天国事情
そして、何が何だか訳が分からない状況のまま、私はグリフォンの旅の道連れになった。
最初はここが『あの世』で、自分はとっくに死んでいるんじゃないかとも思ったけど、しばらく経って盛大にお腹の虫が鳴った瞬間、軽く悟りが開けた気分になった。
お腹が空くのは生きてる証拠。
死んでないなら、やることはひとつ。
―――――生きなきゃ。
* * *
グリフォンと行動を共にするようになって暫く経つと、少しずつ色んなものが“見えて”来るようになった。
脈絡も無く“天国”イコール“楽園”のようなイメージを抱いていたけれど、“天国”もごく当たり前の人間が暮らす普通の世界だと直ぐに気付かされた。
怪我をすれば血が流れ、飢えも病も存在する。
私の知る世界と大差ない“異世界”。
そしてこれから私が生きていかなければならない場所。
『痛っ…!』
足の裏の肉刺が潰れた痛みに思わず声が上がる。
比較的疲れにくいスニーカーを履いているとはいえ、毎日歩き通しだから結構辛い。
痛みに耐えかねてしゃがみ込んでいたら、先を歩いていたグリフォンが気付いて引き返して来た。
「…――――?」
相変わらず言葉は解らないけど、何となくニュアンスは伝わった。
多分今のは『どうした?』って聞いたんだと思う。
『足が痛くて…』
手で足の甲を擦る仕草をしたら得心がいったように頷いたグリフォンに、ヒョイとその腕に軽く持ち上げられてしまった。
抱き上げる、じゃなくて、持ち上げる。
もんのすごく無造作に!
適当に道端の草の上に座らされ靴を脱がされて、じっくり患部を観察される。
「―――…。――――――?」
何故だか咎めるような視線と口調を向けられてしまった。
うう…。
叱られたような気分になって涙目になったら、焦った顔のグリフォンに急に頭をガシガシと撫でられた。
『あのー…。私をいったい何歳だと…?』
電柱みたいなグリフォンと比べたらそりゃあ私は小さいだろうけど、日本人の十五の平均身長はクリアしてるし、両親に似れば将来はモデル並みの身長にポンキュッポンのナイスバディに!……なる予定なんだけど。
はぁ……、明らかに『幼児』の扱いされてるよね…?
グリフォンが何処からか摘んで来た薬草らしき物を足に貼り、手持ちのバンダナを包帯代わりにしてひとまず手当ては完了。
本当の事を言えばまだ足はかなり辛いけど、グリフォンの足を引っ張ってこんな場所で置いてきぼりにされたら、一日だって生きていけない自信がある。
この数日一緒に旅をしただけで、骨身に染みましたとも。
幸運だったのは背中のリュックにごく僅かだけど身の回りの品を入れていた事。
引っ越しの片付けをする際に、すぐ使う可能性の高い小物類をまとめてリュックに放り込んだ私、エライ。
折り畳み式のミラーやヘアブラシ、フェイスタオル。いわゆる「お泊まりセット」的な品が一通り揃っている。
それを見たグリフォンが何だか驚いた顔をしてたけど、もしかしたら“天国”では見慣れない品物なのかもしれない。
空を見上げて太陽の位置で時間を計る。
―――まだ正午には早いくらいかな?
旅のリズムは単調だ。
朝は日の出と共に起き出して、携帯食で簡単に朝食を済ませたら歩き始める。
道中の飲み水が確保出来そうな場所では毎回必ず補給。
途中何度か休憩を挟みながら、日暮れ前には野宿の支度をする。
暗くなると食事の用意もままならないから、明るい内に薪を拾い集めたり寝場所を整えたり、やる事は多い。
多少アウトドアの経験があったところで、それは便利な道具を用いての事。何の経験の足しにもなっていなかった。
何も無い露天で一から火を熾こし、着の身着のままの格好で地面で眠る。
最初は抵抗があったけど一日目にして疲れがMAX状態で、夜焚き火の前で目を瞑って空けたらもう朝で。
あんなに気絶するみたいに眠ったのなんて生まれて初めてだった。(死んでるかもだけど)
そして夜といえば、グリフォンの天使の歌声。
焚き火の一画に陣取って例のバンジョーに似た楽器を掻き鳴らして歌うその声は、何度聴いても惚れ惚れする。
喋る時は掠れ気味の低い声なのに、音に合わせると途端に艶やかなテノールになるから不思議。
時折視線をこっちに投げて寄越して“音を合わせろ”と言ってるみたいだから、そんな時は私も竪琴で応えてみる。
満足のいく合奏になると、平常時にはきつめのグリフォンの表情がほろりと崩れて柔らかくなるのは、割りと早い段階で気付いた。
グリフォンは結構男前なんだけど、私的には“おじさま”一歩手前過ぎてハードルが高い。
しかも目力が半端無くて、普段の素の状態だと睨まれてるのと大差無い感じがして無駄に緊張するし。
初対面の時“子供”を怯えさせないようにと、あれで相当表情に気を使ってくれてたんだって事には、後で気が付いた。
