1 幼なじみですよ
◇◆◇
「……あんた、誰だ?」
十六年前に同じ病院で同じ日に生まれ、何の偶然か家までお隣同士で、それまで家族のように当たり前に一緒に育ってきた幼なじみが、私を見て訝しむように言った。
そんな幼なじみに、私はしばし放心したように固まった。が、すぐにそんな場合じゃないことに気づき、上着のポケットからスマホを取り出して素早く番号を呼び出した。
「大至急タクシーを一台お願いします。はい、大至急です。住所は――」
通話を終えて、未だ不信そうに私を見ている幼なじみに改めて向き直る。
「おい、質問に答えろよ。あんた誰だ」
幼なじみの苛立ったような低い声にめまいがする。
前髪は目にかかるくらい、後ろはうなじを隠すくらいの少し長めの黒髪に、二重で黒目も大きい綺麗な瞳なのに、目つきの悪さがそれを台無しにしている切れ長の目元、通った鼻筋に酷薄そうな印象の薄い唇。いつも真一文字に引き結ばれているあの口角は、下がることはあれど上がることは滅多にない。余計な肉などないシャープな輪郭。左目の眦には色気のある泣きボクロ。
まじまじとその顔を見るが、この見慣れたイケメンはどこからどう見ても私の幼なじみだ。なのにこいつはいきなりどうした。
「質問に答えろ」
「うん。その前に君、自分の名前わかる?」
「は? 何をわけわかんねーことを……。俺は──、ああ? 俺は……おい、ちょっと待て、俺は……俺は誰だ? つーかここはどこだ? 何してたんだ、俺……?」
「うん。やっぱりね。そうだよね。そんな感じだよね。信じられないけど。うん。ちょっとここで待ってて。なるべく動かないで。特に頭とか揺らさないように気をつけて。いい? じっとしててね」
口早にそう言い聞かせ、私は素早く立ち上がり、幼なじみ宅の廊下をリビング目がかけて爆走した。
やばい。これはかなりやばい。私ではとても太刀打ちできないような、のっぴきならない深刻な事態だ!
すぐに辿り着いたリビングのドアを壊れそうな勢いで開け、そこでせんべいをボリボリと貪り食べていた迫力美人に向かって私は叫んだ。
「おおおばおばおばさぁぁぁんっ、つっくんが階段から足滑らせて落ちた挙げ句、頭打って記憶がうっかり迷子の旅にぃぃぃ!」
幼なじみの前では取り繕っていた冷静さはどこへやら、顔面蒼白になりながら私は半ば錯乱状態の涙目で叫んだのだった。
◇◆◇
それから三日間、幼なじみは検査のために入院した。
検査の結果、告げられたのは『全生活史健忘』という、いわゆる記憶喪失というものだったらしい。
物の名前や使い方、常識や言語や学力などの日常生活に必要なスキルや、社会的な記憶は覚えているけど、自分のことも家族のことも、これまでの生活史も丸ごと忘れている状態のことだそうだ。多くは精神疾患や過度なストレスからの自己防衛として発症するらしいが、まれに頭部外傷による発症もあるという。
幼なじみはその非常にまれなケースだ。
私は医者から直接聞いたわけではなく、幼なじみのお母さんからの又聞きの説明しか受けていないので、その病気(?)について詳しくはわからない。インターネットで調べてもみたが、専門的なことは難しくて理解できなかった。
幼なじみは昨日退院したらしいが、昨日はさすがに学校は休んで家でゆっくりしていたみたいだ。住所すら覚えていないのだから、自分の家に慣れるのも一苦労だろう。
現在の彼の混乱は計り知れない。
ちなみにあれから私はまだ一度も幼なじみとは会っていない。
幼なじみの家族からは「どうか会ってやってほしい。節ちゃんに会えば何か思い出すかも」と悲痛な顔で頼まれたが、さすがに遠慮した。
幼なじみは今、自分自身や家族のことを理解するので精一杯なはずだ。そんなところにまた新たな登場人物、『隣の家の幼なじみ』が現れたって混乱するだけだろう。
そして幼なじみの記憶が家出してから五日目の今日。
高校の制服に身を包み、12月の寒さに備えてマフラーと手袋を装備した私は、朝っぱらから幼なじみの家の前に立っている。
白い息を吐き出しつつ、『桐原』という表札の下に設置されているインターホンを押した。
『はい』
