001.転生先はケット・シー
「私」の最後の記憶はお母さんの怒った顔と、「お前なんか生むんじゃなかった」という言葉。
「うるさいわ汚いわ、こんなガキいるもんか!!」
私は無理矢理クロゼットに押し込められ、外からカギをかけられてしまった。五分が過ぎてお母さんの甘えた声が聞こえる。
「さあ、タカシ、早く行きましょ」
「おい、子どもはどうしたんだ?」
「もう寝たわよ。朝まで起きないわ」
声はだんだんと遠ざかり、やがて何の音もしなくなった。
だけど、きっとお母さんは帰って来てくれる――それだけをただ信じて待って待って待って、何日目になるのか分からないくらい待った。
なのに、お母さんが扉を開けてくれることはなかった。いつもなら夜遅くにさえなれば、男の人と一緒にアパートに戻って来るのに。
お腹が空いて喉が渇いて、伸ばせない身体が苦しい。外に出て光が見たい。お日様が見たいよ。
「おかあ、さん」
私は最後の力を振り絞り、真っ暗な中で腕を上げた。けれども板に遮られ誰にも届かない。
お母さん、どうか私を捨てないで。いい子になるから捨てないで。もう小学校に行きたいって、身体を洗いたいって言わないから。
「おかあ、さん……」
私はゆっくりと瞼を閉じた。
◇◆◇◆◇
……ここはどこ? 暗くて、狭くて、怖い。お母さんはどこへ行ってしまったの?
怯える私の耳にみゃあという鳴き声が届く。そして温かいものが横から押し付けられた。
みゃあ? みゃあって猫の声だよね? クロゼットに猫が入り込んだのかな? この柔らかいかたまりは猫なのかな?
だったらどこかにすき間があるのだろうか。私もこの何も見えないところから、こっそり抜け出せるかもしれない。
私はやっとの思いで身体を起こした。とたんに違和感を覚えて首を傾げる。
私の身体って四つ足だったっけ? ううん、それより私の身体って……どんな身体だったっけ?
私はようやく何も覚えていないことに気が付いた。
名前は? 何歳? 住所は?
分からない。自分のことなのに、何も分からない。
真っ暗闇の中で私は途方に暮れ立ち尽した。恐怖が悲鳴となってお腹の奥から漏れ出る。
「みゃぁ」
私は泣いた。のどが枯れるほど泣いた。
誰か、助けて。
「みゃぁああああ……!!」
お母さん、お母さん……!!
「みゃぁぁぁ。みゃぁぁぁ!!」
私を、一人にしないで……!!
願いを聞き届けてくれたのは、はたして神様だったのだろうか。
「――ずいぶん元気なやつが一匹いるな。ああ、こいつだけ真っ黒だ」
私は前触れもなくすっと脇に手を差し込まれると、ふわりと持ち上げられ宙に掲げられた。足が床から離れぶらぶらと揺れている。
「やっぱり真っ黒だ。夜の使いみたいだな」
「みゃ、みゃあっ!?」
私は男の人の低く心地のいい声と、大きな手に驚き思わず暴れた。
「っと、人間が怖いのか?」
続いて「フッヒッヒッヒ」とお婆さんが笑うのが聞こえる。
「お若いの、メスの子猫の扱いには気を付けなきゃならないよ。何、人間の女と同じさ。その子が気に入ったのかい?」
お婆さんは「けどねぇ」と溜め息を吐き男の人に告げる。
「その子はあんたの欲しがる使い魔にはなれないよ。それどころかケット・シーとも言えるかどうか。身体も小さけりゃ魔力も他の子と比べてひどく弱いからね。下手をすればただの四つ足の猫のままだろう」
男の人が「それはなぜだ?」と声をひそめて尋ねた。お婆さんは「ひどい話だよ」と呟く。
「その子達の母猫は馬鹿な冒険者が狩っちまってね。そいつは双竜の期間はケット・シーの繁殖期、禁漁期だってのが頭から抜けていたのさ。おかげで黒い子だけ初乳を飲み損ねてしまった。哺乳の魔物の成長とステータスは初乳が起爆剤になるからね」
辺りが一気に静かになってしまう。
「……その馬鹿はどうなった」
男の人の声には静かな怒りが混じっていた。お婆さんは「フッヒッヒッヒ」とまた笑う。
「罰金一〇〇ゴールドとギルドカードの没収さ。どうやって食ってくんだって喚いていたが、密漁は罰則が重いから仕方がないね。せいぜい細々皿洗いでもやっているだろうて」
お婆さんは話を終えると、「ところで」と男の人に尋ねた。
「使い魔にするならこのミケのメスなんてどうだい。半年もすれば立って歩き人化の術を身につけるだろう。きっと美人になるだろうから夜の共にもいい。このトラのオスは攻撃魔法の素養があるようだ。クエストやダンジョンで役に立つよ」
「……」
男の人は答えない。私を抱き上げたままだ。
「そんなに黒い子がいいのかい? その子はどの魔術師にも引き取られないだろうから、毛皮用に道具屋に持って行こうと思っていたんだけどねぇ。フッヒッヒッヒ」
私はお婆さんの笑い声を聞きながら、早く下ろしてくれないかなぁだなんて考えていた。ずっと宙ぶらりんはちょっと苦しいし、なんだか目がむずむずとして擦りたいの。あれ? 真っ暗闇に光が差し込んできた。
「ああ――」
男の人が声を上げた。
「どうしたんだい?」
「今目が開くようだ」
私はゆっくり、ゆっくりとまぶたを開けた。そして思わず息を呑む。
私が生まれて初めて見たものは、澄み渡った晴れた空の青だった。なんて美しいものがあるのだろうと目を瞬かせる。それが私を抱く手の主の瞳の色だと知り、私は男の人から目を逸らすことができなくなった。
男の人がきれいな唇を持ち上げ笑う。
「ははっ、まん丸の目で俺を見ている」
お日様のように眩しく輝く長い金の髪――私が泣くほど望んだ光がそこにはあった。
男の人が「決めた」と私を抱き締める。優しく、温かく、広い胸だった。
「俺はやっぱりこいつにする」
「だが、その子はただの黒猫にしかなれない可能性が強いがいいのかい。食い扶持が増えるだけになるが」
「それくらいの甲斐性はあるさ」
お婆さんは「やれやれ」と肩をすくめた。
「魔物使いや魔物の保護をやっていると、時々こういう縁に会うから不思議だよ」
外見でも、能力でも、種族でもなく、理屈抜きで惹かれ合う魔術師と使い魔がいるのだそうだ。お婆さんは「恋のようだよ」と笑った。
「そうなのか。だったら俺は幸運だったな。名前は何がいいだろうな」
男の人は私を顔のそばにまで近づけ、こつんとその額を私の額に当てた。
「俺は魔術師のクルトだ。真っ黒なおチビさん、これからよろしくな」
これが一人と一匹の出会い。私とクルトとの長い旅の始まりだった。