I’ll Connect
知ってる? 今、この目に届く星の光で一番遠い距離にあるものは、五万年も昔のものなんだよ――あの日の優しく静かな声を、もうはっきりとは思い出せない。そんな自分を責めはしないけれど、少し悲しい。
*
「ねぇ、マリ、見て! 地球に似た星発見、だって」
読んでいた漫画を伏せたマリが、背後からパソコンの画面を覗き込む。それを発見した宇宙望遠鏡の名前をそのまま付けられた星の想像図は、期待を込めてなのかブルーグリーンをしていた。
「それ三日前のニュース、ってかいい加減『マリ』はやめろって何年言えばわかる? 馬里!」
「千二百光年」
「はあっ? そんなに……って星の話かよっ」
「見たい! 天文台に行ったら見られるかな」
「んー……その星が見えるかどうかは別として、久しぶりに行くか? そうだな、どうせ行くなら佐良山。でかい方がいいだろ」
「佐良山、遠くない? 明治なら片道2時間で行けるのに」
「泊り掛けなら問題ない」
「はぁっ、何言ってんの」
いくら天体観測っていったって付き合ってもないのに……いやいや、その前にこうして二人っきりでネットカフェのカップルシートにいるのもどうかと思うけれど。漫画好きのマリに呼び出されるまま、のこのこついてくる私も私だ。
「そんなに顔赤くして照れなくても。問題ない、何もしないから」
「赤くない! あんたなんか同じベッドに寝たって熟睡するわ、普通に!」
「だったら余計問題ない」
「とにかくっ、泊まりはナシ!」
ああ、モゾモゾする。高校一年生の時天文部で出会ってから十年、同じ大学に進学して就職も最寄り駅は同じ、毎朝一緒に通勤しているマリが最近こんな風に変な冗談を言うから調子狂う。
マリは苦笑しながら、再び漫画を読み始めた。
画面を流れる広告に、ふと目が留まる。次世代SNS「Will Connect」だ。ビジネスへの活用性も高く、学生の就職活動や名刺代わりに、とほぼ実名登録されている。更に表向きのページとはリンクせず、匿名で投稿できるタイムラインなどコンテンツも充実しているようだ。
「お名前検索」と書かれたアイコンをクリックする――星の話をすれば必ず浮かぶ人の名前を打ち込み、エンターキーをじわり、と押す。
「『粋源』――11件の候補があります」
予想通り、全国の居酒屋らしき候補がずらっと並ぶ。しかし、そこに紛れていた顔写真のアイコンに心臓が跳ねた。
「向井 粋源」――素直に読むならば「むかい すいげん」だろう。高校2年の冬、私達の前から突然姿を消した彼と同じ名前。DV被害に遭っていたお母さんと一緒だったから、当時の「平城」という苗字は変わっているのは当然としても、こんな名前は滅多にないはずだ。青空を背景に日焼けした顔にサングラスをかけ、白い歯を見せて笑っている男性のアイコンをクリックすると、その人のページに飛んだ。
「マリ、ちょっとこれ見て」
「お前なあ、次にマリって言ったら……え? すい……」
「ね、源ちゃんっぽくない?」
「……似てなくはないけど、違うっしょ」
画像フォルダーを開くと、数枚の風景が表示された。
「サングラス外した写真はなかった。趣味は……登山っぽいね。星の事は書いてないなあ。歳も大体同じくらいに見えるんだけど。北海道の建築会社勤務だって」
「昔の写真かもしれないだろ。そんな名前、じーさんに決まってる」
「メッセージ、送ってみてもいいと思う?」
「やめとけよ、違ったら迷惑だって……あ、ほら、そろそろ時間。飯、行くぞ」
*
それから三日間、その人の事が頭を離れることはなかった。もしあの人が本当に源ちゃんだったら……北海道のあの壮大な景色の中、私の大好きだった切れ長の優しい目で微笑んでいてほしい。その事さえ確かめられればそれでいい。
メッセージを送ることにマリは、例え本人だとしても向こうには向こうの生活があるんだから、と決していい顔はしなかった。「でも」と言いかけると必ず「そういえばこの前のさ」と話題を変えようとする。あの頃いつも三人で宇宙の話ばかりしていた仲間だったのに、マリは源ちゃんのことが気にならないのだろうか。
諦められるわけがない。「Will Connect」に登録してから丸一日文面を考えた。不躾ではありますが、とできるだけ丁寧に、そして要点だけにとどめる。大きく深呼吸をして、送信をクリックした。どうか、源ちゃんでありますように!
