ジョージとライラの日常
シェッド帝国とローレンツ公国との条約締結から約二週間。ジョージとライラは王宮でのんびりと暮らす予定だったものの、王宮内は国家反逆罪で裁かれたレスター卿を始め、何十人もの貴族達が王宮を去った事による混乱がまだ収まっていなかった。
提出先を失った書類は赤鷲隊隊長ジョージの所に届く事となり、彼は毎日届く書類に頭を抱えていた。それでも彼は書類を捨てたりはしない。全ての書類に目を通し、適切な処理をしていた。
「ジョージ、ここ二、三日の書類内容がおかしくないかしら」
ライラはジョージの私室にあるソファーに腰掛けながら、隣に腰掛けている彼に問いかけた。彼には執務室がないので仕事をするのは私室になる。本来なら妻である彼女が仕事中にここにいてはいけないのだが、彼が呼び出しているので何ら問題はない。
「誰かが俺の所に提出したら話が通ると言ったんだろう。いい迷惑だ」
ジョージは癖字であり、軍事書類以外は自分で返信を書かない。本来なら副隊長であるカイルが代筆をするのだが、そのカイルは現在実家の事で揉めていて仕事を休んでいた。そこで代筆役がライラに回ってきたのである。彼女も一応彼の所に届いた書類のうち、軍事関係以外の物は目を通していた。軍事関係だけは機密だと彼が見せてくれなかったのだが、彼女はそれを特に不満に思わなかった。彼女は軍事に関して素人という事は弁えていたのである。
「確かに今財務大臣が不在だから仕方がないとは思うけど、何でこうもお金に絡む事がジョージの所に来るの?」
前財務大臣は先の国家反逆罪で裁かれた一人だった。後任はまだ決まっていない。早く決めた方がいいのにとライラは思っていたが、赤鷲隊隊長夫人に議会での発言権はなかった。
「それは確実にエド兄上とその側近達のせいだ。何故か俺を財務に詳しいと思ってる節がある。俺の祖父が商人というだけで、俺は軍人なんだけどな」
ジョージが以前気にしていた主要街道の補修工事願いはまだわかる。しかし地方の借金返済延長願いや公共施設の建設願い、獣による農作物荒らし対策などは軍人に送るべき内容ではない。ライラは書類を読む毎に違和感が拭えなくなってきていた。
「ジョージは今までも色々と対応していたの?」
「いや、借金返済延長願は初めて見た。俺は側室の王子だから権力がないと、誰もが思っていたはずなんだが」
ライラはジョージに指示され書き終えた借金返済延長願いの返信便箋を彼の前に置く。この内容では返済延長は受け入れられない、今まで出来たものが滞ってしまう理由及び延長した際の返済予定を報告してから考える、内容によっては延長期間の利子免除を考えるが、返済予定が信用ならない場合は別途担保を要求する。そのような事を丁寧に書いていた。彼女はこのような事をすらすら言う彼を、軍人だけでは片付けられないと感じていた。しかし彼の仕事が増えるのは彼女にとって面白くない。折角カイルが休みで王都へお忍びで遊びに行く絶好の機会なのに、書類が多くてとても遊びに行こうとは言えなかった。彼も彼女も根は真面目なので、国の事を第一に考えてしまうのである。
ジョージはライラからペンを受け取ると、そこに綺麗な文字で署名をした。彼が再びペンを彼女に渡し、彼に指示されるがまま彼女は封筒の表に宛名を書いた。彼女はその伯爵の名前を聞いても誰かわからず彼に尋ねた所、黒鷲軍団基地より北にある林業が盛んな地域の領主という事だった。長年の戦争の影響が出ているのかと思えば、むしろその領土内の石切場から戦後復興作業中の堤防用の石材を購入しているので、本来なら潤っていなければいけないらしい。
「それにしても不思議よね。木材や石材を国に売っているのに、国から借金をするなんて」
「懐に入れたか、先行投資をし過ぎたか、騙されたか。いずれにしても救う気にはならない。最悪視察に行って領地没収まで視野に入れる必要があるだろうな」
ジョージは手紙を封筒に入れ、鷲の紋章の封印をするとライラを抱き寄せた。彼女は微笑んで彼の肩に頭を乗せ、上目遣いで彼を見る。彼は意地悪そうな笑顔を返す。彼女は少し拗ねた表情で頭を上げると彼と唇を重ねた。仕事の合間の休憩が彼女の楽しみだった。王宮の端にあるこの部屋に、カイル以外で尋ねてくる人はまずいない。そのカイルが休みなので彼女は恥ずかしさなど忘れて彼に何度も口付ける。夢中になっているので、近付いてくる足音など聞こえもしない。一方彼にはその足音は聞こえていたが、気にせず彼女を抱きしめ、そのままソファーへとゆっくり押し倒して口付けた。
「ジョージ、いる?」
