2 記憶のはじまり
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ズキズキと痛む頭を押さえて起きると、目の前に知らない女がいた。
それが今の俺の、記憶のはじまり。
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華奢な肩にかかるくらいのさらさらの黒髪。くっきり二重なのにどこかやる気のなさそうな瞳に、感情の起伏がわかりづらい直線の眉。高くもなく低くもない小さな鼻と、やわらかそうな桜色の唇。そんなパーツが小さな顔の中にバランス良く配置されている。
人目を惹くような美人ではないが、すっきりと整っている顔立ちは悪くない。
じっくり眺めてみたものの、それが誰だか俺にはわからなかった。
焦ったような不安そうな顔で俺の顔をのぞき込んでいる女。べつにそんな顔をしなくてもいい、俺は大丈夫だから、と伝えようとそいつの名前を呼ぼうとしたら、記憶の中にそいつの存在も名前もなかったのだ。
そんな事実になんだか無性に腹が立って、俺は苛々しながらそいつに「誰だ」と訊いた。
するとその女は呆然として、青ざめた顔で言葉を失ったように固まってしまった。ただでさえ肌が白いのに、血色をなくして放心しているその姿は、今にも倒れてしまうんじゃないかと思うくらい危うげだった。そしてほんの一瞬だが、傷ついたように瞳が揺らいだ。
その視線にさらされて、なぜか胸のあたりがギリギリと疼くように痛んだ。
そいつの名前を知らないことが、呼べないことが、とんでもなく罪深いことのように思えて。心臓が嫌な音を立てて騒ぎ出した。わけもわからず焦燥感にかられる。
しかしそんな俺のことなど構わず、女はすぐに気を取り直すと、スマホでタクシーを呼び出した。
そんなことはどうでもいいから俺は早くそいつの名前が知りたかった。知らなければいけないと強く思った。なのにそいつは答えない。むしろ俺に自分の名前はわかるか? と、間抜けな質問をしやがった。何を馬鹿なことをと思って答えようとしたら、答えられなかった。
そいつの名前どころか、俺は自分の名前さえわからなかったのだ。
それから女が呼び出したタクシーで、俺の母だと名乗った人と共に病院に向かった。
目覚めたとき一緒にいた女の話によれば、俺は自宅の階段から落ちて頭を打ったらしい。
タクシーの後部座席で、俺はその女と並んで座っていた。いまだ名前はわからない。助手席で思い詰めたような顔で押し黙っている母だという人の手前、もう平常心を取り戻している立ち直りの早い隣の女のことばかり気にするのは、なんだか悪い気がして口を噤んでいた。
隣の女を黙ってじっと見つめると、そいつは俺が不安がっていると思ったのか、いきなり俺の手を掴んで握り「大丈夫だよ」となぜか得意げにニヤリと笑ってみせた。なんだその顔は。意味がわからない。自分の名前も親の顔もわからないこの現状で、何をもってして大丈夫だと言ってるんだか。
無責任な発言に苛立ちはしたものの、そのほっそりとしたやわらかな手は存外心地の良いものだったから、振り払いはしなかった。
なんとなく、繋がれた手に少しだけ力を込めてみる。
すると、お返しだと言わんばかりにそいつも負けじとぎゅうぎゅう力をこめてきた。歯を食いしばるほどの全力で力を込めてくる意味はわからないが、全然痛くなかった。なんて非力な女だろうか。
勝負を仕掛けているような顔でそいつが悪戯っぽく笑うから、俺はもう少しだけ強く握った。そいつはすぐに涙目になって降参した。馬鹿だ。こんな細い腕で、なんで一瞬でも男の俺に勝てると思ったのだろう。はなはだ疑問だ。
こんな状況だというのに、俺の心はなぜか凪いでいた。
混乱はあるし、不安も当然ある。だが、取り乱すことはない。どこか冷静な頭で、これは俗に言う記憶喪失なんだろうと考えていた。隣の女が不安そうだったり傷ついた顔を見せたりしていたさっきまでのほうが、よほど焦っていた。
なのに今は落ち着いている。隣にいる女が俺の手を握り、根拠もなく「大丈夫だ」とアホ面で笑うから。俺までなんだか大丈夫な気がしてしまっていたのだ。
病院に着いて診察や検査などを受けて、とりあえず入院ということになった。そんな風に色々とごたごたしているうちに、いつの間にかあの女の姿が見えなくなっていた。
どくりと心臓が嫌な音を立てた。急に世界に独りきりで放り出されたような気がして、足元が不安定に揺らいだ。
母だという人にさっきの女の行方を尋ねたら、困ったような顔で「今日はもう帰ったけど、すぐに会いにきてくれるわよ」と言われた。
俺はその言葉を信じ、あいつから会いに来るのを待つことにした。
その日は父と兄だという人たちにも会ったが、何も思い出すことはなかった。むしろ知らない他人に囲まれて、心配げな、あるいは悲しげな視線にさらされて、とても居心地が悪かっただけだった。
