徒然なるままに
某月某日、午過ぎ。―――――今日も雨。
雨足が強すぎて宿から出るのも億劫なのか、グリフォンは他所に営業に出掛ける素振りもなく部屋で楽器の手入れを始めた。
私の倍もありそうな大きな掌。
長い指は以外にも繊細な動きで一弦一弦丁寧に音を調えてゆく。
円い平たい胴に長い棹、金属的な響きの音が特徴的なその楽器は“ギタール”と言うらしい。
かなりの高音から低音まで幅広い音域があって、弾き手の技量次第で変幻自在な音色を生み出す事が出来る万能型の楽器。
グリフォンの歌も凄いけど、その指から紡ぎ出される音も同じくらい凄い。
他の人の演奏を聴いた事がないから比べようもないんだけど、何となくグリフォンの“音”なら聴き分けられるんじゃないかと思う。
つまり、素人の耳にもそれと解るくらい際立ってるって事が言いたい訳で。
『…………ねぇ。さっきからずっと気になってるんだけど、いつも髪を括ってる紐どうしたの?』
グリフォンは楽器を弄る最中に何度も顔にかかる髪をうっとおしげに振り払う仕草を繰り返してる。
背中の中程まである灰色の髪は大抵いつも細い革紐でひとつに括って後ろに流してるのに、今は手櫛で適当に整えただけ。
部屋の中だから薄手のシャツを着崩したラフな格好で寛いでたっておかしくは無いけど、髪をそのままにしてるのは珍しい。
人前に出る商売なだけあっていつも身嗜みには気を配ってるみたいなのに。
―――と、ふと部屋の隅にある屑籠を覗いたら例の革紐が放り込まれてるし。
『あー…、切れてる』
使い込まれて脆くなった革紐は真ん中からブチリと切れていた。
……これじゃあ使えないよね。
何か代わりになる品は―――と考えて、ふと自分のポーチの中に組み紐があったのを思い出した。
以前趣味で自作した品だけど、藍を基調にした渋めの配色はグリフォンの灰色の髪に映えるだろう。
ガサゴソ鞄を漁ってお目当ての組み紐と櫛を取り出し、『ジャーン』という効果音付きでグリフォンの目の前に差し出したら、なんだか訳が分からなそうな顔をされた。
『あのね、これでグリフォンの髪を結ってもいい?似合うと思うんだけど』
「?…何がやりたいんだお前は…。櫛に……紐?」
『いいでしょ?いいよね?―――よし、編み込みとかどうでしょお客さん!』
「…ネイロ」
『わーい、美容師ごっこだ~』
「………わかった、要するに暇なんだな…」
さしたる抵抗も無いのを良いことに、色々と前衛的なヘアスタイルを試みたけど、結局はいつもと大して変わらない髪型に落ち着いた。
せめてものアレンジで然り気無く片側を編み込むのだけは忘れなかった。やり遂げた。
「―――気が済んだか?」
グリフォンが苦笑いしながら何とかって言ったけど、やっぱり分かんない。でも一応言いたい事だけはちゃんと言っとこう。
『遊びに付き合ってくれてありがと。それ、グリフォンにあげるから使ってね』
* * *
―――弟子はいったい何がしたかったのか。
部屋で楽器の手入れに熱中していてふとむず痒くなるような視線を感じて顔を上げれば、何故か猫がジリジリと獲物に狙いを定めた時の表情をした少女がこちらを凝視していた。
寝台の上にペタリと座り込んだ小柄な身体の後ろに、パタリパタリと揺れ動く尾の幻さえ見える。
ムズムズと今にも獲物に飛び掛かりたそうな様子で、一気に意味の解らない言葉を捲し立ててたかと思うとネイロは徐にこちらに襲い(?)かかり、人の髪を弄り始めた。
それで、これだ。
たまたま髪を括るのに使っていた革紐が切れて、わざわざ新しい物を調達しに動くのも面倒だとそのままにしておいたら、茶色い兎にジャレつかれてしまった。
何が面白いのか、鼻唄混じりに人の髪を櫛で梳いたり編んでみたり。
散々弄ばれ最終的にはいつもとそう変わらない髪型に行き着いたようだ。
ふうと満足げな息を吐いてあれほど良い笑顔を見せられては、自分は最早何も言えない。
「――――気が済んだか?」
その日も夕方の早い時間から階下の食堂は暇を持て余した泊まり客で賑わっていた。
「まぁ、お客さん。今日は随分お洒落な髪形ですね!それに髪を結わえている紐も珍しいわ」
男の身嗜みの些細な変化に気が付いたのは、看板娘の姉の方だった。
若い娘らしく目端が効いて、流行り物には敏感とみえる。
「………弟子にやられた」
男は今まで仕事の時以外は隅の席でひっそりと寛ぐのが常だったのだが、ネイロを拾って以来急激に周囲が騒がしくなった。
その取っ付きにくい外見と気安いとは言い難い性格のお陰で、何処へ行っても馴染むのに時間が掛かり、時にはその愛想の無さが要らぬトラブルの原因に成りさえもしたものだ。
