4 イイハナシダナー
◇◆◇
「ほらせっちゃん、これやるよ」
幼稚園の頃、そう言っていきなり口の中に突っ込まれたのは、当時の私が大嫌いだったプチトマトだ。
涙目で吐きそうになりながらも、一度口にいれた食べ物を吐き出すのはいけないことだと思っていたので、泣く泣くそれを飲み込んだ。それを見て満足そうにニヤつくつっくんは悪魔だと思った。
しかしただでやられる私ではない。
「じゃあつっくんには、これあげるね」
私はお返しにグリーンピースをかき集めてつっくんの口の中に押し込んだ。今度はつっくんが涙目だ。奴はグリーンピースが大の苦手だったから。
それから私のお弁当箱には、お母さんにおねだりして勝ち得たグリーンピースが連日待機するようになった。もちろん反撃用だ。
小学生になってもその攻防は続けられた。
「せっちゃん、これ食えよ」
「つっくん、お礼だよ食べて」
給食の時間に嫌いな椎茸を放り込まれれば、私はお返しにつっくんの嫌いな魚をぶち込んでやった。
中学生の頃は、なぜか嫌いな食べ物が被るという悲劇が起きた。
「……せっちゃん、喜べ今日もこれやるよ」
「……つっくん、こっちもだよ喜びたまえ」
その頃ナスが嫌いだった私たちのお弁当には、頻繁にナス料理が混入されるようになった。
私たちが学校で、相手の嫌いなものを食べさせあうという熾烈な争いをくりかえしていることに、お母さんたちは気づいていたのだ。そしてお互いの子供の好き嫌いを直すために共謀したらしい。いつの頃からかお母さんたちは、子供の嫌いな食べ物をリークしあっていた。
まあその甲斐あってか、私はトマトも椎茸も食べれるようになったし、つっくんもまた然り。ナスは二人とも無理だったけど。
普通は自分の嫌いな食べ物を相手に食べてもらうとかじゃないの? と、私たちの攻防を見ていた友達に言われたことがある。
しかしそんな微笑ましいやり取りが私たちの間で起こるはずがない。嫌がる食べ物を押し付けて嘲笑い、好きな食べ物は奪い取って高笑う。それが私たちだ。
だからお互い嫌いな食べ物も好きな食べ物もバレないように細心の注意を払っていたのに、なぜかすぐにバレてしまう。親にもバレたことないのに。
◇◆◇
そして高校生になった今、私たちは相変わらず一緒にお昼を食べている。
うちのクラスは半分以上のひとは教室から出て学食なり好きな場所なりで食べるから、教室はわりといつも静かだ。ぼっちにも優しい空間である。
「司君、はい、これどうぞ」
何食わぬ顔でプチトマトを箸で器用に掴んで差し出す私に、司君は怪訝な顔をしている。
高校生になった今、司君はトマトが苦手で、私はグリーンピースが食べられない。あの頃とは逆だ。相手が不味そうに食べているのを見続けたせいで、その食べ物が苦手になるという不思議現象が起きた。だからナス嫌いは最後まで二人とも直らなかった。
食べられる物がひとつ増えるたび、苦手な物ができる悪循環。子供の好き嫌いをなくそうというお母さんたちの策略は見事、本末転倒に終わった。
「……なんだよこれ」
「プチトマトだけど」
「見ればわかる。なんでそれを俺に差し出してんだって訊いてんだよ」
「あ、いっけね! そういえば司君ってば記憶ないんだったね! うっかりうっかり! あのね、私たちはいつもこうやってお弁当の中身を一品交換して食べてたんだ」
「……へえ」
訝しげな相槌をうちながら、ほんの少し嬉しそうな雰囲気になった司君。ははん、そうかそうか、おかず交換がそんなに嬉しいか。しかし喜んでいられるのも今だけだ。
「そういうことだから、はい」
にへにへ笑いながらプチトマトを差し出す私を疑うことなく、雛鳥のように口を開ける司君。……私の言うことを鵜呑みにするとこうなるんだぞ。
「……っ! おま、これ!」
プチトマトを噛んだ途端に歪む司君の表情。どうやら好き嫌いは忘れていても、味覚は変わっていないみたい。
「騙したなテメェ……」
「人聞き悪いわー。嘘は言ってないよ、嘘は。私たちはいつも、相手の嫌いな物を無理やり食べさせるという不毛なおかず交換をしてたんだよ、ふふ、ふはははは!」
こうもあっさり引っかかるなんてね! 笑いが止まらない。だって司君は私の嫌いな食べ物を知らないから、私の一人勝ちだ。こんなの初めて! ひゃっふう!
