008.はじめての胸の痛み
結局クルトはクマ男を店に残して支払いを済ませ、食べきれなかった魚をお持ち帰りに包んでもらい、私を小脇に抱えて強風のブースト・ジャンプで宿屋に戻った。
クマ男は今度は座ってうなだれたまま追いかけてすら来なかった。
クルトはその後何ごともなかったかのように、ランクBのソロのクエストを次々こなし、お金を稼いでポーションや薬草を買い溜めていった。
私はその間もクマ男が気になっていたけれども、クマ男はあれからちらりとも現れず、クルトも話に出さずどうしようもなかった。
そんな中で私たちはマーヤでの二週間目を迎えた。
私たちのいる宿屋は第三通りの片隅にある。大通りからは少し外れているけれど、安くてきれいで居心地がよかった。
一階は小さな食堂になっていて、入り口の扉の上には豚の形をした鉄の看板、隣にはお肉の塩漬に使ったタルが置かれている。これは「こんな料理があるよ」「こんなに美味しいよ」って宣伝のためなんだそうだ。
私はそのタルのフタに座り日向ぼっこをしていた。
まだ午前だけれどもお日様が当たって気持ちがいい。私は暖かさにうとうととしながら、時々我に返って慌てて座り直していた。
ちょっと前起きたばかりなのに、いけにゃいいけにゃい。
通りがかりの女の人二人が立ち止まり、私を見つめながらささやき合っている。
「あれ……あの猫置物じゃないわよね?」
「ホンモノでしょう。ほら、少し動いた」
「七ヶ月くらい? きっとまだ子猫よね」
私は思わずカッと目を開けた。もう子猫じゃないのに!!
「あ、ほら、やっぱり生きていた」
「かーわいっ♪ 触らせてくれるかな?」
落ち込んで尻尾をタルの上からだらんと垂らす。
もう一歳にもなっているのに……。
見るとその二人だけではなく後ろに男の人もいる。男の人は右の肩に大きな袋を引っかけ、「んん……?」と首を傾げて私を見ていた。縦も横も大きいちょっと頭がさみしい人だ。
私は心の中で「あっ」と声を上げた。
『――クマ男!!』
「ああチビクロ、やっぱりお前だったか」
クマ男がどすどすと樽に近づいて来る。女の人二人は「きゃっ」と声を上げ、そろってどこかに走って行ってしまった。
今日のクマ男はレザー・アーマーを着ていない。ロングソードも置いてきたのか、生成りのズボンに長袖のシャツ、紐で前をくくるベストを着ている。ごくふつうの街の人間の服装だった。
クマ男は腰を屈めて私のいる高さに合わせた。
「お前たちこんなところに泊まっていたのか。まあ、大通りの辺りにゃ花街もあるからなぁ。さすがにお嬢ちゃんにゃ見せたくはなかったか」
『はなまち?』
「あ、こっちの話こっちの話。ガッハッハ」
私は不思議に思いながらもクマ男に尋ねる。
『今日クマ男はクエストじゃないの?』
「ん……いや、もうクエストはな……。今日は実家の手伝いなんだ。取引先が近くにあるのさ」
クマ男はなんだか気まずそうだ。私には答えず宿屋の二階に目を向ける。
「あー、お前がここにいるってことは、クルト・フォン・ハンスもここか?」
私はたいして気にせずううんと首を振った。
『今はいにゃいよ。朝市に買い出しにいった』
朝市では新鮮なヤギのミルクが手に入るんだそうだ。クマ男は意外だと言った表情になる。
「ヤギのミルクぅ? あいつそんなもん飲むのか?」
『ううん、クルトじゃなくて、私がもらうの』
「……へ?」
なぜかクマ男の目がテンになった。
『栄養がたっぷりだからなんだって。時々こうやって買ってきてくれるの』
私はとりあえず背中をこれでもかとぐーんと上に曲げ、次に前足をいっぱいに伸ばして身体を弓のように反らせ、最後にタルの上から飛び降りクマ男を見上げた。