突然ノックする音と同時に扉が開いた。ライラは驚いて身体をびくっと揺らせた。ソファーに押し倒されているので部屋に入ってきた人は見えないが、この部屋にジョージの返事を待たずに入ってくる者など一人しかいない。彼は彼女から唇を離すと人差し指で彼女の唇を押さえて起き上がった。
「ウルリヒ。ここは王宮だ。礼儀がなってない、帰れ」
「何だよ。ここまで結構遠かったのに、用件を聞く前に帰すなよ」
ジョージは立ち上がるとウルリヒの方へ歩いて行く。ソファーは扉に対し垂直に置かれているが肘掛の位置が高めなので、ウルリヒには押し倒されたままのライラが見えなかった。
「王宮内では馴れ馴れしくするなと言ったはずだ」
「でももうレスター一派がいないから問題はないだろ?」
「問題あるだろ。王子という肩書を忘れるな。それにここは俺の執務室でもある。色々な機密書類があるから気軽に来るな」
「王宮ではもうジョージと話したり出来ないという事?」
「筋を通せばいい。いいか。俺は赤鷲隊隊長だと何度言った? 本来ならウルリヒは謁見の許しをカイルに取る必要がある。まぁ俺はそういう面倒は禁止しているが、それでも俺の許しなしに扉を開ける行為は罰せられても文句は言えない。わかったか?」
ジョージは低めの声で淡々とそう言った。ウルリヒは口を一文字に結んでいる。
「ノックして返事を待てば来てもいい?」
「構わないが、俺はウルリヒに用はない」
「そんなに冷たい事を言うなよ。他に誰を頼っていいかわからないし」
「俺は十八歳で赤鷲隊隊長になった。お前は今いくつだ? 相談は悪い事ではないが、王子としてどう生きていくかしっかり自分で決めろ」
ウルリヒは現在十八歳である。側室の王子として育ったジョージと、王妃の王子として育ったウルリヒでは環境が違う。それにジョージの母クラウディアはしっかりと子供の将来を見据えて育てたのに対し、ウルリヒの母ツェツィーリアは教育方針など持っていなかった。第一王子エドワードを次期国王と考えていた国王は王妃に対し長年何も言わなかったが、流石に現実を知らな過ぎる息子の将来に不安を覚えた為、ジョージに預ける事にした。王妃は自分の息子をクラウディアの息子に預ける事を非常に嫌がったが、軍隊勤務を経験するのは王位継承権を持つ者の義務だと説得し、ウルリヒには王宮以外の場所で視野を広げ、この国がどのように運営されているか学ぶよう伝えた。国王はジョージに対してはただ任せるとしか言っておらず、ジョージもあえて国王の真意を聞こうとはしなかった。
「母上も急にそんな事を言い出したんだよ。王子という責任感を持ちなさいと」
ライラはソファーに倒れたまま、自分の手紙の返信がそのままウルリヒに伝えられていた事に驚いていた。そのやり取りがあった事をジョージは彼女から聞いている。
「むしろ今まで責任感を持っていなかった事の方が問題だ。俺がいない時に前触れもなくライラに何度か会いに行っただろ?」
「ライラ姉上に会いに行くのはいいだろう?」
「俺がいない間というのが頂けない。ライラは俺の妻だからな」
エミリーはライラには内緒で、ジョージにウルリヒの事を伝えていた。ライラはウルリヒの事を弟のように思っているが、ウルリヒの態度はそれとは違う気がすると。
「そんなのわかってるよ。ジョージの片思いだろ?」
ジョージが苛立ちを感じたのをウルリヒは察する事が出来なかった。
「何だ。ライラが俺ではなくウルリヒの事を愛するとでも言いたいのか」
「そ、そんな事は思ってないよ。二人は仲良くなってほしいと思ってるよ」
「それならライラの部屋には二度と行くな。わかったか」
「それは王子という責任感と、どう関係あるんだよ」
「貴族達は基本暇だ。異母兄の嫁に好意を抱いて足繁く通うウルリヒなんて、噂になったら広まるのは早い。王子としての立場がなくなるぞ」
「な、そんな根も葉もない噂、ひ、広がったりしないだろ?」
「真実はどうでもいいんだ。ただ暇潰しとして面白おかしく話す、それを楽しみにしている人間が多くいる事を忘れるな。ウルリヒはこれから表に出る事になる。恰好の餌食だぞ」
ウルリヒは王妃の意向で完全に王宮内で隔離されていた。舞踏会に出られる年齢で赤鷲隊預かりになった為、まだ社交界では知られていない。しかし今後も王宮内で隔離するわけにはいかない。
「それはジョージがライラ姉上と仲良くなれば問題な――ったたた」
ジョージはウルリヒが言い終わる前に口端を抓った。思いのほか強い力にウルリヒは顔を歪める。いつしかの時のようにジョージの目が座っていた。
「ウルリヒがここに来た用件、それ以上言うと助けてやらないぞ」
ウルリヒが泣きそうな顔をジョージに向ける。ジョージは抓るのをやめた。ウルリヒは痛そうに抓られていた場所を擦った。