「……そうかよ。そういうことかよ。おまえがそのつもりなら……食らえ」
「は?――んぐ!? おえ、まず、まっずぅぅぅ!」
あろうことか、司君が私の口にグリーンピースごはんをぶっこんできやがった。なぜだ! どうして私の嫌いな食べ物がわかったんだこのひと!
慌ててお茶で流し込む私を見て、唇のはしっこをひくりと上げて嫌みったらしく笑う司君。その性格の悪そうなこと!
「……なんで私の嫌いな物がわかったの」
「勘」
「野性的だね!……司君、怒った?」
「は? なんで。マズいもん食わされてムカつきはしたが、それはお互い様だろ」
「でも私、司君が忘れてるのをいいことに、騙し討ちみたいなことしたんだよ」
「だから?」
「私だって嘘をつくこともあるかもしれないし、……司君のことで知らないこともある」
そう言うと、司君は何かに思い当たったように軽くため息をついた。
「……昨日のことか。俺があんなこと言ったから、気にしてんのかよ」
私の知らない記憶なら要らない、なんてトンデモ発言をした司君。
そんなのは違う。私には私だけの、司君には司君だけの思い出が、当然あるのだ。ぜんぶを共有してきたわけじゃない。幼なじみだからって常に一緒にいるわけじゃないし、別行動することなんてざらにあった。だから司君だけの思い出を切り捨てるようなことはしてほしくない。
それに私の言うことだけ信じるってのも問題があるし。たくさんの選択肢の中から悩んで選ぶならいいが、私以外の選択肢を切り捨てるのはいささか危険過ぎると思うのだ。
「あれは、今のところおまえ以外に信用できる人間がいないからああ言っただけだ。朝の女共は論外だし。信用できない他人から語られる真偽のわかんねぇ記憶に悩むくらいなら、思い出すまではいっそなかったと思うほうが気が楽だろ」
「へ……そうなの?」
「……俺がおまえばかり信用するのは迷惑か?」
「違う。迷惑なんて思わない。ただ、信者と教祖様みたいな関係になったら嫌だなって思っただけ」
「節が教祖? そんなアホ面で? はっ!」
「いきなりひとの顔面ディスらないでくれる?」
なんだ、そうか。じゃあやっぱりあのとき感じた不安は、とんだ杞憂だったってわけだ。いざとなったら少し距離を置くことも考えなければと思ったけど、その必要はなさそうだ。
「――節」
「ん?」
「そのうち、ちゃんとおまえ以外も視野に入れる。だから……俺から離れようなんざ考えるなよ?」
「げ、なんでわかったの」
「勘」
「もういっそ野生に帰りなよ」
このひと鋭すぎる。なんで私の嫌いな食べ物や考えてることまでバレるんだ。頭打ってシックスセンスが開花しちゃったの?