「あ、おばさんおはよう」
『節ちゃん!? ちょっと待ってて、今開けるから!』
「え、いや今日はつっくん学校に――」
行くのかどうか聞きたかっただけだからべつに開けてくれなくても、と言おうとしたが、それよりも早く扉が開き、あれよあれよと言う間に玄関に引っ張り込まれた。
「おはよう節ちゃん! やっと司に会いに来てくれたのね」
幼なじみの顔を女性的にして愛想を良くしたらこうなるんだろう。幼なじみのお母さんはさすがイケメンをこの世に産み落としただけあってかなりの美人だ。
そんな彼女に、いつもの迫力はない。美しい笑顔に少しの翳りとやつれが見える。息子の一大事にさすがにまいってしまっているんだろう。当然か。ちなみに司というのは幼なじみの名前だ。
「会いに来たっていうか、今日はつっくん学校どうすんのかなって聞きにきたんだよ。通学路とかもわかんないだろうから、行くならいつもみたいに一緒に行こうと思ったんだけど」
「そうなの……。ごめんね、今日も休ませるわ。あの子もまだ混乱してて精神的にも不安定で……、私たちのことですら警戒してるのよ。だから学校に行って大勢の人に会えるような状態じゃないの……」
「……そっか」
私が頷くと、おばさんは気分を変えるように明るく笑った。空元気とわかっていても綺麗な笑顔だ。まぶしい。
「今日はね、あの子に昔の写真とかビデオとか見せて、一日ゆっくり昔の話とかしようと思ってるの。耀も大学を休んで協力するって言ってたし」
「え」
耀というのは幼なじみの兄のことだ。現在大学に通っている。あっちもまたイケメンで、幼なじみとは違う系統の儚い雰囲気の美人さん。
そんな耀君とおばさんの二人がかりで一日中、覚えていない過去を映像つきで解説する……だと? あの幼なじみに? 警戒心が人一倍強くてひねくれ者で厄介な性質を持つあいつに?
「……えっと、おばさん、それをするのは今はちょっと待ったほうがいいかも」
「どうして? お医者さまも、過去の記憶に少しずつ触れさせていくといいと言ってたわよ?」
「うん、それはそうだとは思うし、必要なことだとも思う。でも今はまだ早いんじゃないかな。……つっくんって、ほら、ああ見えて気遣い屋さんなとこあるし、少し自己否定……ていうか自分の存在に否定的になる癖があるから、ちょっと心配で」
「司が……? あの子、そんなこと私たちに言ったことないけど……」
おばさんが驚いたように目を見開いた。
ううむ、非常に言いにくい。幼なじみの抱えていた秘密を暴露するようで後ろめたいし、これから言う事実を精神的に疲れているおばさんに告げるのも酷な気がして口が重くなる。
「節ちゃん、教えてくれない? 司がどうして自分を否定なんてしていたのか」
「昔のことだよ。今はそんなことない」
「ええ」
「……小さい頃さ、今と違って耀君って身体が弱くて、おばさんもおじさんも耀君にほとんどかかりきりで、それでつっくんはよく私の家に遊びに来たり泊まりにきたりしてたでしょ?」
幼なじみの兄の耀君が私の目に儚く見えるのは、どうしてもその頃の印象が強すぎるせいだ。
昔の耀君は本当に病弱で、しょっちゅう寝込んだり入院したりしていた。だから幼なじみはことあるごとにうちに預けられ、うちで面倒を見ていた。幼なじみが風邪をひいたときも、耀君に感染すると大変だからとうちで看病をしていたくらいだ。
高熱でうなされてる子供をこんな時までよその家に預けるなんて、なんてひどい親だと当時は思っていたけれど、今ならわかる。
当時の耀君は普通の風邪ですら死に関わるほど身体が弱かったから、それは当然の措置だったのだと。代わる代わる何度もうちに幼なじみの様子を見に来ていたおばさんとおじさんが、幼なじみのことを蔑ろにしていたわけがない。子供たちを同じように愛していた。
けれど、その愛情はまだ子供だった幼なじみには伝わっていなかった。
「つっくんね、小さい頃、私に言ったことがあるんだ。『お母さんたちに必要なのは耀兄ちゃんだけで、俺じゃない。俺はいらない子供なんだと思う。だからこうやって何度も預けられているうちに、俺そのうち本当におまえんちの子になるかも知れない』って」
