暗雲
それまでの居心地の良い穏やかな宿の空気が一変したのは、滞在四日目の午過ぎになっての事だ。
雨季とはいえ例年に無い連日の激しい豪雨は次第に町にも人にも深刻な打撃を与え始め、しまいには氾濫した河川の水によって近隣の街道が何ヵ所も寸断される事態になった。
低地に家を構える者は取るものも取り合えず高台への避難を迫られ、知人宅に身を寄せんとする者、またあるいは一時の仮の宿を求める者達でカレニアの山の手方面はごった返し、また受け入れる宿の側も非常事態だけに先客に頭を下げて相部屋を願い、一人でも多くの人間を泊められるようにとその準備に奔走した。
当然《金の麦穂亭》でも主に知己の間柄の者同士が相部屋となり、予備の寝具を持ち込むなりして部屋を詰められるだけ詰めて新たな客を迎え入れる事になった訳だが、そこで少し問題が起きた。
「すみませんお客さん…。お連れさんが女の子なのでなるべく相部屋にならないように調整してたんですけど……その……」
夕方になって女将がひどく気まずそうな顔で二人の部屋を訪れた。
どうやら他の客との相部屋を願いに来たらしい。
「一旦お断りした方なんですけど、あちこち回ってどこも満室だったらしくて…。しかも怪我をなさってるので二度目は断りきれなくて」
「―――いや、気を使わせて申し訳なかった。こんな場合であれば仕方の無いことだ」
「…本当にすみません」
長く旅をしているとたまにこういう事がある。
屋根がある場所で寝られるだけ上等だと思わなければならない。
男だとて逆の立場なら何としても雨露をしのげる場所を確保するために、相部屋を願い出るに違いないのだ。
過去には何度も見ず知らずの他人との雑魚寝も経験している。
――――ただ今回は自分の連れが問題だった。
幼く見えるとはいえ、ネイロは恐らく年頃一歩手前の少女。扱いが難しい。
第一言葉が通じなくては説明も説得もしようがない。
その“客”が女性ならば自分が寝台を空ければ済む話なのだ。この天気に野宿をすることを思えば、例え廊下の板の間でさえ快適な寝床だと言える。
『…グリフ?どうしたの?』
天候の荒れ具合やバタバタと忙しない宿の雰囲気から少女にも何となく状況は伝わっていると思われるが、誰にもそれを言葉で教えて貰う事が出来ないためその表情はとても不安気だ。
『何かあったんだよね…?私、どうしたらいいの…』
男は敢えて笑みを浮かべ、不安がる子兎の茶色い頭をクシャリと撫でつけた。
「…お前は何も心配しなくていい」
そして件の客はやはりというか、男性だった。
それもあまり柄の良くない若い傭兵崩れのような男だ。
なんでもこの豪雨で泊まっていた宿が使えなくなり、他の客を避難誘導しながら高台を目指した際に漂流物に当たって足に怪我を負ったのだという。
当然ながらずぶ濡れで、男の周囲の床は水浸しになっている。
「チッ、気が利かねえ宿だなァ。風呂は使えねえのか」
「…身体を拭く程度のお湯でしたらご用意出来ます。何分この長雨で乾いた薪が不足しておりまして…。申し訳ありませんお客さん、お部屋に湯桶をお持ちしますので」
「フン、早くしてくれ」
今の時間帯談話室として使われている食堂には他の泊まり客の姿も大勢あり、その中にはその傭兵崩れの男と同じく後から緊急避難的に受け入れられた客もチラホラ見える。
女将に悪態をつく男に宿の常連客達が眉をしかめ、新参の客でさえ呆れを通り越して顔に非難の色を浮かべる。
傭兵崩れの男はそれを毛ほども気に留めずスタスタと歩いて階段を登り始め、中程の階下を見下ろす位置まで上がってからふと振り返った。
「……部屋はどれだ」
「…っ、階段を上がって右手の三番目です。こちらのお客さんと相部屋になりますので」
そう言われて初めてその男は、階下に佇むちぐはぐな二人連れに目を向けた。
極めて大柄でやけに目付きが鋭い男と、その後ろに隠れるようにして寄り添う小綺麗な顔の娘。
そしてそのどちらもが腕に楽器を抱えている。
「…流民の芸人か」
それだけ呟くと男は後は大して関心も無さそうな素振りで二階へと姿を消した。