明日になればあいつに会えるだろう。そうしたらまず名前を訊こう。
俺の母だという人ともあいつは親しげだったから、あいつがいれば、他人としか思えない『家族』との気まずい空間もなんとかなるだろう。
『家族』の不安そうな顔を見ていると、心がざわめいて落ち着かない。思い出せない罪悪感で押しつ潰されそうになる。
俺はたくさんのことを忘れているんだろうが、俺自身は何も変わったつもりなどないのだ。だからそんな、悲しそうな、不安そうな、急かすような目で見ないでほしい。
『家族』たちは、しきりに俺の知らない俺自身のことや家族たち自身のことを話し、俺の知らない思い出話をたくさん語った。そんな話をされても、俺には何もわからなかった。『家族』の期待するような反応を返せないでいると、また悲しそうな顔をされた。「ゆっくり思い出せばいいからね」という言葉にひどいプレッシャーを感じて、その緊張感から吐きそうになった。
あいつだけだった。記憶のない俺に笑いかけたのは。「思い出せ」じゃなくて、「大丈夫だ」と言ってくれたのは。
早くあいつに会いたい。あのやる気のない瞳に映してほしい。『家族』はみんな、俺を見ていてもその視線は俺を通して記憶の中の俺を見ているようで、居心地が悪い。あいつは違った。あいつは俺自身をまっすぐ見ていた。
だから早く、あいつに会いたい。
しかし次の日も、その次の日も、あいつは姿を見せなかった。
◇◆◇
『家族』との距離感も掴めないまま、俺は退院して『家』に行くことになった。
この病院には確かに『家』から来たのだが、帰るという実感はわかない。まだ病院にいたほうが気が楽だったくらいだ。
きっと『家』にはそれこそ数え切れないほどの思い出が詰まっているのだろう。それらに触れて記憶が少しでも戻ってくれるならいいが、もしも何も感じることができなかったらと考えると、不安で仕方ない。その時の『家族』の反応を想像するだけで気分が滅入る。
『家』の中を一通り案内され、俺の部屋だという場所にも通されたが、やはり何も思い出すことはできなかった。
自分の部屋をなんの感慨もなく眺めながら立ち尽くす。
そんな俺を見て『家族』が気を遣ってか、リビングでみんなでゆっくり話そうと提案してきたが、少し一人になりたいと言って部屋から出てもらった。
改めて部屋を見回してみる。が、本当に何も思い出せない。
ベッドも机もテーブルも見覚えがない。しかしクローゼットの中の服は好みのものだったし、本棚に並ぶ本には興味が持てた。無駄な装飾品はなく、モノトーンでまとめられている室内はいたってシンプルで居心地がいい。
だから恐らく、記憶がないとは言え、趣味嗜好が変わったわけではないのだろう。
なのに、なぜか所々に俺の趣味ではなさそうな物が転がっているのが不思議だった。
マイクロビーズの詰まったパステルグリーンの大きなクッション。
机の上のペン立ての中で異様な存在感を放っている変なキャラクターがついたペン。
テレビの横にぽつんと佇む不気味なマトリョーシカ。
マガジンラックに紛れ込んでいる猫専門の雑誌やクロスワードの懸賞雑誌。
机の横に無造作に置かれた箱には、ジェンガやけん玉やオセロやチェスなどが乱雑に詰め込まれている。
それらはあまりにもこの部屋の雰囲気にも俺の趣味にも合っておらず、自分の物だとは到底思えなかった。もし自分の物だったとしたら、記憶をなくす前の自分の趣味を本気で疑う。
しかし、雰囲気には合っていないが妙に馴染んではいる。変な感じだ。
変なキャラクターのついたペンを手持ち無沙汰に弄びながら、ふとあの女のことを思いだす。
今日こそは、会いに来るだろうか。
初めて会ったのはこの家だった。病院にはついぞ姿を見せることはなかったあの女も、家にだったら来るかも知れない。なんせ四日前には確かにこの家に一緒にいたのだ。
俺とどんな関係だったかは知らないが、家に来ていたくらいだから親しい間柄だろうと予想している。友人か、彼女か、もしくは親戚か。とりあえずどんな関係でもいいからとっとと会いに来いと言いたい。
しかし結局、その日もあの女が会いに来ることはなかった。
翌日、学校を休むように言われた俺は、朝から部屋に引きこもっていた。正確には昨日からだが。
『家族』は俺が心を許さないからか、どこかよそよそしく昔の話ばかりする。実感の持てない『家族』から語られる過去の話は、まるで他人ごとのようで何も心に残らなかった。一方的に話してくれるのを、俺はほとんど喋ることなくただ静かに聞いていた。
そんな俺を見て悲しそうにため息をつく『家族』の顔を見るのが憂鬱で、唯一自分の居場所だと思えた自室にいる時間が一番落ち着けた。
しかしその日は朝から来客があり、『母』がその対応をしている間に電話が鳴り、自室から出ざるを得なくなった。『父』はすでに仕事に行ったし、『兄』は朝食のあと二度寝すると言って部屋に行ったので寝ているのだろう。