ちなみにそれを言われときの私はたいそう喜んだ。
私は一人っ子だったし、兄弟ができるのが純粋に嬉しかった。
おばさんたちが幼なじみのことを要らないと言うわけがないとは思ったが、もしも万が一要らないと言ったらありがたく貰ってしまおうと考えた。
そして「じゃあ本当に兄弟になったら私がお姉ちゃんだよ」って言ったら、幼なじみは心底嫌そうに顔を歪めて「俺が兄貴に決まってる」と言い張った。そこで喧嘩に発展して、挙げ句にはお互い母子手帳を引っ張り出してきてどっちが先に産まれたかを確認するまでとなった。
私の方が10分早かったから私がお姉ちゃんだと勝ち誇る私に「時間なんて関係ない。俺のほうが頭もいいし強いししっかりしてるからおまえより俺が人として上だ」と、最終的に兄弟の定義をまるっと無視した幼なじみの暴論により私は敗北した。
「自分が要らない子って……。司がそんなことを言ってたの? 本当に?」
「うん。まあ子供だったしね、目に見えるものだけしか理解できなかったんだよ。今はもうつっくんも、耀君の身体のことやおばさんたちの大変さも自分への愛情も、きちんと理解して受け止めてる。だからこの話はつっくんには内緒にしててね。バラしたのがバレたら私がつっくんにど突かれるから。奴ならマジでやるから」
後悔にか、今にも泣きそうになってるおばさんに軽く笑って悪戯っぽく言った。しかし内心では心臓バクバクだ。マジでつっくんにバレたら怒られるからね!
「えっと、それで、なんの話をしてたんだったか……。ああそうだ、だからさ、つっくんってほんと厄介な性格だから、記憶をなくしてる今のつっくんに過去を思い出すことを強要しちゃうと、あの俺様ネガティブのことだからヘタしたら『記憶のない俺なんてみんなは要らないんだ。迷惑かけるだけの俺なんていないほうがいい』とか馬鹿なこと考えて勝手に追い詰められちゃいそうなんだよね。しかも身近であればあるほど気を遣うという習性もあるから、周りが記憶を取り戻すことを望んでるなら頑張って思い出さないとって焦りに繋がるかもだし」
「さすがに強要なんてするつもりはないけれど……」
「わかってるよ。でもそのつもりがなくても、昔の写真やらビデオやら一日がかりで見せられたら、早く思い出してって言われてるのと一緒じゃないかな。それってけっこうなプレッシャーだと思う。そういうのは、つっくんが自分の昔のことを知りたいと求めてきたときでもいいんじゃない?」
「確かに……お医者さまも記憶に関することはゆっくり少しずつ触れさせたほうがいいって、言ってたわ。……私たち、あの子に他人を見るような目で見られて、辛くて寂しくて、焦っちゃったみたいね。記憶がなくなって一番辛いのも焦ってるのも司のほうだろうにね」
そう言って反省したおばさんは、自分の頬を両手でぺちぺち叩いて「だめね、私がお母さんなんだからしっかりしなきゃ!」と気合いを入れ直していた。
と、そのとき、おばさんの後ろから先ほどからの話題の人物、幼なじみがやってきた。
「……あの。電話鳴ってる。俺が出てもいいかわからなかったから、呼びにきたんだけど」
どこか気まずそうにおばさんに向かって言った幼なじみは、その言葉遣いも態度も確かに他人に向けるそれだ。呼びかけるときに「あの」だなんて間違っても使うような男じゃなかったからね、このひと。
五日間もこんな他人行儀な態度で接されたおばさんたちが、切羽詰まって強硬手段にでようとした気持ちもわかる。
そんなことを考えながら観察していると、おばさんに対して気まずげにしていた幼なじみが、ちらりとこちらに視線を向けた。
そのとき初めて私がいることに気づいたらしい幼なじみと、目が会った。
幼なじみは驚いたように切れ長の目を見開くと、大股で一気に距離を詰めてきた。え、何その顔コワい。なんでこっちくんの。なんで怒ってんの。
「あんた……っ! あんたあの時一緒にいた奴だろ! どうして――!」
ぐっと腕を掴まれて、おっそろしい形相で問い詰められている。はて、私はなぜ幼なじみに責められるような視線を向けられているんだろうか。
