第一章 『雷獣』(3)
「見てみろ、テリトリー内をつつむ紫色の光が、微妙に弱くなっただろう? フン、誰かのせいでな」
あれから二、三分後、元にもどった藍は、目をつむり深呼吸を続けていた。すっかり弱まってしまった法画陣の色をひととおり眺めた。
「今回の敵は今まで以上にやっかいだ。なぜか、高度な知恵を持っている。外力が加わったとしか考えられんが……。おそらく、この法画陣の威力が完全に弱まったのを見はからって、一気に攻撃をしかけてくる気だ」
言葉を重ねていくにつれ、藍の表情が険しくなる。
「! じゃあどーすんだよ? このままじゃオレたち――」
「わずらわしい。今さら騒いだところでどうしようもない。もとの威力まで回復させるのに、あと数分はかかるだろう」
「んなのんきなこと言ってられっか! お前のせいだぜ? さっさと法画陣はらねーから!」
「だからわずわらしいと言っている! そもそも、貴様がくだらんことをしでかすからだろうが! それん、攻撃専門は貴様だろう、早く何とかしろ。このままでは、艦長はごまかせたとしても、社長はそうはいかないぞ」
「そ、そーだよな。社長にばれたらあわわ……」
藍の言葉責めに、コードルは、黄土色の髪をわしゃわしゃとかき乱した。さらに頭をふりはじめ、突然飛びはねた。
「どうした?」
「……べえ、やべえやべえやべえやべえっ!」
「やばいのは貴様の頭だ。だからどうしたと訊いている」
「――見てみろっ」
コードルにあごで指ししめされ、藍はその先にある黒影をにらみ上げた。だが次のせつな、胸のあたりでからめていた指の力がゆるんだ。人さし指と中指を立て、あとの指は左右の指間に入れていた。
黒影が、ゆっくりと法画陣ぞいを進み、船へと近づいているのだ。いまだ甲板でたたずんでいる少年へむかって、一直線に。
「妙だな。あの粒を食べたら、雷獣は近づかないはずだが」
再び指先まで力を入れる藍に目じりに、何本もしわが寄る。
「い、いや〜、実はさ〜、投げつけただけで食べたかどうかは」
「この、愚か者が! どうして貴様はとことん愚か者なんだっ! その、筋肉に行きとどいた栄養を少しは頭にまわしたらどうだ? そうすれば、少しは賢くなるだろう」
「む! オレに怒んのは、おかどちがいだろーが! 悪いのは食べねーあいつだ! あいつが悪い、悪い悪い悪い悪い悪い悪い!」
コードルは、つばを吐きちらしながらたんかを切った。
極限まで薄目にした藍の口角は、血がにじんでいた。
「ちぃ、貴様のせいで口を切ってしまった。とことんわずらわしい!」
「んなこと知るかよ!」
藍は指で口角をぬぐう。真横で並んでいるコードルから、数歩分引いた。
「とうもろこしは、この『魔の領域』にひそむ雷獣が忌みきらう。普通の雷獣とは真逆だ。フン、あんな場所に住んでいるならば、突然変異も起こるのだろうな」
「ヘン、そのくらい知ってらあ。だっから渡したんだろーが」
「わずらわしい。『投げただけ』のまちがいだろうが。それより」
「ああ」
ふたりは同時に少年と目を合わせる。そして、腹の底から叫んだ。
「早くその粒を食べろ!」
「え?」
「だめだ、まにあわねえ! ぼーっとつったってるだけだぜ、あのボウズ!」
「普通の人間なら、当然の反応だろうが。コードル、行くぞ!」
「わかってらあっ! やべー、減給どころじゃすまされねーぞ!」
大声を出しながら、藍は大海原を駆けぬけた。コードルも、そのあとについていく。
だが、黒影はさらに速度を上げた。
「ダメだ! まにあわない、法画陣を解く!」
「何でだ藍? ここで解いちゃおしまいだろーが!」
藍に追いついたコードルは、首を真横にむけて問いかけた。
「たわけが! もう法画陣がなくても関係ない。むだなことはしない主義だと、何度も言ったであろうが――『吸滅』」
「結局、オレの意見はスルーなんだな……」
走りながら、藍がその言葉を唱えたら、ひと呼吸もしないうちに巨大な長方形が急速に縮み、彼の胸元で消えた。
深い闇がふけり始めた。
コードルと藍は両足をけり上げた。すると、目線の位置が数十メートル上方にある甲板と水平になった。
「いったい、なに……?」
少年はただ、つったっている。
だが、五秒もかからないうちに変化が生まれる。悪寒がとまらなくなるという、恐怖の具象化が起きた。
「だぁぁ! まにあわねー!」
「く……!」
巨大な船にむらがり、襲いかかろうとする黒炎と邪気。それがここ、魔の領域に踏みいれた功罪だった。
視界の大部分が、まっくろになった。
心臓が破裂しそうだった。鼓動が、限度なく大きく脈打っていく。こんなことははじめてだった。
「……には、僕、には」
このまま死ぬのか。
だぼだぼのズボンをにぎりしめ、少年は首を曲げ、口の中でぼそぼそとひとりごとを言いだした。
「死ぬわけにはいかない。こんな……そうだ。こん、な、ところ……で、死ん、でたま……るか」
少年は歯をくいしばり、顔を上げた。そして、襲いかかろうとしている巨大な黒炎――魔の領域を根城としている雷獣へ、焦点をあわせた。
「う、うわわわわわああぁあああぁぁぁっ!」
激昂が八方へくまなく走った。あらゆる闇を溶かし、光をともなう濃い白でそまった。
「な、なにィィ?」
「何だと?」
七転八倒した展開に、コードルと藍は顔を腕で覆い受身を取ったが、すべてを飲みこむ白い光のせいで方向を失った。さらに、すさまじい風圧にやられ、まっさかさまに零下の海へ落ちていった。
すべてが、一瞬だった。
邪気は完全に消えうせ、静寂がやってくる。何事もなかったかのように夜の海へ降りた。