『ヤギのミルクならケット・シーでも飲めるし、私の身体がじょうぶになるからってクルトが言っていた』
今朝目をさますとクルトはベッドにはいなくて、代わりに「市場でヤギのミルクを買って来る。くれぐれも宿の近くから離れないこと。知らない人間にはついていかないこと クルト」――と書かれた紙の切れ端が置かれていた。
ベッドに眠る私を起こさずに、そっと朝市に行ったみたいだった。だから私はここで見張りをしながら、クルトの帰りを待っているのだ。
「くっ、そうか、そう言うことか」
クマ男は話を聞くとお腹を抱えて笑い出した。
「あいつ使い魔に使われているのか。しっかり貢いでやがる。はははっ、こりゃあ傑作だ。どっちが主人かわからねえな。うん、確かにお前も魔性の女だ」
「にゃ……?」
目をしばたかせる私の頭をぐりぐりと撫でる。
「せっかく会えたんだし、俺もお嬢様に献上するか」
そしてごそごそと担いだ袋から、四分の一に割ったサンドイッチを出した。間には茹でたササミが挟まれている。
「ほれ、これやる。俺の朝飯の残りだが、塩少ないやつだから」
『……』
私はクンクンとお肉のにおいをかいだ。うん、安全みたいと確認し口で受け取る。
「おいおい、俺は知らない人間だがいいのか? お前の主人に怒られちまうぞ?」
『クマ男は知らない人じゃないよ』
私はサンドイッチをきれいに平らげると、後ろ足と前足をちゃんとそろえて上を見た。
『私にははじめて会った人は知らない人、二度目に会えた人は友だち、三度目に会えた人は仲良しなんだ』
クルトと私は村から村、街から街、国から国へと旅をする。同じところに行ったことはない。だからこそ、二度と会えないと思うからこそ、私は会う人みんなを好きになった。
『クマ男は二度目。だから友だちなの』
私にはこの街に友達と仲良しがたくさんいる。窓口のお姉さんとはもう大親友だ。あのね、エリカって名前なんだって!
「……」
クマ男はくしゃりと顔を崩した。
「そっか。俺は友だちか」
心から嬉しそうにガハハと笑う。
「じゃあ、友だちだってことで頼んでもいいか。あいつに"悪かった"って伝えて欲しいんだ。もうつきまとったりしないから安心してくれってさ」
私は目がまん丸になりながらも「にゃんで?」と聞いた。
「どうして? ワイバーンと闘いたいんじゃなかったの? クルトと一緒がいいんじゃなかったの?」
クマ男は「そりゃあな」と息を小さく吐き空を見上げる。
「けど、あいつがあの強さでランクBのままって、たぶんなんかワケありなんだろう? 前はつい舞い上がっちまって、思いつきもしなかったけどさ。渡り者にはそう言う連中が結構いるからなぁ」
ワケアリという聞き慣れない響きに私は戸惑う。
「ん、何だ、お前も理由は知らないのか?」
尋ねられてもうつむくことしかできなかった。
『……知らにゃい』
私はそこで初めてそうなんだとぼうぜんとする。私はクルトのことをなんにも知らないんだ。クルトは私を子猫のころから育ててくれた人だ。世界で一番強くて、優しくて、温かい。
でも、ほんとうにそれだけしか知らない。あとはクルトという名前だけで、今まではそれだけでよかった。それだけで幸せになれた――はずだった。
「そっか。お前も知らないならよっぽどなんだろうな」
クマ男は袋を手に取り立ち上がった。
「んじゃお前の下僕……じゃない、ご主人様によろしくな」
手を振りながら大通りに向かって歩き出す。私は「さようなら」の挨拶もできずに、その後姿を見送ることしかできなかった。胸が小さく、けれども確かにチクリと痛んで、生まれて初めて知るその痛みに立ち尽していたからだ。