厳しく勉強をさせたら宜しいかと思います」
「専属の者を雇えば貴女が教えてくれるのでしょうか」
「カイル様の舌を使って毎日何杯と淹れさせれば数年で習得出来ると思います」
「随分と気の長い話ですね」
「簡単にこの味を再現されるのは面白くありませんから」
エミリーも最初から紅茶を淹れるのが上手かった訳ではない。ライラの母サラに仕えていた侍女が紅茶を淹れる所を見つめて技を盗み、数えきれないくらい紅茶を注いだのだ。ガレスでは女性同士のお茶会はとても大切な社交場であり、紅茶を淹れるのが上手い侍女がいるだけでその夫人の評判が上がる。それ故、彼女はライラの為に必死に習得したのである。
「それではもうこの紅茶は二度と飲めないわけですね。とても残念です」
「そのような顔をされても対応致しません」
カイルは寂しそうな雰囲気を醸し出していたが、それをエミリーはばっさりと斬り捨てた。その対応に彼は笑顔を浮かべる。
「わかってはいましたけれど、やはり通用しませんか」
「わかっていたのでしたら初めからしないで頂けないでしょうか」
「万が一に期待をしました。それくらいこの紅茶を気に入っているのです」
「公爵家でしたら近い物を淹れる使用人がいそうですけれども」
「ハリスン家には女性がいないのですよ。祖父も父も紅茶を飲みませんし、兄の使用人が淹れると薔薇の香りがしますし」
ハリスン家当主である宰相の妻はロナルドを産んで数年後に亡くなっている。ロナルドの二番目の正妻も既に病死していて、その後は独身を通している。エミリーはグレンの妻二人、カイルの妻も亡くなっている事を考え、今自分がしようとしている事に少し恐怖を感じた。サマンサへの対応もこのような家に迎えられないからと、冷たくしていただけなのではとさえ思えてきた。
「それでは紅茶を淹れるのが上手な侍女のいる令嬢を探してみますね」
エミリーはこの会話を終わらせようと微笑んだ。彼女は大抵の事には動じないが、カイルの顔立ちは好み過ぎて、先程からの彼の態度に少し引き寄せられているように感じていた。ハリスン家は危険と思ってしまった以上、気を抜いて心を持っていかれてはいけないと強く思った。
「無駄な事はしない方がいいと思うのですけれどね」
「私はライラ様の侍女です。ライラ様以外の命令は基本聞きません」
「そうですか。紅茶御馳走様でした。気が向いたらまた淹れて下さい」
「それでしたらカイル様の結婚が決まった時、お祝いとして淹れさせて頂きます」
エミリーはわざとらしく微笑んだ。それに対しカイルもわざとらしい微笑で応える。二人の間で静かな戦いが始まった瞬間だった。