「うふふ、じゃあ後は若い二人にお任せしてお母さんは退散しちゃおうかしら。あ、節ちゃん、どうせなら節ちゃんも学校お休みして司の相手してやってくれない? 春子ちゃんと学校には私からちゃあんと連絡しておきますから!」
そしておばさんはなぜかお見合いの定番のようなセリフと、ずる休み推奨宣言を残して機嫌良さげに去っていった。この状況で置いていくとか鬼畜すぎる。でもうちのお母さんと学校への連絡はありがたい。
虚ろな目でおばさんの去っていく背中を眺めていると、掴まれた腕にぐっと力が込められ意識を引き戻された。
幼なじみを見上げると、彼は怒っているようにぎゅっと眉をしかめて私を睨んでいた。その表情はどこか泣くのをこらえているようにも見えた。
「――あんた、誰なんだよ。どうしてあの時一緒にいたんだ。どうしていつの間にかいなくなってたんだ……! 俺の家族だという人たちにあんたのこと聞いたら、きっとすぐに会いにきてくれるって言うから待ってたが、あんたはいつまで経っても来ねぇし! あの時、俺の家だというここに一緒にいたってことは、あんたは俺と近しい関係だということだろうが! なんですぐに会いに来ねぇんだよ馬鹿ふざけんな!」
幼なじみがなんか俺様なこと言ってるんだがどうしよう。
記憶喪失なんていう非常事態になって、大混乱してるだろうからしばらくはそっとしておいてやろう、というこの五日間の私の善意100%の気遣いは、幼なじみから言わせれば「ふざけんな」という無駄なものだったらしい。
おじさんおばさん耀君、ごめんなさい。「司なら絶対に節ちゃんに会いたがるはず」というあなたたちの言葉を「ぷふー、記憶があったとしてもそれはナイナイ」と笑い飛ばした私は愚か者でした。
しかし、まあ、どういうことだ。
幼なじみは私が会いに来るのを待っていたという。なんでだろう……と考えて、ハッとする。
そうだ、あの時一緒にいたのは私だ。
目の前にいる彼はすべて忘れてしまっている。自分のことも家族のことも。記憶をなくす直前まで何をしていたのかも。
今の幼なじみの記憶は、私から始まっているのだ。
そりゃあ気になるよね。何もかも忘れている中で一番最初に会ったのが私なんだから、良くも悪くも気になって当然かもしれない。ある意味ちょっとした刷り込みだ。
怒っているのにどこか不安そうにこちらを睨んでいる幼なじみに、私は生まれて初めて母性本能なるものを刺激された。気分はまるで雛を見る親鳥だ。いつもは母性本能どころか闘争本能しかわかないというのに。やだ何この優しい気持ち! このネガティブ俺様の幼なじみにこんな気持ちになるなんて! 私は聖母か!
「うん……まあ色々とごめん。とりあえずさ、今日はおばさんにも学校休んでいいって言われたし、色々お話しようじゃないの。心ゆくまでじっくりと!」
「……うぜー。べつにそんなこと頼んでねぇし」
あれ、母性本能ってなんだっけ。目の前のちょっと嫌そうな顔してる幼なじみを殴りたくなる衝動のことだっけ。
ツンデレは私の好みじゃないんだよ。
「はんっ、嫌ならいいよ。私このまま学校行くから。君は家で孤独に暇を持て余せばいいさ。じゃあね」
鼻を鳴らしてそう告げて出て行こうとする私。大人げないがしかし私は子供なのでこの対応で間違ってないはず。
けれど私はそこから動けなかった。幼なじみが私の腕を掴んだまま離さないからだ。
「……行かせるかよ。俺はまだあんたの名前も聞いてねぇ」
「あーはん? うぜー私なんかとはお話したくないんじゃなかったの?」
「話したくないとは言ってねぇだろ」
「うぜーとは言ったけどね」
「――怒ってんのかよ」
「怒るよね普通に。わかんないみたいだから教えてあげよう。身を持って私のこの気持ちを知るといいよ。――腕離してよ、うざいから」
冷めた目でそう言ってやると、幼なじみはヒュッと短く息をのんで、驚愕したように固まってしまった。
あ、あれ? やりすぎた? ていうか私ってば、記憶なくして精神的に不安定になってるひとになんてことを言ってんだろうか。おばさんにあんなに偉そうなこと言っといて、私が幼なじみを追い詰めてどうする!
