幕が降りたその後で
――――時間は前日に遡る。
主演女優の不調が決定的なものとなり、立て続けに主役を欠いた一座の舞台が続行不可能となるや否や、《暁の女神》一座の座長代理は直ぐ様営業方針を個人的な依頼を受けての出前営業に変更した。
「ロレッタは踊り子三人と楽器二名連れてクワント卿のお屋敷へ行ってちょうだい。付き添いはビビアンお願い。バレリー婦人のサロンのお誘いは…歌がご希望のようだから、男役と娘役一人ずつにウードの弾ける団員で、ここはロザリーに頼むわ――――」
戦力を分散させての営業には時折リスクが伴う為、お目付け役に女形を必ず同行させるのは忘れない。
女ばかりと甘く見て、当たり前のように枕営業を強要される場合があるからだ。
その場合女形達の道化師的な雰囲気は、場の雰囲気に角を立てずに話を煙に巻くのに毎回一役買っている。
「居残り組も小道具や衣装の手入れなんかの仕事がたくさんあるわよぅ~!さっ、キリキリ働きましょっ!!」
パンパンと手を打ち鳴らして一座を采配する女形の親分。
これが《暁の女神》一座の日常的な光景だ。
そして殆んどの団員が『出前』に出払い、裏方と数名の居残り組が黙々とそれぞれの作業に取り掛かる中、館の隅では死んだ魚のような目をした男が一人、どんよりとした空気を纏って項垂れている。
―――図体がデカイだけにかなり鬱陶しい。
「……ちょっとォ、いい加減にしなさいよグリフォン。助っ人はありがたかったけど、何なのよその体たらくは!公衆の面前で派手に痴話喧嘩かましたあげくに、鳶に獲物をカッ拐われちゃって!落ち込むのも解るけど、アナタそんな女々しい性格だったかしらぁ?まるでお通夜じゃないのよ、辛気臭いったらありゃしない!」
腰に手を当てた格好でツカツカと男に近付いたベロニカは、ふんッと鼻息も荒く息巻いた。
だが男の方はそんな友人の言葉すら耳に入っていない様子で、ひたすら思考の底無し沼にズブズブとはまり込み、いっかな浮上する気配が見られない。
「でもまぁ、殆んど自業自得よねぇ。多感な年頃の娘の目の前で女を取っ替え引っ替えしてたらさーぁ?『キャー、嫌っ!不潔よーっ!』くらいの反応は当たり前じゃないのよォ」
「…………………そういうものか?」
やっとの事で返した台詞がそれだ。
「……呆れたわ。いくら流民の貞操観念がユルいからって、思春期の処女の潔癖さをナメちゃいけないわよ!」
「…………っ、そう…か」
初めて“そこ”に思い至った男は力無く言葉を途切れさせ、憔然とした足取りでフラフラと館の外に向かって歩き出した。
「何処に行くのよ」
「帰る…」
頼まれた代役さえ果たしてしまえば、男がこれ以上一座に留まる必要はどこにも無い。
一冬過ごした塒に向けて立ち去ろうとする大鷲の背中に、「ちゃんと迎えに行きなさいよ!」と野太い声が掛けられたが、それも聞こえていたかどうか。
「重症ね。ま、確かに…歳食ってからのあの病は拗れると相場が決まってんのよー」
古今東西、万国共通でつける薬が無いと言われるアレ。
特に初めて罹患した際には重症化する傾向が強いと言われている。
―――――その名も『恋患い』。
本人の自覚の有る無しは別として、第三者の目から見て既に末期患者の様相であるのは確かだった。
*
街中の祭りの喧騒を一顧だにもしなかった男は、夕方と呼ぶにはまだ明る過ぎる時刻のうちに、下町の仮の住み処へと帰り着いた。
軋む扉に手を掛けて室内に足を踏み入れれば、目に映るのは粗末な寝台が二つ置いてあるだけの、見慣れた殺風景な空間。
――――しかも狭いはずの部屋が今はやたらと広く感じられる。
ギシリと音を立てて片側の寝台に腰を下ろせば、向かい側の寝台の枕元に無造作に置かれた小さな背負い鞄が目に入り、連鎖的にそれの持ち主の顔が頭に思い浮かんだ。
柔らかな線を描く面の中で一際存在感を主張する二つの琥珀。
くるくるとよく変わる表情の真ん中でいつも悪戯そうに瞬いていた大きな目。
大抵の人間が直視を避ける男の鋭い三白眼を難なく見返して、楽しそうに笑うその声。
この一年で自らの傍らにあるのがごく当たり前になっていた。