それから数日何の音沙汰もなく、違うなら違うで一言くれたっていいのに、とモヤモヤし始めていたある日の昼休み「メッセージが届いています」とスマホに通知が来ていたことに気付き、急いでサイトにログインした。
(富士野 あやめ様
メッセージありがとう。返事、遅くなってごめんなさい。懐かしいです! 元気にしています。馬里のことも覚えてるよ。よろしくお伝えください。 粋源)
しばらく、息ができなかった。トイレに駆け込み、涙を拭いながら昼休みの間中ずっとその画面を見ていた。会社帰りの電車の中で、マリにメッセージでその事を伝えると「へえ、そう」と一言だけ返ってきた。
(マリは嬉しくないの?)
その返事は来ないままだった。マリって書いたのが気に障ったのかな。
源ちゃんは仕事が忙しいらしく、返信はまちまちだ。家を出てからの話は聞き辛かったけれど、北海道の大学を出てそのまま就職したことや、今もお母さんと二人で暮らしているという事は源ちゃんの方から教えてくれた。メッセージを送りあう度に各個人ページの「Kizna」という相関図の、アイコンを繋ぐラインが太くなっていくのが嬉しい。
(源ちゃん、よくオリオン座の話をしてくれたよね! ベテルギウスの超新星爆発の事とか)
(富士野さんはてんびん座の『北の爪』が好きだったね 北海道の星空はすごく綺麗だよ。なかなか上手く撮れないけどね)
覚えていてくれたんだ。私も、薄れ掛けていた記憶がどんどん蘇ってきた。物静かでいつも聞き役の源ちゃんが、好きな星の話になるとなぜか照れくさそうに、でも饒舌に話すのが好きだった。望遠鏡を覗く時、眼鏡をはずした顔も片目をつぶるとポカン、と口が開いちゃうところも。大好きだった。
「この前、源ちゃんが北海道の星の話をしてくれてさ」
「えっ、話したのか」
流れ作業のようにラーメンをすすっていたマリが顔を上げ、箸を置いた。その語気の強さに思わず私も箸を置く。
「違う、メールで、ってこと……ね、前から思ってたんだけど」
「何……いや、もういいって、この話は」
「あんなに仲良かったのに気にならないの?」
「別に。前にも言っただろ、あっちにはあっちの生活があるんだから、って」
マリは再び箸を手にしてメンマをつまむと、立て続けに口に運んだ。
「もしかして、恨んでたり、する?」
「……そんなことは」
「だってあの頃言ってたじゃん。電話の1本くらいくれたって、って。俺はあいつにとってその程度だったのかって」
「別に恨んでなんかない、事情があったことくらいわかってる」
「だったら」
「もういいって……」
面倒くさそうにため息をつくマリに、もうそれ以上の事は言えなかった。
てっきり機嫌を悪くしたかと思っていたのに、帰り道マリはよく喋った。次の角を曲がれば私の家が見える、という時、ちょっと待って、と自動販売機の前で立ち止まる。
「喉渇いたな。あやめ、何か飲む?」
「ううん、いい」
マリはペットボトルのお茶を買うと、ゴクゴクッと喉を鳴らして飲んだ。そして持っていたリュックを開けると、クリアファイルを取り出し、私に差し出す。
「なに、これ……わぁっ、綺麗!」
佐良山天文館と書かれた青いパンフレットには、天文台の背景に柔らかく流れるミルキーウェイが一面に広がっていた。そして日本でも三本の指に入るという望遠鏡から見える、惑星や星雲の写真に目を奪われる。
「それ、いいだろ。親父がさ、五、六年前に行ったんだ」
「うん、見たい……でも」
「ははっ、わかってるって。皆と行く合宿とはわけがちがうよな」
どう答えればいいかわからず、歩き出したマリのあとを黙ってついていった。白いカッターシャツの袖をまくった腕に初ボーナスで買った腕時計、広くなった肩幅、初めて出会った十五歳の時にくらべたら十八センチも高くなった身長。私だって、全く意識していないわけじゃない。ただ、いつも冗談みたいに言われるから本気にしていいかわからないだけ。
――違う、本当ははっきりさせるのが怖いんだ。だから、のらりくらりとかわしてしまう。