「えっと、ごめ、」
「――嫌だ」
「ん?」
「嫌だ。駄目だ。二度とそんなこと言うな。俺を拒絶するな。それは絶対に駄目だ。もしもう一度言ったらその時は……」
「おいちょっと待て落ち着けつっく――ええと、司君。もう言わないし、さっきのだってただの仕返しだから。あんなこと思ってないから」
なんだか暗い目をして取り乱し始めた幼なじみを、私は慌てて止めた。初めて見るそんな姿に少し動揺してしまった。
そうだ、今の彼は私にとっては幼なじみであるけど、同時にまったく知らない人でもあるんだ。『桐原司』であっても、 私と十六年の記憶を共有する『つっくん』ではない。幼なじみは今、ほとんど初対面の『司君』なんだ。これを間違ってはいけない。
今の司君に『つっくん』なんて呼びかけてしまうと、きっと面倒なことになる。ネガティブが発動して「俺はおまえの知ってるつっくんじゃない」とか言ってうじうじしそうだ。
「……本当か?」
「まじまじ大まじ。もう二度と言わないよ」
「そうしろ」
「でも司君も私に言ったよね」
「俺はいい。でもあんたは絶対に駄目だ」
くっ、『つっくん』の記憶はないくせにこの上から目線の俺様体質! やっぱり『つっくん』だよこれ! 腹立つ!
「ま、まあ、ここは君の記憶喪失に免じて、私が大人になろう」
「へぇ……俺が記憶喪失じゃなかったら、あんたはどうしてたんだ?」
「もちろんうちの裏庭からだんご虫をありったけかき集めてきて君の靴の中に詰め込むくらいのことはやるよ」
「はあ? ガキかよ」
呆れたように言うその顔に、さっきの暗い色はない。むしろほんの少しだが唇のはしっこが上がっているので、どうやら笑っているようだ。ホッとした。さっきの司君は怖かったから。
「あらあらまあまあ二人とも、この寒いのにまだそんなことろで立ち話してたの? 早く中に入りなさい。と、その前に節ちゃんは制服着替えてきたら? シワになっちゃうといけないし」
リビングから出てきたおばさんに言われて、確かにこんなとこにいつまでも立っていたら寒いし疲れるだけだ。早く暖かい部屋で、甘いココアでも飲んでずる休みを満喫したい。
「んじゃちょっと私、着替えてくる」
「待て。……本当に戻ってくんのか?」
ずっと掴まれたままだった腕にまた力がこもる。
「うん、すぐ来るよ。家隣だし」
「隣……?」
「ああそっか、まだ言ってなかったっけ。それでは改めまして……。私の名前は敷村節、君の幼なじみですよ」
「節……、節か……、節、節。――待て、幼なじみだと?」
舌の上で転がすように私の名前を何回か呟いて馴染ませたあと、司君は首を傾げた。彼のそろそろ鬱陶しい長さの黒髪がさらりと首筋を滑った。あれもうすぐ後ろで結べそうだな、なんて思いながら、私はこくりと頷いた。
「桐原司君と敷村節は、十六年前に同じ日に同じ病院で生まれたうえに家も隣同士で、幼稚園から高校までずっと一緒という、筋金入りの腐れ縁だよ」
そう言ってやったときのポカンとした司君の顔はなかなか見ものだった。
◇◆◇
一度家に帰り、部屋着である黒いジャージに着替える。幼なじみの家に行くだけだからオシャレな格好などする必要はない。無意味だ。出掛けるわけでもあるまいし。
お母さんはおばさんからすでに連絡を受けていたようで、学校に行かずに舞い戻ってきた娘に対しても特に怒ることなく、「おやつ持ってく?」と、母秘蔵の甘栗までくれた。ありがたく貰った。
ちなみにお母さんはいつもは私にこんなに甘くはない。学校をサボろうものならトイレスリッパで滅多打ちにされたあと家からつまみ出されるだろう。甘栗だって絶対にくれない。一粒だってくれない。今日は破格の待遇だ。
