虹の彼方に
グリフォンとネイロの二人が雨季の先触れに追い立てられるようにして《金の麦穂亭》に駆け込んでから既にかれこれ一月近くが経過し、季節は盛夏にさしかかろうとしていた。
思わぬトラブルに遭遇して負った弟子の傷の回復を待って、男が一人で営業しながらカレニアに留まり続けてはいたが、それもそろそろ潮時だった。
「…一両日中にこの街を発とうと思う」
いつも通りの遅めの朝食兼昼食を食堂で摂りながら男がごく簡潔に告げた言葉に、少女はパチパチと瞬きで応えた。
『「いちりょ…」―――何?』
「今日中に支度を整えて明日には出立だ」
『「しゅったつ」…旅に出るの?うん、「わかった」』
この一月で少女の会話力は驚くほど上達していた。
本人の記憶力の良さに加えて、お喋り好きな宿の姉妹との日常会話が強力な後押しになったのはまず間違いない。
無口な男と二人きりならこうはならなかっただろう。
「ええっ、ネイロ行っちゃうの!?」
近くで給仕をしていたリンカがこちらの会話を聞き付けて頓狂な声をあげた。
「せっかく仲良くなったのにぃ…」
いつも明るいソバカス顔の少女がションボリと肩を落とす様子に、ネイロはどう言葉を掛けようかと悩んだものの、自らの語彙の少なさに行き当たってヘニャリと眉尻を下げた。
「リンカ。ネイロちゃんが困ってるじゃないの」
「でもでもぉ…」
「宿にお泊まりのお客さんがいつか発たれるのは当たり前でしょう」
「うー…、寂しいよぅ」
姉妹のその会話を聞いて、少女の顔にもふと寂しげな笑みが浮かぶ。
二人で旅を始めてからというもの、男と少女がひとつところにこれ程長居をした事は無く、特に何処の生まれとも知れぬ言葉も不自由な少女にとって、連れの男以外でここまで親しくなれた者達は初めてであったため、随分と名残惜しさを味わう事になったようだ。
「―――宿の方々には随分とお世話になった。…感謝している。明日の朝には発つつもりだ」
男の淡々とした語り口調はともすれば情の薄さを感じさせられそうなものだったが、珍しくもその表情には柔らかな笑みが含まれていて、《金の麦穂亭》の看板姉妹は揃って呆けたように目をしばたかせた。
「明日雨かも…」
「…そうね…」
その日の晩、宿の食堂でささやかな演奏会が開かれた。
雨季の始めの頃と違って宿の客の入りはそこそこだったが今夜は“営業”では無い。
お世話になった宿の人達に何かお礼がしたいと、たどたどしい言葉で弟子に請われた男が、ならばと提案したものだ。
裏方の仕事が一段落着いた頃合いを見計らい、二人はそれぞれの楽器を手に姿勢を構えた。
疎らに埋まった席の一画には珍しくも《金の麦穂亭》の一家が顔を揃え、いつもは奥に引っ込んでいる亭主までもがこの夜はテーブル席に着いて盃を傾けている。
滅多に無い事だった。
始めに流行り歌を数曲。リクエストの弾き語りでは英雄の武勇譚を。
馴染みの唱歌では聴き手達も歌に加わって、ちょっとした合唱になった。
そして最後の一曲。
不意にギタールが鳴り止み、周囲が柔らかな竪琴の音色だけで満たされた。
虹の向こうのどこか空高くに
子守唄で聴いた国がある
虹の向こうの空は青く
信じた夢は全て現実になる
いつか星に願い
目覚めると僕は雲を見下ろし
全ての悩みはレモンの雫となって
屋根の上へ溶け落ちてゆく
僕はそこへ行くんだ
虹の向こうのどこかに
青い鳥は飛ぶ
虹を越える鳥達
僕も飛んでゆくよ
―――久々に聴く少女の歌声。
しかも驚いた事に歌詞が異国の言葉ではなく、こちらの共通語。
それは誰もが初めて聴く曲にも拘わらず、不思議とストンと胸の真ん中に収まりいつまでも耳の奥に留まった。
まだ幼さを残した声が紡ぐ、背伸び無しの等身大の歌。
『「…みなさんお世話になりました。またお会いする日まで、どうかお元気で」』
翌朝早朝、まだ陽も昇りきらぬ頃に二人はその街を発った。
“オズの魔法使い”の名曲です。