言葉が通じないのは不便だけどグリフォンは思いの外無口で、通常の対話は身振り手振りを交えた単語のやり取りで済ませてる。
助かるといえば助かるけど、これだと私がここの言葉を覚えるのに何年掛かるか判らない。
人のいる町にたどり着いたら、絶対ヒアリングに力を入れよう。
* * *
殆ど整備のなされていない野山の道を黙々と歩く男が、時折思い出したように後ろを振り返る。
つい数日前に拾った仔兎が遅れずに着いてくるのを確かめるためだ。
男の普段通りの足取りではどうやら仔兎には早すぎるらしく、引き離されては小走りで追いかけるという事が繰り返されている。
出来るだけ歩く速さを合わせてやりたいところだが、そうも言っていられない事情もある。
手持ちの食料が尽きかけているのだ。
一人分にしても最低限の量しか持ち合わせが無かった
ところに、もう一人増えてしまったのだから当然だ。
なるべく早く人里にたどり着かなければ、かなり厳しい状況になる。
――――そう思って先を急がせた結果、仔兎には大分無理を強いてしまったらしい。
小さな悲鳴を聞き付けて振り替えれば、茶色い仔兎は道端で涙目になりながらしゃがみ込んでいる。
どうしたのかと問えば、二言三言呟いて足の甲を擦る。
どうやら足を痛めたらしい。
「……これは酷い。…何故こんなになるまで何も言わなかった?」
少女の足の裏は靴擦れで出来た水ぶくれが幾つも破れて、見るからに痛々しい状態になってしまっていた。
思わず少しばかり強い口調になり、次の瞬間しまったと後悔する。
ネイロがビクリと首を竦めてふるふる震えだしたからだ。
気まずさを誤魔化すために頭を撫でるが、力加減が分からない。
ついつい力んでネイロの髪の毛をグシャグシャにしてしまった。
そもそも言葉が通じないのだから、言いたくても不調を訴える事が出来なかったのだろう。
自分が気付いてやるべきだったのだ。
それにしても、と男は思う。
この仔兎は随分と柔な造りの身体をしている。
身形はそこらの平民の子供と大して変わりが無いのに、日常的な労働で手を荒らしている様子も見られず、今しがた靴擦れの手当てをした足も柔らかだった。
まるで野兎ではなく愛玩用の飼い兎か何かのようだ。
背負い鞄の中の不思議な持ち物といい、見事な造りの竪琴といい、そこいらの町の子供ではないような気がしてならない。
だがそれでも拾ったからには面倒を見るしかないだろう。
―――――どうしたものか…。
自分の脚力なら一日歩けば最寄りの町に着けるだろうが、少女の身体を支えながらではその倍以上の時間が掛かるのは確実だ。
だからと言ってこの場に置き去りにする訳にもいかない。
難しい表情をして考え込む男の顔を、下から琥珀の瞳が不安そうに覗いている。
「……心配するな。置いて行きはしない」
そう言ってみたものの、言葉が伝わらないせいでネイロの不安げな表情が晴れる様子は見られない。
男はそこでふと思い付いて、自分のギタールを少女の膝に預けてみせた。
ネイロは膝の上のギタールと男の顔を交互に見詰め、それから安心したようにほっと小さく息を吐き出して、男のギタールを大事そうにきゅっと抱え直した。
“預ける”という行為が多少なりとも信頼の表現であると気付いたようだ。
木陰も何も無い道端で短い休憩を取り、少しでも先に進まなければと少女に手を貸して立ち上がらせる。
痛みに顔をしかめながらのフラフラとした足取りではあったが、少女は泣き言ひとつ漏らさずしっかりと歩き始めた。
『―――グリフォン』
「…どうした?」
歩き出した直後に上着の袖を引かれる感覚がして振り替えると、少女は自分達が歩いて来た方角を指差して何事かを知らせようとしている。
「あれは…荷馬車か」
馬車は二頭立ての幌付きで、同じような形のものが数台で組んでいる事から商用の隊商であると思われた。
「―――申し訳ない、馬車の主はどなたか。連れが足を痛めて難儀をしているのだが…最寄りの町まで荷台の隅にでも乗せては貰えないだろうか」
交渉はすんなりと成立した。
少女にはグリフォンが何を言ったかは解からなかったが、交渉にさほど乗り気では無い様子だった厳めしい顔の商人が、グリフォンの後ろからピョコリと顔を出したネイロを見てモゴモゴと口ごもり、黙って荷台を指差したため何となく話が着いた事だけは理解できた。
「……子連れ効果だな」
『なあに?』
「お前が役に立ったということだ」
『???』
「分からんでもいい」
客商売に姿の良し悪しは大きく影響する。
特に歌舞音曲といった芸能を生業とする者はそれが顕著に表れるものだ。
男の容姿は女性客には受けが良かったが、同性からは大抵煙たがられていた。
“スカした面をしてやがる”というのがその原因らしいが、本人にそんなつもりは毛頭無い。
ただ客商売には致命的な迄に愛想が枯渇しているというだけの事で。
馬車はその日の夜遅くにシエレという小さな町にたどり着いた。