この家の電話に今の俺が出てもいいのかわからないので、来客の相手をしている『母』に伝えに行った。
そこで、あの女を見つけた。
ぶわっと一気に込み上げてきた感情を、一体なんと呼ぶのか。
焦燥、歓喜、苛立ち、安堵、そういったものがごちゃ混ぜになって飽和状態になり、溢れ出るままに俺はその女にぶつけていた。
なぜこんなにも、こいつにだけ心が揺さぶられるのだろう。どれだけ記憶の中を探ってみてもこの女の存在なんてないのに。
冷めた視線で「うざい」と言われたとき、心が冷えて恐怖にとりつかれた。こいつに拒絶されたら俺は自分が保てなくなりそうで怖かった。
軽口をかわしたとき、俺は記憶をなくしてから初めて笑うことができた。もっとたくさん話していたいと思った。
ようやく名前を聞けたとき、そいつの名前を呼べることがただ嬉しかった。名前を呼んで、名前を呼ばれる、それだけで不安定だった自己が確立していくような気がした。
そして、同じ日に同じ病院で生まれ、家まで隣同士だという嘘みたいに縁の深い幼なじみだと知ったとき、俺はひどく安堵した。
俺と同じ時間をずっと一緒に生きてきたというこいつがいれば、記憶がなくたって俺は『大丈夫』だと思えた。
きっとこいつもあのとき、あのタクシーの中で俺に笑って『大丈夫だよ』と言ったとき、こんな気持ちだったのだろう。わからないことだらけの中、それだけはなぜか確信が持てた。
だからそいつ――節が、俺の『母』を母だと肯定して、『父』も『兄』も間違いなく俺の家族だと、この家が俺の居場所だと保証したとき、俺は家族とこの家をようやく受け入れることができた。記憶をなくしてから初めて母親を「母さん」と呼べた。そのときの母の嬉しそうに笑った顔を、俺はたぶんもう二度と忘れない。悲しげな、不安げな顔を見るのが嫌だとずっと思っていたが、そうさせていたのは俺だった。
呼び方ひとつでそんなに喜んでもらえるなら、記憶をなくす前のように俺が振る舞うことができれば、節も、家族も、もっと喜ぶのだろうか。
そんな短慮で浅はかな考えは、節に『つっくん』と呼ばれた瞬間に一気に吹っ飛んだ。
嫌だと思った。そう呼ばれた瞬間、節の視線も言葉も、俺自身を素通りしていくようで。節にそう呼ばれると、自分が消えてしまいそうな錯覚に陥った。
記憶の海の底深く、沈んでさまよっている『つっくん』だった頃の自分が、節に必死に手を伸ばす。節は『俺』に「大丈夫だよ」と言ったときと同じ笑顔で、あの非力な細い腕で『つっくん』の手を握り、その暗くて冷たい場所から優しく掬いだす。この暖かい場所へ。
そうして代わりに今度は『俺』が、その深淵へと沈むのだ。
そんな想像をして、血が凍りついたようにぞっとした。
記憶が戻ることを家族も節も望んでいる。もちろん俺だって、むしろ俺が一番それを望んでいる。けれど。……けれど、記憶が戻ったとき、『俺』はどうなるのだろう。
『俺』のまま『つっくん』の記憶が戻るのならいい。怖いのは、『俺』が完全に『つっくん』の記憶を忘れてしまったように、記憶が戻った『つっくん』が『俺』を忘れ去ってしまうことだ。今の『俺』が消えたところで、『つっくん』を求めたようには誰も『俺』の記憶が戻ることなんか求めないだろう。
そんなことを考えて嫌な焦燥に駆られて怒鳴る俺を、「ほらやっぱり拗ねた」という一言で節は片付けた。ちょっと納得がいかない。一緒に深みにはまれとは言わないが、そんなあっさりと流すな馬鹿。俺がマジで拗ねているだけみたいじゃないか。
節と話してると、深く考えて色々と不安になっている自分が馬鹿らしく思える。その不安に突き落としたのも節のくせに。
なぜ俺はこんなにも、こいつの言動に一喜一憂しているんだか。
根暗だのネガティブだの俺様だのと言っている節の頭を軽く叩いてやった。触れた節の髪が思った以上にさらさらで離れがたく、なんとなく指先に絡めたりしてその感触を楽しんだ。
そうしながら、ふと前の俺はこいつのことをなんて呼んでいたのだろうかと気になった。また性懲りもなく。
『つっくん』を節に求められるのは嫌なのに、結局は俺が一番気にしているのだ。当たり前だ。自分のことなんだから。
そうして知った過去の俺の所業に、俺は撃沈した。
高校生にもなって『つっくん』と『せっちゃん』と呼び合っていただなんて。節はまだいい。可愛げがあるから。だが俺はどうした。気でも狂ってたのか。例えガキの頃にそう呼んでいたとしても、変えるタイミングなどいくらでもあっただろが。なぜあえて『せっちゃん』を貫き通した。性に合ってないだろ、どう考えても。
なのにそう呼んでいたということは、ただの惰性か。それとも俺なりにそうする意味があったのか……。などと考えて、頭を抱える羽目になった。聞かなきゃよかった。