楽士としては単独での活動期間の方が圧倒的に長い男にとっては、本来なら現在の状況こそ通常の状態と呼べるはずなのだが、あの茶色い毛並みの子兎の姿が見えないというだけで何とも言えない物足りなさを感じてしまう。
あれに『女』を感じるかと言われれば、そういう種類の感情とはまた違うもののようにも思えるが、あの娘が他の男に親しげな態度を取っているのを見ると、男はいつも例えようもなく不快な気分を味わう。
男にとっての『女』という生き物は、束の間の慰めを与えてくれる存在だ。
―――そして与えられた分だけ自分も同じものを返す。
貸し借り無し、とでもいうところだろうか。
多少の例外はあるにしても、かつての“付き合い”で金銭のやり取りが含まれた事は一度も無い。
そういう意味での『女』とあの娘は、男の中では全くの別物として位置付けされていた。
たとえ夜毎に違う女と情を交わす事があったとしても、朝が来れば終わりを告げる間柄の『女』と、公私に渡って日常の時間を共有する『弟子』でもある娘では、比重に差があり過ぎて到底同列に見る事など出来ない。
つまり、『ネイロ』がただの『女』以上に大事な存在だということに他ならないのだが、男がそれをきちんと言葉に表して伝えた事が一度も無い、という点に大きな問題があった。
娘にしてみれば、家族とも師とも慕う唯一無二の相手から目の前で人目も憚らぬ異性との触れ合いを見せ付けられれば、疎外感やら危機感やらを覚えたとしても無理からぬというもの。
血の繋がりが無いのは勿論、確かな言葉での約束すら何一つ示されていないのでは、不安に思って当然であろう。
言葉が通じる以前の一方的な会話や酔っ払い兎相手の口約束は、完全にノーカウントの部類だ。
とどのつまり今回の騒動は、今まで男の言葉が致命的なまでに足らなさ過ぎた事が原因とも言える。
その後、手持ち無沙汰になった男がふと何気無く手を伸ばして娘の荷に触れた際、たまたま留め具が外れていたため鞄の中味が幾つか転がり落ちて床に散らばった。
――――娘の持ち物は見慣れぬ不思議な品が多い。
男は落ちた道具を広い集めようと床に屈んであちこち目を向け、ひとつ、またひとつと摘まみ上げた品を鞄の中に放り入れる。
最後に娘がいつも何かを書き付けている冊子を手に取ると、見るとは無しにその『書き付け』をパラパラと捲って目を見張った。
(…………何語だ、これは)
その『書き付け』は長年方々を旅して歩いた男が一度も目にした事がない文字で記されていた。
――――それも恐ろしく複雑な文字で。
平民以下の人間の識字率はけして高いものでは無い。
これほどびっしりと書き込まれた冊子を見れば、その文字の種類の多さや書き込みの丁寧さから、かなりの教養がある人間が記したもの予測出来る。
「……お前は、…いったい何処から来たんだろうな」
実に今更な疑問だった。
自身の身の上を詮索される事を好まぬ男にとって、他人の身の上など更にどうでもいい事柄であったため、娘の素性についてもこの一年間一度も問うた事が無かった。
娘の立ち居振舞いはごく普通の市井の人間のもので、言葉を解するようになってからの会話にも何ら不自然さを感じる点は見当たらず、元は裕福な家庭の生まれなのだろうと納得出来る程度の疑問に留まっていた。
出逢い方からしてかなり唐突であったのだが、そこは細かい事を気にしない(かなりいい加減な)男の性分で、さして重要な記憶として残る事も無く二人は旅の道連れとなった。
そしてその切っ掛けとなったのが娘の竪琴の腕前という、ある意味分かりやすい理由ではあるのだが、当初の男は“使い物”にならなければそれまでの関係と割り切った考え方をしていた。
一年後、自分がその『拾い物』にこれほど執着する羽目になるとは露ほども思わずに。
徐々に陽が傾いて薄暗く黄昏てゆく部屋の中で、男はただぼんやりと春の日向のような娘の面影を想う。
肌を重ねるだけの相手とではけして満たされる事が無かった胸の空洞に、いつの頃からか棲み着いた小さな子供。
蝶が古い衣を脱ぎ去るようにして、一足飛びに『娘』へと羽化を果たした。
「――――…ネイロ…」
己の迂闊さでドン底まで落ち込んだ信頼を、果たしてどのように回復すれば良いのか、現時点での男には皆目見当がつけられなかった。




