歌う兎
芝居が始まった直後に男の耳は既にその違和感を捉えていた。
それは、昨日まで何ら問題が見受けられなかった主演女優の声に表れた、ごく僅かな変調の兆し。
素人であればそれと気付かぬ程度の微妙な音程のズレに加え、彼女の持ち味である豊かな声量と伸びやかな歌声に含まれる、僅かなザラつき。
その変化に気付いた団員が果たしてどれだけ居るだろう。
男が然り気無く周囲に視線を回らせると、自分の弟子が眉をしかめて舞台の上の『ジュリアナ』を注視する様子が目に入った。
(ネイロは気が付いたか…)
仮に他に気付いている者が居たとして、団員がそれを態度に表して観客にむざむざ悟らせるような真似をする筈も無いが。
本番直前に欠けた二人の『男役』の女優は流行り風邪で喉を痛めたという話だ。
おそらくは同じ症状が今になって主演女優にも現れたのだろう。
(終幕まで声が持てばいいが…)
今朝になって主演女優当人が不調を言い出していたとして、はたして代役を務められる女優がいたかどうかも分からない。
――――ともかく、こうして幕を開けた以上やり遂げるより道は他に無い。
そして芝居は中盤まで目立った失敗も無く順調に続き、一見して何事も無く進められているかのように見えた。
だがこの辺りまで来るとほぼ全ての団員に主演女優の不調が感じ取られていた。
喉の疲労から少しずつ歌の語尾が掠れ始め、ほんの僅かに過ぎなかった音程の狂いの回数が徐々に増えて。
日頃から稽古を共にし、同じ舞台に立ち続けている役者の不調が悟られぬはずもなかった。
一旦場面が切り替わり主演女優が天幕に引っ込むと、ベロニカが目立たぬ動作でその後を追い――――――。
「……フランカ!アナタいつから――、って、そんな場合でも無いわね。どう?最後まで行けそう?」
「コホ、…ごめんなさいベロニカ。朝の発声練習の時はまだそれほど調子が悪い訳じゃなかったのよ…」
「辛そうね…、でも代役は居ないの。お願い!あと少し頑張ってちょうだい!」
「わかってる…、ゴホッ、ここからが見せ場なんだもの!」
会話は舞台の裏で小声で交わされていた。
裏方の女から手渡された水筒の中身で素早く喉を潤した主演女優は、直ぐ様決意の表情を浮かべる。
演技が失敗に終われば観客は『期待外れ』だとアッサリ立ち去るに違いない。
一文の銭も払わずに。――――それこそ死活問題だ。
そして迎えた終盤。
ありきたりな物語であっても大多数の人間に好まれるこの芝居の見せ処は、何と言っても主人公二人が艱難辛苦を乗り越えた末に、お互いの気持ちを歌で伝え合う最後の一場面にある。
が、それも今回は肝心要の主人公役の女優二人が欠けて代役の代役な上、歌い手は代理人という微妙な配置。
この上主演女優にまで何かあれば、舞台の成功自体が危ぶまれかねない。
――――そしていよいよ、主人公(男)の演技に合わせた楽士の歌が始まろうとしていた。
語りかけるような甘い美声が舞台の袖から響いた瞬間、すっかり芝居に魅せられていた観客達の間から感嘆の溜め息が幾つも溢れ落ち、広場に小さなどよめきが生まれる。
普段の楽士のものよりやや高めのその歌声は、『ロメオ』の印象に違和感無く馴染み、聴く者を更に物語の世界へとより深く引き込む力があった。
主人公の恋心を切々と訴えた歌詞の内容と繊細なメロディーに、観客(女性)の中には思わず目許を赤らめ呼吸を乱す者が続出。
今にもレースのハンカチを食い縛って悶絶しそうな雰囲気の乙女さえいる。
(うわぁ…、エログリフ全開だ…!)
男の背後でゲンナリと眉をしかめる弟子。
―――危うく竪琴の音を外すところだった。
(甘過ぎ……み……耳が爛れるっ……!……あのさぁ?加減しろって言われてたんじゃなかったっけ―――?!)
幸いにも演技に集中している役者には、色気タレ流しの美声の影響は出ておらず、このまま芝居は何事も無く終幕を迎えるかと思われた。
ロメオの独唱、ジュリアナとのデュエット、再びロメオの独唱と順調に続き―――、ジュリアナの独唱の場面で女主人公の表情が突如として凍り付いた。
(―――――声が……出ない……っ!!)
不自然な間合いに演奏だけが先へと進む。
一番恐れていた事態が起きてしまった事に気付いた団員の間に動揺が走る。
喉元を押さえて強張る『ジュリアナ』に一座の誰もが舞台の失敗を覚悟せざるを得なかった。
時間にして僅か数拍――――。どうにかして舞台にけりをつけねばと、女形達が舞台の前面に進み出ようとしたその時。
――――歌声は、思いがけない場所からもたらされた。
〈愛しいひと たとえこの世のどんな暗闇も 私の胸の内側から 貴方の面影を消す事は出来はしないでしょう―――〉
あたかもそれが初めから決められていた演出でもあるかのように、楽士の隣で竪琴を爪弾いていた娘がジュリアナの歌を引き継ぐと、舞台の上の役者達は一瞬で我に返り演技を再開した。
無言で手を取り合い見つめ合う恋人同士。
そしてそこに言葉は要らないとばかりの熱烈な抱擁。
舞台は観客達の上げる黄色い悲鳴に包まれながら、無事に全員大合唱での終幕を迎えた。




