思慕
事の子細を知った常連客達の反応は苛烈だった。
亭主に首根っこを掴まれ引き摺られるようにして現れたその男を見るなり、全員が怒髪天の勢いで怒号の集中砲火を浴びせかける。
「てめえええぇっ!このクサレ外道野郎!!」
「あんな子供に何してやがる!!」
「構うこたねえから切り落とせ亭主!!」
男は既に亭主の仕置きを受けてボロボロの有り様だったが、それに同情する者などどこにも居なかった。
たかだか数日宿を同じくしただけとはいえ、あの無愛想な楽士の連れの少女を知る者は、皆一様に少女に愛着を感じ始めていたため怒りもひとしおのようだ。
「う…っ」
切れた口の端から呻き声を漏らしながらも、未だに反抗的な目を周囲に向ける男を見て、隠居二人が呆れた風な言葉を放った。
「よりにもよって“気違い熊”の宿で揉め事を起こす馬鹿がいるとは…。そやつ本当に傭兵なのかのぅ」
「かつての同業者でしかも組合長を務めた男じゃぞ。現役こそ退いとるが駆け出しがどうにか出来る相手ではなかろうに…」
男が瞼を腫らした目を大きく見開いた。
どうやら本当に何も知らなかったようだ。
ほどなくして男を引き取りに来た役人が、顔や身体のあちこちを腫らしているものの五体満足で動ける状態の男を見て、「運が良い男だ」としみじみ漏らした言葉によって、男は今更ながらに得もいわれぬ不安をもたらされる事となった。
「そこら中で問題起こして悪い方で評判だったらしいっすよ、あの男。うちの前にいた宿から避難して来る時も、年寄り子供を押し退けるようにして我先に逃げ出して、通りすがりの婆さん転ばせて怪我を負わせてたりして」
その後、宿の跡取り息子が町で聞き込んできた話をすると一同はさもありなんと一斉に頷いた。
「それより嬢ちゃんの容態が気掛かりじゃのう…」
「…そうさなぁ」
歌声の聴こえなくなった《金の麦穂亭》には、溜め息だけが満ちていた。
* * *
“君の人生が幸せな音色で満ちますように”
私の名前にはそんな願いが込められているんだよって、昔お父さんとお母さんに教えてもらった。
『――音彩――』
三人で暮らす家はいつもやさしい音で溢れていて、たとえ会話が無くても温かい気持ちになれた。
ペタペタと素足で家の中を動き回るお父さんの足音。
お母さんがポットにお湯を注ぐコポコポという柔らかな響き。衣擦れの音…。
それはどんなに住む場所が変わっても同じだった。
―――二人を喪うまでは。
どうして、どうして。
こんなにも突然に独りぼっちにされるなんて思わなかった。
ひどいよ…二人して…。私のこと置いてきぼりなんて。
……迎えに来てもくれないの?
それとも、私があんまり“遠く”にいるから居場所がわからないのかな。
誰も私が異世界に居るなんて思わないよね…。
*
………誰かに頭を撫でられてる感じがする。
それも、ものすごく慎重な手つきで。
まるで壊れ物でも扱うみたいに、そーっとそーっと。
なんだか頭がボンヤリしてて、あんまりものが考えられないけど……多分この手はグリフォンだ。
その筋ばった長い指が意外にも繊細な動きをするのを、私はよく知っている。
あんなおっかない顔をしてるけど、結構優しげに笑える事も。
『……ぐりふ……』
「……!」
『なんでそんな顔してるの…』
まるでどこか痛むみたいな。
「……すまなかった」
『……?……ちょっとは笑えばいいのに…。せっかく男前なんだからさ…―――――っい…た!!』
少し長めに喋った途端、首に激痛が走った。
――――なんで!?!?
「ネイロ…、無理をするな!」
『うぇ…、…イ…タイ…』
痛みで生理的な涙がボロボロ溢れる。
なにこれ、痛いなんてもんじゃない―――。
傷口が火で炙られるみたいに熱い!!
――――――『 傷 』……?
そこまで考えて、唐突に思い出した。
『傷』の理由を。
『……ァ……』
―――眼前に迫る獣の顔と、鈍い銀の刃―――
怖い 怖い 怖い。
抵抗してもしなくても、きっとこの獣は私を生きながら食い殺す。
腕力で敵うはずもない。だから私は、せめてもの抵抗に力一杯叫んだんだ。
『や……っぁ、ぁあああ――――助けて…助けて!
おとうさん…おかあさんっ…、誰か………』
だけど。
誰も居ない。誰も居ない。この世界に私を知る人はだぁれも。
どんなに呼んでも、私の“言葉”は誰にも届かない。
『……ふ…、ぐりふ…っ!助けて―――グリフォン…!!』
「ネイロ!!」
誰かに、大きな声で名前を呼ばれた。
すうっと頭の中の靄が引いて、一気に視界が開ける。
最初に目に飛び込んできたのは、深い森の色。
続いて夜明け前の空に似た明るい灰色が。
『ぐりふ…』
「もう傍は離れない。……今は、休め。俺はここに居る」
『う…ふぇ…、、、うう――――っ。こ…怖かった…、怖かったよぅ……』
何を言われたのかは解らなかったけど、グリフォンの声に含まれる響きは、ただただ優しくて。
涙が止まらなくなった私は、そのまま疲れて気を失うまで泣き続けた。
*
あれから昏々と眠り続けて、半日。
夜半に夢現の狭間でボンヤリと目を覚ました少女は、傷の痛みに己が身の記憶まで呼び覚まされてしまったようだった。
混乱して酷く取り乱し、異国の言葉で助けを求めながら長い時間泣きじゃくり続けて、何度も男の名を口にした。
「……俺はとんだ役立たずだ」
いざという時何一つ助けにならなかった己に男の後悔は深まる一方で、いつもの見る者を射る抜く鋭い眼差しはすっかり鳴りを潜め、ただ憔悴しきった色を漂わすばかり。
泣き疲れて眠った少女の掌をそっと包み込むようにして握る男の口からポツリと溢れ落ちた言葉は、自らも思いもよらぬほど力無いものだった。
「……お前はまだ…、俺に笑いかけてくれるだろうか…」