それがどういう理由か、子兎を連れ歩くようになってから目に見えて人付き合いが円滑になり、誰もが気軽にこちらに声を掛けてくるようになった。
現在も子兎は顔見知りになった商人達に囲まれ、暇潰しの余興に応じているところだ。
「うぉ、また負けた!」
「ヨッシャ、今度は俺の相手をしてくれ嬢ちゃん」
『ふっふーん。オセロで私に勝とうなんてじゅーねん早いですよ』
「…おお。言葉は解らんがそのドヤ顔見れば大体何言われてるのか想像つくぞ…チクショー」
『オホホホ、ごめんあそばせ~』
ネイロがわざとらしく口許に手を当てて高笑いをすれば、その場の雰囲気がぐっと砕けて盛り上がる。
男にはなかなか出来ない小技だ。
言葉が通じていないのがいっそ不思議なくらいの馴染み具合でもある。
『グリフ!オジサン達から飴玉巻き上げ……、貰った~』
しばらくすると暇人の相手をして得た戦利品を手に子兎がほくほく顔で男の側に戻ってきた。
自慢気に広げて見せたハンカチの中身は、子供の駄賃程度の中銅貨が何枚かと砂糖衣で固めた木の実の菓子で、どちらかと言えば贅沢品である菓子の方が高価な品だ。
(…あまり贅沢を覚えさせるのも考えものか…。しかし、だからといって取り上げるのも気が進まんし…)
男は密かに溜め息を落とした。
高級品である砂糖を大量に使った菓子などそうそう庶民の口に入るものではない。
文不相応な贅沢を覚えてしまえば、その後が辛くなる。
だが男は知るよしもなかった。
元々嗜好品に溢れた世界で暮らしていたネイロにとって甘味が特に貴重品だという意識は薄く、さほどの執着も感じていない事。
むしろ甘ければ甘いほど良いと持て囃されるこちらの世界の菓子を知れば、ゲンナリした表情をするに違いないという事を。
「―――ネイ…」
ネイロ、と呼ぼうとして口を開いた男の口に、瞬時に砂糖菓子を放り込んだ子兎が悪戯そうな笑みを浮かべた。
『…グリフはいつもしかめっ面だねぇ。ただでさえ悪そうな顔なんだから少しは笑うといいよ。甘いもの食べると落ち着くよ?いい人なのに勿体無いなぁ。―――はい、全部あげる』
男は自分の手にずいと押し付けられた物を意外な思いで見詰めた。
このくらいの歳の子供ならば甘いものには目がない筈だ。ましてや普段は贅沢とは無縁の暮らしをしているのだ、それを惜し気もなく他人に譲るとは。
単に気前が良いのか、物の価値が理解出来ていないのか。
『私的にはこの間のプディングくらいのやさしい甘さが好きなんだよねぇ。―――これ、甘過ぎ。歯が溶けちゃうよ』
結局のところ少女から菓子を取り上げる気になれなかった男がハンカチに包まれた品をそっと押し返すと、最終的にそれは宿屋の看板娘二人に振る舞われ、姉妹は滅多に味わえない高価な砂糖菓子にきゃあきゃあと歓声を上げて喜んだ。
「ありがとう、ネイロ!スッゴい嬉しい~」
「私まで貰っちゃって良いの?大事に食べるわね!」
『…虫歯に気を付けてね』
「ほぅほぅ。独り占めせんと姉妹にも分けてやったか。偉いの~感心感心」
「流民の芸人にしては育ちが良さげな嬢ちゃんじゃ。“金”に媚びる様子がこれっぽっちもありゃあせん。……元は良い家柄の娘なんではないか」
「頭も良いしな。恐らく生国の文字なら読み書きも出来るかものぅ。昨日何やら手帳に書き付けとったぞい」
「なんとまぁ…」
平民の識字率が三割程度で、それも単語や簡単な文章が読めれば上等な部類の国で、読み書きが自在に出来るという事はそれなりに裕福な家庭で育ったという証しに他ならない。
子供を働き手として扱わずに済むのは、ごく一部の富裕層に限られるからだ。
“学問”はあくまで貴族のもの。
義務教育などという概念はどこにも存在していない。
隠居二人組の少女に関する穿った予想は『当たらずとも遠からず』といったところだが。
世間がそういう状態なだけに、手紙でのやり取りなどというものは当然ある程度の教養のある者同士に限られ、一般人の情報の伝達となると精々が各地を行き来する商人や旅芸人がもたらす噂話程度しかない。
それだけにこうした宿場町では居合わせた旅人同士がお互いの持つ情報を交換し合うのが常になっている。
「さてさて…、今年の雨季は幾日続くやら」
「行商なんぞしておれば天気に足留めされる事は珍しくも無いが、今回ほど退屈せんのは初めてじゃのぅ」
「―――宿も良し。知己の間柄の者が顔を揃えておって話し相手には困らん。おまけに専属楽士がいるようなものじゃて、愉快な話じゃ」
「ふぉっふぉっ。違いない、違いない」
外のどしゃ降りとは対称的に、《金の麦穂亭》では実に穏やかな時間が流れていた。