まあ騙し討ちでプチトマトを食べさせられちゃってるうっかりさんでもあるけど。私のことなんかにその立派な勘を働かせてないで、もっと身の危険を察知しなよ。宝の持ち腐れだよ。
◇◆◇
放課後、私は委員会の仕事があるので、司君には先に帰ってもらった。帰り道がちゃんとわかるかどうか心配もあったが、司君は現代っ子。スマホにナビしてもらえば大丈夫だろう。
私は美化委員だ。日々学校の美化に明け暮れている。
入る前は楽そうなイメージだったが、これがけっこう忙しくてやることも多い。……そうか、だから二年生になった最初の委員会決めで、女子たちに美化委員に推薦されてあれよあれよと言う間に決定していたのか。みんなこの忙しさを知っていたんだな。
今日の集まりでは、もうすぐやる年末の大掃除についての段取りや道具の準備についてなどを話し合った。そのあと、複数のグループに別れて校内の美化チェックを行い、点検表を委員長に提出して各自解散という流れになった。
私は花壇の手入れグループに回されたので、敷地内に複数ある花壇のうちの一カ所に来ていた。
冬は特に水やりもしないから楽だが、たまにゴミを投げ入れるような不届き者がいたり、花を踏み潰すような極悪人もいたりするので、清掃と点検が主な仕事だ。
現在の花壇には、寒さにも強い定番のパンジーやビオラ、それにカレンジュラなどが可憐に咲き誇っている。うむ、今日も美しくて何よりだ。
最初はやることも多くて怠惰な私は辟易としていたけれど、今となっては校内の美化は私の自慢だ。かと言って三年生になってもまた入ろうとかはぜんぜんまったく思わないが。もう全クラスのゴミ箱洗いなんてやりたくない。
そんなことを思いながらも私は使命を果たすべく仕事に没頭する。
点検表の項目にチェックを入れながら、ときにはゴミを拾い、ときには落とし物を拾い、ときには行き倒れを拾い……、ん? 行き倒れ?
「えええ! ひと!?」
花壇のそばに男がひとり倒れていた。
「救急車かな!? それとも先生に報告するのが先!?」
いや違うとにかく彼の状態を確認するのが先決だ。まさかの寝てるだけかも知れないし。落ち着け私。
「あの、大丈夫ですかー? 意識ありますかー?」
そばに膝をついて、なんだかどこかで見たことある気がするそのひとに声をかける。意識がないようなら走って先生に知らせてこよう。
「ん……」
すると、すぐに男は軽く呻きながら意識を取り戻した。よかった、死んでなかった。本当によかった。
ほっと安堵のため息をつき、改めてそのひとの顔をよく見て、驚愕した。
清潔そうな黒髪七三、切れ長の硬質な印象の鋭い瞳に、黒のアンダーリム眼鏡。怜悧な雰囲気の、端正な顔立ちをしている。真面目そうで厳しそうで冷たそうな。品行方正、質実剛健、四角四面、などの堅苦しい四字熟語が似合いそうなこのひとは、この学校に通う生徒ならたぶんほとんど皆が知っている。
このひと生徒会長だ。先月の生徒会選挙で就任したばかりの。
噂では、彼は教師からの推薦枠ながら、他の自薦立候補者とはぶっちぎりの票差で当選したらしい。私もこのひとに投票した。どうりで見覚えがあるはずだ。
「会長さん、大丈夫ですか?」
「は……? 君は誰だ? それに俺は一体どうしてこんな所に……」
私は戦慄した。つい数日前にもこんなやりとりを幼なじみとしたぞ。
「ままままさか、あなた、自分の名前もわからないとか言い出しませんよね?」
「何を言っている。俺は一色柊生だ」
「あ、ですよね。よかった」
記憶なんてそうそうなくなるもんじゃないよね。司君のは打ちどころが相当悪かったのだろう。
「それにしても、会長さんはなんでこんな真冬にこんなところで寝てたんですか? やんちゃも大概にしないと風邪ひきますよ」
「いや、寝ていたわけではない」
「じゃあ何してたんですか? 死んだふりの練習ですか? 趣味ですか?」
「いや、そんな練習もしていないし、趣味でもない」
「じゃあ……地面が恋しくて、つい?」
「いや、俺にそんな特殊な性癖はない」
生真面目な態度で全否定された。それではどうしてこんな寒空の下で転がっていたのだろう。
会長は鋭い瞳を閉じて考え込みだした。彫像のように端正な横顔だこと。
「先程は確か……、ああそうだ、女子生徒に呼び出されてここに来たんだ」
「ほう。それで?」
「ああ、それで、付き合ってくれと言われた」
「ほほう! それでそれで!?」