「…態度のなっとらん若造じゃのぉ」
「商会の若いのだったらキッチリ性根を叩き直してやるとこじゃい」
「オイオイ、あんまり興奮するとポックリ逝くぜ爺さん達」
「ぬぉう!何を言う、この自称若手共が!」
常連達の軽口で幾分その場の雰囲気が和らいだものの、どうにもざらついた気分が残る一幕になった。
既に満室だった《金の麦穂亭》に押し掛ける格好になった数人の新顔の客達も、皆どこか居心地が悪そうにしている。
「―――おやまぁ、これからうちでお通夜でも始まるんですか!せめて宿の中くらいジメジメしたのは無しにして下さいまし」
肝っ玉女将の鶴の一声だった。
「ハハハ、違ぇねえ!」
「幸いまだ人死にが出たとは聞かねえな。天気の具合なんざ泣いても笑っても人間にゃどうしようもねえ」
「なら、笑うが良いのぅ。ほれ、今なら《金の麦穂亭》には専属楽士がおるでな。明るい曲を頼むとするかね」
「イイねえ、それなら俺は嬢ちゃんの歌をリクエストするぜ」
そして常連客の気転で場の空気が徐々に緩んできたところを、男は見逃さなかった。
「…では、挨拶代わりに一曲ご披露しよう」
男の艶やかな歌声に合わせて少女が竪琴を奏でる。
最近ネイロの演奏レパートリーが増えて、曲調次第で奏者を替える機会が増えた。
ただ、『歌』に関しては歌詞の意味が理解出来ないうちは人前で唄うに価しないと男は考えている。
気持ちの込めようが無いから、と言うのがその理由だ。
お互いの持ち歌はともかく、気持ちを伴わない中途半端な歌で楽士を名乗るつもりは微塵もない。
少女に言葉が通じていたら『グリフ、頭固いよ』とでも言うに違いないが。
男が数曲を続けて唄い周囲の注目がすっかりそちらに向く中で、ネイロは偶然演奏の最中に二階から青い顔をしたメイベルが足早に駆け降りてくるのが目に入った。
ひどく動揺した様子が気に掛かり、演奏が終るや否や立ち上がってその側に駆け寄り声をかけた。
『…お姉さん、どうしたの?大丈夫?顔色悪いよ…?』
「あ…、ネイロちゃん…」
『具合悪いの?女将さん呼んで来ようか?』
意味不明な言葉でもその必死な呼び掛けで気遣われている事は分かったのだろう。
メイベルは半分涙目で無理矢理笑顔を作ろうとして、ひきつった表情を浮かべて言葉を吐き出した。
「…大丈夫、大丈夫よ。何も無かったんだから心配しないで。……っ、あんな男とネイロちゃんが相部屋だなんて…」
「―――おい、メイベル。夕食の支度が出来たぞ…、どうかしたのか?」
「兄さん…。何でも無いわよ」
厨房の奥から顔を出した長男に対して、さっと表情を取り繕ったメイベルは何でも無さそうな返事を返した。
「兄さん、二階にいる新顔さんに食事を運んでくれない?足の怪我が痛むそうだから食堂には降りて来られないそうよ」
「何だよ、そのくらいお前が……、まあいい。わかった」
何かを察したのか何も言わずに奥に引っ込む長男に、少女が手を伸ばして引き留めようとするのを見て、メイベルはそっと首を横に振った。
『あっ…、お兄さん行っちゃうの?待って…お姉さんが』
「ネイロちゃん、気に掛けてくれてありがとう。でも私なら大丈夫。客商売なんかしてたら、ああいう手合いのお客をあしらうのも仕事のうちよ!」
『……?……』
うるうると潤み始めた琥珀の瞳にメイベルは焦り、たまに妹にするような気安さでネイロの頭を撫でつけた。
「まぁ!艶々な髪ね、羨ましい~」
ふふ、と笑う顔からは、先程の動揺が消えている。
少女は少しだけ安心して、ほっと溜め息を落とした。
「―――ネイロ?どうかしたのか」
聞き慣れた低い掠れ声がして振り向くと、深い森の色を湛えた双眸が気遣わしげにこちらを窺っている。
「お客さん、ネイロちゃんから目を離さないであげて下さい」
「…………」
「…あんな、あんな男と女の子を同室になんてさせるんじゃなかったわっ…」
「…気を付けよう」
客あしらいに慣れた娘の憤る様子に、男は何か余程の不愉快な出来事があった事を察してその表情を引き締めた。




