鷲の翼の下に兎
旅の楽士に“傭兵崩れ”との印象を抱かせたその男は、同室の二人が起き出す以前に部屋を出て階下の食堂で時間を持て余していた。
男は昨日の夜、簡単にあしらえると思っていた相手に気迫で押し負ける格好になった事が無性に腹立たしくて、一晩中ムシャクシャした気分が治まらなかった。
それも自分の腕に覚えがあるだけに尚更だった。
(――――クソッタレ!あの優男…っ)
仕事が失敗続きで苛ついている時に、たまたま相部屋になった相手が流民の二人連れで、しかもその片方が娘。
いい“気晴らし”が出来ると踏んで交渉を持ち掛けたら、論外とばかりに撥ね付けられた上に気迫で押し負かされ、余計に鬱憤を溜め込む結果となった。
ならばとやり込められた仕返しに、寝込みを襲って男のを方を拘束してから“事”に及ぶつもりで機会を窺っていたが、結局のところその隙が掴めずにいつの間にか一晩が経過。
(…あの野郎、本当にただの楽士か……?体格もあるが、あの目付き…絶対に堅気の奴じゃねえ。…夜中中俺の動きにいちいち反応してやがって。
暗がりで物音を立てずに動いたってのに、こっちが何か仕掛けようとする度、刺すような殺気を飛ばして来やがった…!)
男は奥歯をギリリと鳴らして噛み締めた。
* * *
夜明けと共に幾分雨足が弱まり、河川の増水もこれ以上被害が広がる心配も無さそうだと、朝方町の見廻りに出た宿の長男が朝食の席で泊まり客達に告げた。
街道の冠水以外はごく一部の低い土地で床上浸水があった程度で、人命に関わるような深刻な被害は出ていないらしい。
「やれやれ、これで一息つけるかのぅ」
「だが水が引かん事には移動が出来ん。人はともかく荷馬車が動かせん。遠回りにになっても他の道を往くか…」
「悩ましいところじゃの」
食堂に集まっていた商人達は損益を計りにかけて、皆一様に今後の方針に頭を悩ませた。
それでも幾分天候が回復した事で先の見通しが立てやすくなり、その表情には明るさが混じっている。
「…荷馬車は若い者に任せて、儂だけでも一足先に商会に戻るかのー。嬢ちゃんの“おせろ”を商品化せにゃあならんし」
「「「おいコラ、爺さん!」」」
「おや?そう言えばあの二人はまだ部屋から降りて来とらんな」
「あの二人ならまだ朝から寝床でイチャついてる最中だぜぇ?」
食事の合間に隠居二人組と自称若手組商人のいつもの和やかな(?)やり取りが交わされる中、不意に聞き慣れない声が割り込んできた。
「やるよなぁ、あの旦那。ガキみてぇな娘とデキてるんだぜ?夕べも一晩中励んでたみてーだしよ」
その紛れもない悪意と蔑みを含んだその声音は、昨晩女将に絡んでいた男から発せられたものだった。
質の悪いでまかせと誰もが思いつつ、その場に一瞬微妙な沈黙が降りたのは無理もない。
どう考えても朝食の席に相応しい話題とは言い難かったからだ。
そしてよりにもよって、その気まずい空気が漂う真っ最中の食堂に、何も知らぬ件の二人連れが二階から姿を見せた。
二階から食堂の広間に降りた時、何となくいつもと雰囲気が違う事にグリフォンはすぐに気が付いた。
皆の表情が一様にぎこちないのだ。
顔見知りになった客と朝の挨拶を交わしながら、何が原因だろうかと然り気無く周囲に目を向けると、食堂の隅の席に昨日相部屋になった男がニヤニヤと薄ら笑いを浮かべて居座っているのが目に入った。
『ねー、座ろうよグリフ。朝ごはんにしよ?』
少女が立ったまま動かない連れの衣服の袖をクイと引っ張ると、男は益々嫌な笑いを深めて言い放った。
「―――朝から仲が良くて羨ましいこった!こっちは一晩中あんたらのイチャつく声が煩くて眠れなかったってのによぉ」
あちこちのテーブルでカチャリと匙を取り落としたり飲み物を喉に詰まらせて噎せる音が聞こえ、益々妙な空気が強まるのが感じられて、男はなるほどと思った。
(……そういう事か)
昨夜の腹いせに有ること無いこと吹聴してくれるとは。
特に目新しい嫌がらせでもないが、周囲の人間の弟子に対する風当たりが強くなっても困る。
幼いうちから誰にでも色を売るのが当たり前のように捉えられては、ここまで折角友好的な関係を築いてきたのが台無しになりかねない。
―――所詮は賤しい流浪の民よ、と。
自分自身が過去に幾度となく向けられた蔑みの声を、幼い弟子に向けさせたくは無い。
「そうだな。昨夜は中々に激しかったからな」
グリフォンの台詞に今度は口の中の物を噴き出す音が続出した。
「ちょお待て……ゲヘッ、ゴフッ!」
「楽士の旦那よ、、、アンタそりゃ…」
「………グフッ」
馴染みになった『自称若手組』が盛大に噎せた。
「何しろ弟子は寝相が悪くてな。虫除けに隣で寝てたら何度も寝台から叩き落とされた」
「「「……………虫除け」」」
それだけで何となく状況が知れたらしい。
給仕を務めていた看板娘の姉の方は、眉を吊り上げてその傭兵崩れの男を睨み付けた。
「人の事を蹴っては落とし蹴っては落とし。仕舞いには自分も何度も寝台から落ちかけるものだから、昨夜はおとなしく寝かし付けるのに苦労した」
なるほど、と周囲の空気はアッサリ解れた。
おかしな雰囲気の訳が解らず小首を傾げるネイロの幼げな様子も手伝って、それ以上話が拗れる事も無くこの場は収まったものの、例の傭兵崩れの男は嫌がらせが不発に終わった事が面白くなかったようで、ギラつく視線をいつまでも二人に向け続けていた。