「用件がわかってるのかよ」
「あぁ。でも俺にウルリヒを助ける義務はない。せいぜい兄上に凄まれてこい」
「凄まれる? エドワードって人はいつも笑顔だと聞いたんだけど」
「って人という表現はおかしいだろ。異母兄なんだから兄上か殿下かは任せるが、どっちかにしろ」
「ジョージと同じ呼び方にするよ。で、僕は顔を知らないから紹介してほしいんだけど」
「父上似の金髪だし、周囲の反応で兄上だとすぐわかるだろう」
ジョージは冷めた声色だった。
「今日の議会はジョージも出るんだろう? 一緒に行って先に紹介して」
「何で俺が兄弟の紹介をするんだよ。貴族達に自ら噂話を提供するな」
この王宮での王子達の関係は表立っては何もないが、裏では色々言われている。レスター一派がいなくなり、代わりに力を持つのはツェツィーリアを王妃に押したスミス家である。レスター家の血を継ぐエドワードとウルリヒの初対面、今日の議会一番の話題である。それを緩和する為なのか、強制的にジョージにも参加命令が国王から下されていた。貴族達はジョージとウルリヒが親しい事は知らないので、不思議そうに思われるのは避けられない。
「余計な波風は立てたくないし、兄上に僕がどう思われているかわからないし」
「安心しろ。兄上はウルリヒなど眼中にない」
「それを安心と言うのか?」
「ウルリヒが兄上を越える事はない。王位は兄上が継ぐべきであり、ウルリヒは別の道を考えろ」
ジョージはウルリヒに対し、今まで明確な表現は避けていた。しかし帝国との争いが終結した今、余計な内戦など起こしたくはない。順当にエドワードを王位に就ける事こそが赤鷲隊隊長の責務でもあった。
「僕は王に向いていないと?」
「向いている人間は俺に相談しない。俺を使う側になるのだからな」
ジョージの言葉にウルリヒは納得したようだった。ウルリヒはジョージの事を尊敬していて、使う側になるというのは想像出来なかったのである。
「わかった。別に僕も王位は望んでない。周囲が色々言うから考えた事があるだけだし」
「周囲に流されるな。自分の道は自分で決めろ。で、そろそろ帰ってくれるか?」
「一緒に議会へ行こうよ。僕は初めてだし、よくわからないから」
ジョージはため息を吐いた。ジョージが出ていたのは軍議だけであり、議会はジョージも初めてなのである。しかしウルリヒにとってみれば軍議も議会も一緒なのだろう。
「それなら外で待ってろ。書類を片付けたら一緒に行ってやるから」
テーブルの上には書類が広がっていた。それはウルリヒという邪魔が入ると思っていなかったので、片付けていなかったのである。ウルリヒは素直に頷くと扉を開けて出て行った。ジョージはそれを確認するとソファーへと近付く。そこには不満そうな表情のライラが、まだソファーに寝転がっていた。
「ジョージはわかっていたのでしょう?」
「何が?」
「ウルリヒが来るとわかっていて、わざと押し倒して口付けしたのでしょう?」
「俺はライラに常に触れていたいと思ってるよ」
ジョージはライラを抱きかかえると、ソファーに腰掛けて彼女を脚に座らせた。そして不満そうな彼女に優しく口付けをする。
「片付けて議会へ行くのでしょう?」
「片付けは口実。もう少しライラに触れたら行くよ」
ジョージは優しくライラの髪に触れる。彼女はあの扉がまた開くのではと思い、彼から顔を背けた。
「何で顔を背けるの」
「だって見られたら困るでしょう? 早く議会へ行って」
ジョージは意地悪く微笑み、ライラの顔を自分の方に向けさせて唇を重ねた。彼女の抵抗など気にもせず何度も口付ける。彼女も抵抗を諦め、彼の首に腕を回して長い口付けをすると、彼は彼女から離れた。
「そろそろ行くよ。ライラ、そこの書類全部に目を通しておいて。後で意見を聞くからね」
ジョージは何事もなかったかのようにライラをソファーに座らせると、さっさと部屋を出ていってしまった。彼女は昂った気持ちの持っていき所がわからず悔しそうな表情を浮かべる。彼はいつもこうだ。休憩中、彼女の気分が盛り上がってくる頃合いに彼は仕事に戻る。簡単に切り替えてしまう。一方彼女はまだ上手く切り替えが出来なかった。
ジョージがウルリヒに対しつまらない嫉妬で牽制していたのを、ライラは聞いていたはずなのだが理解していなかった。弟の軽率な行動を窘めているだけだと思っていた。それに気付いていれば、彼の行動がただ彼女に自分の事で頭を一杯にして欲しいと思っているだけだとわかるのだが、残念な事に彼女の発想はそこまでいかなかった。
ライラがジョージの面倒な部分に気付き、嬉しそうに微笑むのはもう少し先の事である。