マリが私をからかって、怒る私を源ちゃんがなだめてマリを諌めて。そうするとマリが源ちゃんにじゃれついて――あの頃、いつも三人で笑っていた。涼しげな目をして穏やかな声で話す、優しい源ちゃんに最初から惹かれていた。家庭に深刻な問題を抱えているなんて微塵も感じさせず……その事に気付けなかった自分を、マリも私も責めていた。お互い「話題にしないこと」で傷つけ合っていたような時期もある。高校3年で部活を引退した後は、ほとんど口をきかずにいたにも関わらず同じ大学へ進学が決まったと知った時、無性に笑えてきて。近所のコンビニでバッタリ会ったのをきっかけに、また前のように一緒にいるようになった。
時々、私の顔をじっと見ている事も知ってる。そんな時、どうしたらいいのかわからない。
*
結局、天文台へは行かないまま梅雨に入り、そして夏が来た。
源ちゃんにしては珍しく早く二日後に返信が来たのは、うだるような熱帯夜の土曜日だった。
(馬里には内緒でお願いします)
内緒、ってなんだろう……続きを待っていると母から『早くお風呂入っちゃいなさい攻撃』を受けて負けてしまった。ドキドキしながら再び部屋に戻ると、次のメッセージが届いていて躊躇せずタップする。
(実は今日、仕事で名古屋に来ています。急で申し訳ないのですが明日の午後に少し時間が空くので、もし都合がよければお会いできませんか)
思わず、ゴクリと唾を飲む。ふあっ、と息を吸って三秒くらい吐き出せなかった。会えるんだ! ふふっ、源ちゃんも緊張するのかな。いつもより丁寧な文面。
(びっくりした! 大丈夫、時間空いてるよ。馬里にはどうして内緒なの?)
(彼にはこちらから連絡します。名古屋駅あたりで落ち着いて話せる所ありますか? 十四時頃でどうでしょう)
いつの間に連絡先交換したんだろう。相関図にもマリのアイコンはなかったけれど、マリの方からメッセージを送った以外考えられない、興味ないとか言っていたくせに。
(了解! じゃあ、名古屋駅の『金の時計』の左側の並びにある『スピカ』で。昔ながらの喫茶店、好きだったよね)
(ありがとう、じゃあよろしく)
――ありがとう、か。ムクリと頭をもたげた小さな不安を、無理矢理抑え込む。
マリに内緒にする理由は、どれだけ考えてもわからないまま朝を迎えた。
水色のワンピースを着ている、と源ちゃんにメッセージで伝えて店に入ると、すぐ後ろから入ってきたスーツ姿の男性に声をかけられた。
「富士野さん、かな?」
「……源、ちゃん?」
一気に心拍数が上がる。
「とりあえず、座ろうか」
彼は、背が高くすらっとしていた。少し日焼けした顔に縁の細い眼鏡をかけ、真夏なのにきちっとネクタイを締めている。奥の方の席に案内されて、改めて向き合ったが顔を上げられない――いや、正確に言えば彼の顔を見るのが恐かった。
「何にする?」
テーブルを見つめたままの私に差し出されたメニューを、パラパラとめくる。
「ケーキセット……に、しようかな」
彼は店員さんを呼び、アイスコーヒーを頼んだ。私は、ガトーショコラとホットコーヒー。
「暑いのに、ホットなんだ?」
「ここのコーヒー有名なの。げ、源ちゃん、ネクタイ緩めたら?」
「ああ、うん」
彼はシャツの袖を折り返し、ネクタイを取りボタンも2つ外した。幼い頃、ドアに挟んで以来少し曲がって生えてくるという右手の小指の爪を見ようとしたが、見えない。
「今日は急だったのに、来てくれてありがとう」
「あ、いえ、暇なので」
先に運ばれて来たアイスコーヒーを、源ちゃんが口に含む。そのあとすぐにガトーショコラが来て二口食べている間も、彼と目を合わせられなかった。
「ふじ……」
「え、っとねえ、そうだ、源ちゃん久し振りなんでしょう?どこか懐かしい所は行ってみた? あ、でもこんなに暑かったら疲れちゃうよね、北海道とは随分気温差があるでしょ」
まくし立てる様に話す間に、二回ほどちらりと彼の困ったような笑顔を見て、すぐに窓の外に目を移す。源ちゃんは何かを言いかけたけれど、小さくため息をついてアイスコーヒーを飲み、そして姿勢を改めた。
「……オリオン座の」
肩が一瞬、震える。
「ベテルギウスって星は、既に超新星爆発を起こして消滅している可能性がある……だったね。その爆発の光が地球から見ることができるのは六百四十年後か。壮大な話だね、見てみたかったよ」
「……」