学校に持って行くはずだったお弁当と、おやつを持って、再び桐原家のインターホンを押す。
一秒も待たずにドアが開いた。そこにいたのは司君だ。
「うわ、君そんなとこで私が来るのずっと待ってたの? どこのポチ公だよ」
「うるせぇべつに待ってねぇたまたまだ。つーかハチ公だろ。どうでもいいがとっとと入れ。さみぃ」
「へいへい。お邪魔しまりすー」
挨拶もそこそこに慣れた様子で桐原家に上がり込む私を見て、司君はなんだかちょっと複雑そうな表情をしている。
「……なんでジャージ?」
「これが私の標準装備ですけど何か?」
若干袖が伸びてたり所々どこかに引っ掛けてほつれているジャージの上下。一応スポーツメーカーが出してるレディースもので、ダサい芋ジャージとは一線を画している、はずだ。そう、何もおかしなところなどない、はずだ。
「ジャージが普段着……。なんかスポーツでもやってんのか」
「自慢じゃないけど私、50メートル走のタイム13秒台だよ」
「ふーん、死んだ方がましだな」
「え? そこまで? そこまでかな?」
マジで自慢じゃねーなっていうツッコミ待ちだったんだけど、え?
そんな他愛のない話をしながらリビングに行くと、満面の笑みを浮かべたおばさんが待ちかまえていた。
「いらっしゃい節ちゃん! ゆっくりしていってね!」
なんだかめちゃくちゃ期待のこもったキラキラした目で見られているんだが。美人過ぎて目が潰れそう。私女の子で良かった。男だったら幼なじみのお母さんを相手に間違いを起こしそうだ。
しかしそんな目で見られても、私べつに何もしないからね? というか、司君の記憶が私と会って話したところで簡単に戻ったりするわけがない。
正直、私の今の心境ときたら『司君を口実に学校サボれたよラッキー』という程度なので、そんな希望の光を見つけたような目で見られると、罪悪感がすごいんですが。
「ほら二人ともボーッと立ってないで、座りなさいよ」
おばさんは私たちをリビングのソファに座らせると、ウキウキとした足取りでキッチンに立った。
「……あの人、なんであんなに機嫌いいんだ?」
ボソッと呟くように訊いてきた司君に私はギョッとする。
「あ、あの人って……、おばさんのことだよね」
「ああ。俺の母親らしき人のことだよ」
「らしきじゃなくて、正真正銘君のお母さんだから」
「実感がねえ」
「鏡見て出直してこい。君とおばさんそっくりだから。司君はおばさんとおじさんの子供で、輝君の弟だ。ここが君の居場所で間違いない。自信持っていいよ。私が保証する」
「……そうかよ」
ふんっとそっぽを向きながらも、その横顔はどこか安心したようにも見える。おいおいまじかよ司君。あんなに司君のことを心底心配している家族のことを、本気で家族かどうか疑ってたのか。警戒心が強いのにもほどがあるぞ。
疑り深くて根暗で俺様なところは本当に『つっくん』のままだ。だからこそ私もこうして今まで通りに話せているんだけど。
実を言うと、今日実際に会うまでは、記憶をなくしたことで幼なじみが変わっていたらどうしようという不安も少しはあった。十六年分の記憶をなくした『司君』が『つっくん』とかけ離れた人格をしていたら、私はたぶんこんな風に接することはできなかっただろう。胸ぐら掴んで「なに勝手に私のこと忘れてるんだ、とっとと思い出せこのネガティブ野郎!」くらいのことは言っていたはずだ。
「司、節ちゃん、はい、お茶どうぞ」
「わーい、ありがと。ここはオシャレに紅茶とかココアとか期待してたけど、濃いめの渋い緑茶だなんて嬉しくてなんだか舌が痺れそう!」
「そうそう、この舌が痺れるくらの苦味がいいのよねