3 私は猫派
◇◆◇
「き、桐原君っ、私のこと覚えてる!? 私と桐原君って、けっこう喋ったりして仲良かったんだよ!」
「はあ!? ちょっと何アンタ大嘘ついてんのよ! いっつもシカトされてたくせに。それより桐原君! わかんないこととかあったらあたしになんでも言ってよ。いつもみたいにあたしが教えてあげるからさ!」
「ねえ桐原センパイっ。今日ふたりで思い出の場所に行きませんか? そしたら私のこと思い出すかもっ」
ホームルーム前の朝の爽やかな教室の中、司君の周りには人だかりができている。先輩後輩入り乱れの大繁盛だ。
離れた席からそれを眺めながら、私は女子たちの強かすぎる狩人根性に恐れおののいていた。あれは確実にハンターの目だ。
今日、記憶をなくしてから初めて登校した司君に待っていたのは、獲物を狙う大勢の女子たちだった。
休んでいたときの司君の状況は、すでに先生から伝えられて知っていた女子たちは、このときを今か今かと待ち焦がれていたようだ。
司君の周りに群がっている女子たちの中に、ちゃんと司君と話したことのある子なんか一人もいない。断言できる。
これからはどうなるかはわからないが、これまでの私と司君は、お互いの人間関係はほぼ網羅していたから。というのも、私も司君もあまり交友関係の広くないぼっち気質だからなんだけど。
私は司君と幼なじみというだけで女子からは嫉妬の対象にされて嫌われていたし、司君は俺様のくせに警戒心が強くて人見知りで根暗だから、友達と呼べる人間なんて数えるほどもいない。
しかも司君はあんな性格でも身内には甘いので、身内認定されている私を敵視する女子はみんな、司君の敵でもあった。だから司君はいまだに彼女のひとりも出来たことがない。まあ私も人のこと言えない寂しい青春を送っているけど。
「うっわ、こえーな、女の子って。いいの? 敷村さん。敷村さんの『つっくん』が盗られちゃいそうだけど」
私と同じようにあの光景を見て顔をひきつらせて怯えていた隣の席の男子が、私にそんなことを言ってきた。
「べつに私のじゃないからね」
「冷めてるなぁ。少しくらいは焦ったりとかしない? 記憶がないのをいいことに、女子たちが桐原に何を吹き込むかわかったもんじゃないのに」
呆れたように言う男子は佐伯君という。隣の席なのでわりとよく話す。
うちのクラスは司君人気がすごいせいで、他の男子たちは女子から十把一絡げで蔑ろにされがちだ。だからか、幼なじみという立場のせいで女子たちからの嫉妬を一身に受けてぼっち化している私に、男子はわりと同情的で、たまに話しかけてくれたりする。
佐伯君もその一人だ。
サッカー部のエースだなんて輝かしい称号を持ってるのに、このクラスでは平凡扱い。可哀想に。
真の平凡たる私から言わせれば、佐伯君だって顔も爽やか系で整ってるし、司君とは違って性格も良くて私のようなぼっち女子にも優しいイケメンなのに。クラスが違えば佐伯君だって女子にもてはやされていたはずだ。ああなんて嘆かわしい。
「え、ちょっと敷村さん? 俺の話きいてる? なんでそんな同情的な、まるで捨て犬でも見るような目で俺を見てんの」
「世知辛い世の中だよね……。強く生きて、佐伯君。辛いときはほら、ボールという親友を蹴り飛ばして憂さを晴らせばいいんだし」
「なんの話? 敷村さんってわりと人の話きかないよな。それに俺、サッカー好きだけどべつにボールは友達とか言わないから」
そう言って苦笑する佐伯君はやっぱりいいひとだ。なのにクラスの女子たちときたら……。
彼女たちは司君にいまだ群がっていて、虚言、妄想、願望をこれでもかとまくしたて、司君のなくした記憶に土足で無理やり入り込もうとしている。
好きなひとに意識してもらいたいという乙女心なのだろうが、この状況をチャンスと捉える浅ましさは理解したくない。
