突撃!隣の居酒屋さん
慣れない長旅で靴擦れを悪化させて大量に拵えた足の裏の肉刺も大分楽になってきた頃、私はグリフォンに連れられて初めて宿の隣にある酒場に足を踏み入れた。
酒場と言ってもわりと健全な大衆食堂の雰囲気で、女性客の姿もチラホラ見えるし、中には明らかに自分と同年代の若者なんかもいる。
もしかして天国って、飲酒に年齢制限は無しですか!
夕方のまだ早い時間なだけに若年層も多くて、何故かチラチラとした視線を感じる。
私、そんなに浮いてるのかな?それとも余所者が珍しい?
グリフォンに手招きされてカウンターのすぐ横のテーブルの着くと、何だか色っぽい巨乳美人の女給仕さんが注文を受けにやって来て、妙にグリフォンにクネクネと絡みつき始めた。
…………おお!ナルホド。
思わず手をポンと打っちゃったし。
お姐さんからどこかで嗅いだ記憶のある香りがすると思ったら、この町に初めて泊まった次の朝、グリフォンがこの香りを纏っていた気がする。
う~ん、そっかそっか。
グリフォンの“大人の女”の基準がコレだとすると、私なんか子供に見えるよねぇ。納得納得。
でもって、グリフォン。…意外にムッツリ助平だったんだね。
―――手ぇ、早過ぎ。
* * *
いずれ仕事に同行させるなら、少女を“場”の雰囲気に慣れさせておくのも悪くない。
そう考えた男は、少女がなんとか普通に歩けるようになった頃合いを見計らい、現在の仕事場である酒場にネイロを連れ出す事にした。
その日は六日に一度の安息日に当たり、夕方の早い時間にも拘わらず店は人で大層賑わっている。
男はいつものカウンターではなく、取り合えず少女に食事をさせるために手近なテーブルを選んで席に着いた。
常連客の中には既に少女の歌を聴いている者がいるため何やら期待のこもった視線を感じるが、無茶振りをされて面倒な事になる前にと、男はネイロの唄が話題に上がったその日のうちに、“唄っているのは異国人の少女で言葉が通じない”としっかり釘を刺しておく事は忘れなかった。
「御注文はお決まりですかぁ?」
カウンターの奥から盆を片手に注文を取りにやって来たのは、男がやたらと見覚えのある女給仕だった。
―――鮮やかな赤毛に豊かな胸と括れた腰のラインが魅力的な、酒場で男性客に一番人気の看板娘。
娘は随分と自由奔放な性格をしているらしく、初日に声を掛けられた男は娘とアッサリとそういう関係に至った。
“慣れている”というのがその娘に対する男の感想だったが、男の方もその行為自体はごく当たり前の日常であるため、これといった思い入れは生まれなかった。
ただ子供の教育上、目の前であまり過剰な接触はどうかと思うくらいだ。
女給仕は男の連れの見慣れない少女をからかうつもりなのか、ベタベタと男の身体に触れやけに優越感タップリの表情を浮かべていたが、少女の方は女給仕を上から下まで眺めた後、ポンと手を一打ちして何やらウンウンと一人で納得するように頷いただけだった。
『…おぉ…ミサイルだ。もしかしてその胸、発射する?』
好奇心タップリの表情で語られたのは謎の異国語だったが、恐らく内容はろくでもないに違いないと思われた。
少女のその目が、悪戯そうにキラリと輝いたからだ。
―――猫だ、猫がいる。お前は兎じゃなかったのか!
男は僅かに覗いた少女の新たな一面に、微かに嘆息した。
「………よく解った。負けず嫌いなんだな…」
『グリフォン?』
小首を傾げる姿は愛らしい仔兎だが、少女はどうやら大人しいだけの小動物ではなかったようだ。
常連客との会話の合間に受けたリクエストに応えて男がギタールを構えると、店内のざわめきが一瞬水を打ったように静まり返った。
周囲が期待のこもった静けさに包まれ、空気がピンと張りつめる。
まず、一音。
ゆるやかな前奏曲に合わせて男の喉から艶のある低音が滑らかに溢れ出す―――至福の歌声だ。
その場にいる誰もが陶然と耳を傾け、惜しみ無く無言の賛辞を捧げる。
少女もまた魂を拐われたような心地で男の歌に聴き入っていたが、ふとその深い森の色の眼と視線が交わった瞬間、耳許で言葉を囁かれるのと同じほどはっきりと、男の言葉を感じ取った。
“―――音を合わせろ”
この数日何度も繰り返し練習していた曲だ。
少女は肌身離さず持ち歩いている竪琴の布包みをシュルリとほどくと、膝の上に抱え直した。
今や店内の全ての耳目が男に集中している。
少女はごく自然な音の流れに乗って、最初の音を指先から紡ぎ始めた。
金属的で硬質な響きのギタールの音色に柔らかな弦の音色がそっと絡み付くように鳴り出して、男の歌に聴き入っていた客達の表情に、おやという軽い驚きが浮かぶ。
陽が落ちて暗くなった店内の灯りといえば、カウンターやテーブルに置かれたランプと天井の吊り下げの燭台のみ。ぼんやりとした光源から一歩外れてしまえば、他人の手元など見えはしない。
いったい誰が奏でているのかと、誰もが周囲を見回して首を捻った。
水面に落ちた滴が描く波紋のような余韻を残して男の歌が終ると、誰のものとも知れぬ溜め息があちこちで溢れ、数拍の間を置いて惜しみない称賛の声が盛大な拍手と共に送られた。
男は軽く礼の姿勢を取った後で、カウンター席の椅子から手を伸ばして少女の茶色い頭を軽くポンと撫で、滅多にない良い笑顔を浮かべる。
「…上出来だ」
『えへへー』
近くの席でそのやり取りを見ていた客は、当然少女の持っている竪琴に気が付いた。
「おお!今の竪琴は嬢ちゃんかい、小さいのにたいしたもんだ」
「楽士の旦那ぁ。その子は唄わないのかい?」
「―――すまないが、まだ修行中の身だ」
「でもよぅ、毎晩隣で唄ってるだろ?俺ぁあの歌が気に入ってんだがなー」
そう言って調子っ外れの鼻歌で聴き慣れないフレーズを披露し始めた男に、周囲の客からは次々と野次が浴びせかけられた。
「テメェ…、折角の良い気分をブチ壊してんじゃねーぞ!」
「引っ込め音痴野郎!」
「み…耳が腐るっ…」
本人は至って忠実に歌を再現しているつもりらしいが、少女からすればそれは最早元歌の原型すら留めていない代物で、どの歌を示しているのかすら不明。
『ジャ〇アンっ……、ジャイ〇ンがいる!!』
男は黙ってこめかみを揉みほぐしながら暫くその怪音に耐えていたものの、次第に辛くなってきたのか改めて少女に向き直ると少女の持ち物である竪琴をコンと小突いた。
『え?何?―――私が唄うの!?』
仏頂面がコクリと頷く。
よほどこの怪音が耐え難いらしい。何でも良いからこの場を収めろと言わんばかりの態度に、少女も腹を括るしかないと諦めた。
要するに歌の出来の善し悪しはともかく、余興に成りさえすればいいのだろう。
『じゃあ、あれかな……』
その晩“天国”のとある酒場にJ-POPSがメドレーで流れ、軽さとノリの良さで大層な盛り上がりをみせたとかみせなかったとか…。
取り合えず旅の楽士の懐は大いに潤ったという事だ。