面白そうな話に私は食いついた。まさかこんなところで堅物そうな会長の恋バナが聞けるなんて! ときめかずにはいられない。今月はクリスマスがあるので、校内ではあちこち告白ラッシュが起きているようだ。
「それで、どこに付き合ってほしいのかは聞いていないが、今日はまだ生徒会の仕事もあるからと断ったんだ」
「…………」
「初対面の見知らぬ人間の用事に付き合うほど、俺も暇ではないからな」
「…………」
「だから無理だと断ったら、突然泣きながら逆上した女子生徒に突き飛ばされ、倒れたところに運悪くこの花壇があって、このブロックで頭を打って気絶したようだ」
「…………」
女子に突き飛ばされたくらいで倒れるなよとか、そもそもそんな漫画のような勘違いするなよとか、頭脳明晰な顔してどんだけ鈍感だよとか。言いたいことは色々ある。が、しかしそれはあとでいい。
「……会長、頭を打ったのなら、とりあえず病院に行ったほうがいいです」
いまだに地べたに座っていた会長に手を貸して、花壇の淵に座らせた。
失礼して頭に手を伸ばす。そっと撫でるように触れていくと、後頭部にたんこぶ発見。結構な大きさだ。出血はしていないみたいなので、外傷はないだろう。
そんな確認をしていると、会長が驚いた様子で私を凝視していた。
「ああ、すみません、痛かったですか?」
すぐに手を離して訊くと、会長はハッとして首を振った。
「い、や……、そうではない」
「吐き気とかはありませんか? 自分で立って歩けそうですか? 無理そうなら私、先生呼んできますけど」
「ない。歩ける。大丈夫」
「なぜカタコト。とりあえず、保健室行きましょうか。たぶんまだ開いてるはずだし。たんこぶ冷やさないと」
「心配には及ばない。多少の痛みはあるが、意識もしっかりしているし体調にも変化はないからな。放っておけばこぶもそのうち治るだろう」
「おいおい、頭の怪我を甘く見ちゃあいけやせんぜ、旦那。とっとと行きますよ」
「旦那……?」
怪訝な表情をしている会長を立ち上がらせ、保健室に強制連行する。
今日話してみるまでは硬質で冷たい雰囲気で、近寄り難いイメージがあった会長だが、ただの鈍感だと知った今、恐れるものは何もない。
「どこへ行く」
「保健室です。そこで養護教諭たる先生に判断を仰ぎましょう」
「……君は大袈裟だ。俺が大丈夫だと言っているのに」
「大袈裟なんかじゃありません。……私の幼なじみは、頭を打ってそのまま……、そのまま、ひっ、ひっく、ひぃっく……っ」
くそう、話してる途中でくしゃみが出そうになったが、なかなか出ない。景気よく一発派手なのかましたいのに! これじゃすっきりしない。こよりでも鼻につっこみたい気分だ。ううムズムズするう!
私がひくひく鼻をむずがらせていると、なぜだか会長が挙動不審に慌てだした。
「す、すまない! 俺はどうやら無神経なことを言ったようだ。嫌なことを思い出させてしまい、本当にすまない」
「へ?」
なんの話? 驚いて完全にくしゃみが止まってしまったじゃないか。
「俺が保健室に行くことで君が安心すると言うなら、きちんと行く。だから泣かないでくれ。どうしたらいいかわからなくなる……」
「いえ泣いてませんけど」
むしろそんな勘違いに私のほうがどうしたらいいかわかりませんけど。
なぜ私が泣いてるなんて思ったんだろう。……あ。私が変なところで会話を止めたからか? しかも出そうで出ないくしゃみにひくひく言ってたし。
確かにあの感じだと幼なじみをなくして泣いてるように見えなくもない……か? すみません、司君は生きてます。記憶はないけどとても元気です。
「あ、あの、今の一瞬で何かとんでもない誤解が生まれたみたいですが、私の幼なじみは死んでませんからね?」
「……そうか。そうだな。君がそうやって想っている限り、その方は君の中で生き続けていける。そういうことだな」
「イイハナシダナー……じゃなくて、違いますから」
感情の表れが薄い鋭利な瞳を微かにやわらげ、不器用に微笑む会長はイケメンだ。しかしその誤解はいただけない。
何度否定しても、結局誤解は解けないまま、会長とは保健室で別れた。あとは養護教諭が適切な処置をしてくれるだろう。本当に大したことないといいけど。
誤解は解けなかったけど、まあそんなに気にすることもないか。会長との接点などないし、これからも特に関わるつもりもない。よし、このことは忘れよう。どうせ会長もすぐ忘れるだろう。
そうして私は、美化委員長に点検表を提出してその日は帰宅した。