自分の名前も親の顔も忘れて、名前の呼び方なんかのちょっとしたことで取り乱していた司君。そんな不安定な精神状態の彼に、嘘をつくのはだめだ。例え悪気のない純粋な恋心ゆえの暴走だとしても。
ていうか司君がやばい。そろそろ止めるべきだろうか。
「……やっぱり気になるんだ?」
私の視線の先をたどった佐伯君が、どこか探るような声で言った。私はため息をついた。
「そりゃ気になるよ。そろそろやばいし……」
「何が?」
「そうだ、佐伯君、ちょっと君あの集団に突撃してみる気はない?」
「あるわけない! 群れてる女子ってマジこえーんだから」
「でもほら見て。司君の顔がやばい。犯罪者の目になってる」
「そうか? いつもと同じに見えるけど……。ていうか、そんなに言うなら敷村さんが止めてくれば?」
「何言ってんの佐伯君。群れてる女子ほど怖いものはないんだよ。集団という鎧を着込んで攻めてくる彼女たちの戦闘力は計り知れないんだから。ぼっち系女子のこの私に太刀打ちできるとでも?」
「……敷村さん、女友達いないもんな」
「いるよ! 中学時代の友達とか! いるからね!?」
だからそんな憐れみのこもった視線を向けるのはやめてくれ。
なんて佐伯君と話していると、ガタンっと大きな音がした。
途端にクラスが静まり返った。誰もが息をのんで固まっている。
そんな中、音の元凶――机を思い切り蹴り上げて立ち上がった司君が、つかつかと私のもとに歩いてきた。
殺伐とした尖った空気。何も映してないような温度のない瞳。ああ、やっぱり。
司君がキレた。
「節」
私のそばに来た司君は、私の隣の席の佐伯君に一瞬だけ視線を流した。
しかしすぐに私を見ると、地を這いずりまわるような低い声で私の名前を呼んだ。まるで恫喝されている気分だ。不機嫌な司君はそこらの不良も裸足で逃げ出すくらいおっそろしい。泣く子も黙って気絶するねこれ。
なぜか周囲が固唾をのんでガン見してくるという衆人環視の中、怒れる獰猛な獣のように、激しくも静かな瞳で私を見下ろす司君。
「どうしたの?」
私はできるだけ刺激しないようにその瞳をじっと見返した。こういうときに目をそらしたりするとさらに怒るのが司君だ。
「あいつらの言ってたことは合ってんのか」
「え?」
「答えろ、節。俺にまとわりついてきた奴らが言ってたことの中に、事実はあるのか? どれが嘘で、どれが本当か、俺にはわかんねぇ。だから節、教えろ」
怒りの中にちらりと見える不安の色。
私は、さっきすぐに女子の群れから連れ出さなかったことを少し後悔した。
「――司君。とりあえず、ここ出よう」
立ち上がって司君の腕をひく。何も言わずに大人しくついてくる司君がなんだか悲しかった。
ホームルームはサボることになるが、仕方ない。今は司君のほうが大事だ。
「ちょっと敷村! 桐原君どこ連れてくつもり!? そうやって誰もいないとこで嘘でも吹き込もうとしてるんでしょ!?」
「どうせテキトーな嘘言ってあたしたちを悪者扱いする気じゃん? 桐原君、そいつの言うこと信じちゃダメだよ!」
「そうそう。敷村さんってぇ、たまたま幼なじみだったからって調子のっていつも桐原君にべったりまとわりついて、桐原君だってずっと迷惑してたんだよぉ」
焦ったように女子たちが引き留めてくる。司君が足を止めた。腕を引いてた私も一緒に止まる。
「……いいのかよ」
「え、サボるのやだった? 何ひとりだけ真面目子ぶりっこしようとしてるの。私が悪い子みたいじゃん。やめてよ、そういうのよくないよ」
昨日だって保護者公認のもと一緒にサボった仲なのに、ここにきてまさかの裏切りか。よくないね、実によくない。
「ちげぇよ。あんなん言われて、おまえは言い返さねぇのかって訊いてんだよ」
「ああそっちか。べつにどうでもいいよ」