「今日僕がここにきたのは、君にちゃんとお詫びをするためです……もう、わかるよね」
その言葉に、ただ頷くことしかできない。涙が、テーブルの上で震えている手の甲にボタボタと落ちた。
「本当に、申し訳なかった。やっぱり、こんなこと引き受けるべきじゃなかった、大人として軽率でした。でも、彼の気持ちもわかってあげてほしいんだ」
「……はい」
「ベテルギウスはもう、いない」
本当は、わかっていた。
「源ちゃんは……向井さんより少し低い声でした。目も、切れ長の一重なんです」
「そっか」
「源ちゃんは、こういう喫茶店は苦手なんです。コーヒーの香りがダメで」
「……そう。じゃあこの店に決めた時にはもう?」
「はい……右手の爪を、見せてもらっていいですか」
彼はその意味を知っているのだろう。頷き、右手を差し出す。その小指には、何の歪みもない綺麗な爪があった。
「見ての通り、僕は君達より十二歳も上だ。あの写真は八年前のもので……馬里君が言うには、何となく雰囲気は似ているそうだね」
「はい……顔の輪郭とか、鼻筋も」
向井さんは、くっきりとした二重の目を伏せ静かに息を吐くと、両手を膝について頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい」
「いえっ、謝らないといけないのは私の方です、ご迷惑をお掛けしました。マリ……馬里がお願いしたってことですよね」
「彼は、君が本当の事は知らないと思っていた。君を悲しませたくなかったんだよ」
「あの、今までのメッセージは向井さんが?」
「昨日のもの以外は、全部彼だよ。僕は……転送、していた。ああ、本当にごめんね、不誠実だよね」
「いえ……」
馬里はあの日帰宅してすぐに、私より先にメッセージを送っていたのだ。家出してすぐに、母親の無理心中によって亡くなった粋源のふりをしてほしい、と。私は三年前に偶然知ってからずっと今まで、その事を信じようとしなかった。肯定されるのが怖くてマリにも言えずにいた。
緩やかにピアノ曲が流れる。息を吐く度に視界が歪む。わかっていたことなのに――やっぱりあれはデマだったんだ、源ちゃんはちゃんと生きている、だって私が「北の爪」が好きだなんて他の人は知らないはず。他にも高校の時の事たくさん話したんだから、と無理矢理信じこんだ。そんな私を、マリはどんな目でみていたのだろうか。
「君は今でもその『粋源君』の事を?」
私が小さく首を横に振ると、向井さんは微笑んでコーヒーを飲み干し席を立った。
「マリ……」
一緒に店を出ると「金の鈴」の前に、腕組みをしてバツが悪そうな顔をしたマリが立っていた事にそれほど驚きはない。何となく近くにいる気がしていた。
「馬里君、僕は君との約束を破ってしまった。最後まで貫き通せずに申し訳なかったね」
「いいえ、すみません……本当に、無理なお願いを聞いて下さってありがとうございました」
「いいんだよ、気にしないで。残念だけどそろそろ時間だ。勝手ながら僕はもう、君達の事は友達だと思っている。よかったら北海道に遊びに来てよ、二人で」
「はい、是非」
マリの淀みない返事に驚いている間に、向井さんは颯爽と駅の方へ歩いて行った。
「あやめ、ごめん」
「なんで、謝ることないよ」
「だって……泣いてる」
「これは、なんていうか……マリの顔見たら」
自分でもよくわからない、何かが胸の奥から溢れかえって仕方ないのだ。
「知ってたのか、あいつの事」
「うん……認めたくなくてずっと言えなかった」
「……俺も」
夕暮れの雑踏を歩き始めた私達は、どちらからともなく手をつないでいた。
「ねえ」
手をきゅっと引いて立ち止まる。
「ん?」
振り返った顔が、今までとはちょっと違って見えた。
「馬里、ありがとね」
「……!」
「北海道、行こうね」
「えっ?」
「ベテルギウス、見えるうちに見とかなきゃ! もう、見られなくなっちゃう」
「見られなくなるのって……六百四十年も生きるのかよ。そこまでは付き合いきれんな」
「超新星爆発、二人で見るまでずーっと、何回でも生まれ変わって付き合わせる!」
「ははっ、それなら問題ない」
源ちゃん――きっと二人で会いに行くから、冬の空で待っててね。
了