悔恨
「このっ…、くそガキが!!余計な真似しやがって―――!!」
その男は目を血走らせて吐き捨てるように叫んだ。
ほんの少し脅しただけで震え上がるような小娘とたかを括っていたら、その小娘は拘束を緩めた途端に有り得ない大声で叫び、事態をややこしいものへと変えてしまった。
獲物が脅えて萎縮している間に事に及んでしまえばこっちのもの。相手はたかが流民で、おまけにろくに言葉も通じない小娘。大概の女は自分が犯されたなどと言い触らしはしないものだ――――と。
かつての“経験”からそう考え、至って気楽に凶行に及んだ結果がこれだ。
喉元を血で濡らして寝台に力無く横たわる娘。
刃に触れるのも構わず声を振り絞り、自業自得にも抜き身の部分で自ら傷を負った。
その名を呼びながら幾度も激しく扉を打ち付けているのは連れの男だろう。
そもそも昨夜あの男が素直に交渉に応じていればこうはならなかった。
「…チッ!」
忌々しげに舌打ちを鳴らすも後の祭。
たとえ相手が流民とはいえ、傭兵が町中で人間に手にかければ確実に罪を問われる。
憲兵に捕らわれる前にどうにかして逃れなければならない。
男はイライラと髪を掻きむしりながら、自分の手荷物を担ぐと部屋の窓から表を窺った。
――――飛び降りられない高さでは無いが、障害物があって着地のための足場があまり良く見えない。
どうしたものか、と二の足を踏んだその瞬間。
ドカッ!!! バキッ!!!
部屋中に凄まじい破壊音が響き渡った。
それなりの厚みがある一枚板の扉に、まるで柔らかな肉に包丁を突き立てでもするかのように、鋭利な刃先が立て続けに打ち込まれる。
男が唖然としているうちに、扉はみるみる木片と化した。
*
「―――ネイロ!!!」
最早ただの木屑と化した扉の向こう側に勢いをつけて飛び込んだグリフォンは、目の前のあまりの光景に愕然となった。
喉元を自らの血で紅く染めて、ぐったりと横たわる少女。
――――時が凍りついたようだった。
「……貴様、が……」
グリフォンの面から一切の表情が抜け落ちた。
「ぐあっ!!」
ほんの一息で窓際に立つ男までの数歩の距離を詰めたグリフォンは、単に腕を軽く捻り上げるような動作で男を床に沈め、いつの間にか手にしていた自らの短刀をピタリとその首に押し当てた。
瞬く間の出来事だった。
「……隠世で弟子に侘びて貰おう」
「グッ…!」
微塵も感情の籠らない声でそう宣言し、首を刈り取るために躊躇い無く刃を引こうと手に力を込めた、その時。
「―――生きてるぞ」
亭主のボソリとした低い声が耳に届き、グリフォンは動きを止めた。
「首の傷はごく浅い、手当てをすれば命に別状は無い筈だ。誰か医者を呼べ」
その言葉に弾かれるようにして長男が駆け出し、入れ違いに女将とその長女が部屋に足を踏み入れる。
二人は無惨な姿で横たわる少女を目にして、思わず悲鳴を上げて傍に駆け寄った。
「まあ、何て事だい!!」
「ネイロちゃん!!酷い…っ、こんな…こんな怪我…」
「メイベル、泣くのは後におし!」
「……っ、はい!」
母娘によって適切な処置が施され、血の気を失った少女が部屋から運び出されても、男を拘束するグリフォンの腕が緩む事は無かった。
男の喉元に当てられた短刀はその気になればいつでも首を掻き切れるようにヒタリと押し当てられたまま。
「気持ちは解るが殺気を静めろ。俺の目の前で人殺しをすれば憲兵に捕らわれるのはあんたの方だ。…あの娘を放り出す事になるぞ」
亭主の説得でグリフォンの顔に僅かに表情が戻り、渋々ながら短刀を鞘に戻した。
「その痴者は俺が責任を持って役人に引き渡す。あんたは娘の傍に付いててやれ」
「……ネイロ…」
「さあ、行け」
巨漢の亭主はグリフォンの手から男を引き剥がすと、その襟首をむんずと掴み引き摺り上げた。
「よくも俺の“城”で狼藉を働いてくれたな…。てめえはもう客じゃねえ、覚悟しやがれ若造」
「…っ」
その場から足早に立ち去る楽士の背中を見送りながら、亭主は地獄の底から響くような声音で男に言い放った。
「そこそこの腕っぷし程度で図に乗り過ぎた報いは受けて貰わにゃならんぞ、『速足のガウル』だったか?
逃げ足だけは一級品だそうだな?よりにもよって俺の縄張り荒らしをする傭兵がいるとは思わんかったぞ」
到底ただの宿屋の亭主とは思われぬその迫力に男はゾクリと寒気を覚えて身を竦め、自分が力で立て続けに軽くあしらわれている事実に気付いて茫然となった。
*
幸い少女の首の傷は深い物では無かった。
元の部屋が使い物にならないため少女は一家の私的な居室に運び込まれ、医者の手当てを受けた後はそのまましばらく部屋を間借りする事に決まった。
命に別状は無いとはいえ未だに目を覚ます気配の無い少女の様子に見守る一同は気が気ではなく、ウロウロと落ち着き無く動き回っては何度も部屋を覗きに訪れる有り様。
宿の末の娘などは傷を負った少女を見るなり号泣し、それ以後は一瞬たりとも傍を離れようとしないほどだった。
そして男は。
寝台の脇に置かれた椅子に腰を降ろし、ガックリと肩を落として項垂れたまま身動ぎもしない状態がかれこれ一、二刻は続いていた。
「うっ…ひぐ、ネイロ…ネイロぉ。どぉして目を冷まさないの…」
「リンカ…、静かにおし。このお嬢さんは血を流し過ぎたせいで休養が必要なんだよ。眠るのが一番の薬だってお医者様も言ってたじゃないか。…あとは滋養のある食べ物で精をつけてあげるのが大事だって」
「…お母さん…うぇ…」
「ここは連れの旦那に任せて私らは仕事に戻らないとね。他のお客さんを放ったらかしにはしておけないよ」
母親に促されて後ろ髪を引かれるようにしながら末娘が出ていくと、小さな部屋の中にはものを言わぬ少女と男だけが残された。
血の気を失った華奢な身体の喉元に巻かれた包帯に滲む紅い色。
―――思わず目を背けたくなる痛々しい姿だった。
一歩間違えば命を落としていたであろう。
男はあの時、少女が自分を呼ぶ声を聴いた。
自分の名を叫び助けを求める声を、確かに聴いたのだ。
「……俺は…、何故……」
―――何故こうも気が回らないのか。いつもいつも。
あの男が厄介な相手だと薄々分かっていながら、ネイロに気配りひとつしてやらず。
「俺の、せい…か…」
悄然と呟く男の声にはいつもの力強さは欠片も見当たらない。
共に過ごした時間は、まだたったの二月。
会話らしい会話さえ成立したためしが無い相手だというのに。
他人に傷を負わされ自ら我を失う程の怒りを覚えた。
いつのまに、これほどまで。
爪も牙も持たない兎のような少女。
手を離せば身を守る術を何一つ持たないまま、自由奔放に跳び跳ねて行ってしまう。
今はただ、その明るい声が聴きたかった。