なんて平気な顔をして言ってみるが、本当はただ怖いだけなんだよ察して司君。あんなギラギラした喧嘩上等な目してる女子たちと戦えるわけない。
それに、彼女たちの価値のない言葉を、いつまでも司君に聞かせていたくないというのもある。
とにかくこの見せ物状態から逃れるため、私は司君を連れてさっさと教室を出た。
◇◆◇
どこに行こうか迷って、結局、保健室に行き着いた。
養護教諭に事情を簡単に説明すると、保健室の奥のカウンセリング室を開放してくれた。司君の記憶喪失のことは先生も知っていて、授業よりも司君の心のケアを優先することを許してくれた。
この先生は穏やかで優しくて生徒想いのいい先生なので、生徒たちから慕われている。おばちゃん先生なんて呼ぶけしからん男子生徒もいるが、それすら笑って受け入れる寛大な心の持ち主だ。
二人がけのソファがテーブルを挟んで2つあるその部屋で、なぜか私たちは並んで座っている。先生が「みんなには内緒ね」と菩薩のような笑みを浮かべながらくれたみかんを食べながら。
ちなみに部屋には私たち2人しかいない。先生も最初は一緒に話を聞いてくれようとしたけど、司君が追い出してしまった。すまん、先生。
「――さっきの話だけどね」
「ああ」
「あの人たちの言葉のなかに、本当のことはいっこもなかったよ」
「……だろうな」
そこで、ようやく安心したように司君が息をついた。
他人の口から語られる自分の過去。その中のどれが本当でどれが嘘か。それを判断することさえできない今の司君。
その話が信じられないと思っても、司君は自分では真偽がわからない。だから私なんかにいちいち確認して、こうして肯定なり否定なりしてもらわないと、安心もできない。
悲しいなぁと思う。
「……まあ私の知る限りでは、だけど。私の知らないとこで彼女たちたの言ってたようなことが本当にあったかも知れない。私だって君のことを逐一ぜんぶ把握してるわけじゃないから。だから私の言葉を鵜呑みにはしないでね」
「要らねぇよ」
え、何が? みかんが? 私が皮を向いたみかんを強奪して食べてるくせに何を今更……。
「おまえが知らないことなら、俺にとっても要らない記憶だ」
「それは――」
私は言葉に詰まった。
ちょっと、これは……、なんか危うくないか?
そういえば昨日から司君、何かにつけて私に「合ってるか?」と訊いていた。何かを言うたびに、するたびに、まるで答え合わせをするように。
私はもちろん嘘なんか絶対につくつもりはないし、訊かれたら答える。でも、それで私の言葉だけしか信じないというのは、とても不健全じゃなかろうか。しかも私と共有している記憶以外は要らないとかとんでもないこと言い出したし。どんな超理論だよ。
朝いちからの女子たちからの猛攻撃にまいってしまってるのかな。
登校した途端に周りに群がられて、瞬時に警戒態勢に入ってたもんな。顔も強張っていたし。やっぱり怖かったのかな。警戒心の強い猫のような気質をもつ司君にあの状況はきつかったよね。
私は隣にある司君の頭をポンポンと軽く撫でてやった。怯える動物には優しく接しないと。私は猫派だ。
「……大丈夫だよ、司君」
大丈夫、大丈夫。今はまだ気持ちも不安定で、一番近くにいる私に縋りたくなっているだけ。もう少し落ち着けば、あんな排他的なことなど言わなくなるだろう。
「ああ、大丈夫だ、俺は。――おまえさえいれば」
独り言のように呟いたその言葉はよく聞こえなかったが、本人も大丈夫だと言ってるから大丈夫だろう。無駄な心配だったかな。
そう自分に言い聞かせる一方、胸の内にひそりと生まれた懸念は消えることはなかった。
しかしそのあと、みかんの汁がついたままの手で司君の頭を撫でたのがバレて、怖い顔でしこたま怒られたことですっかり吹き飛んだ。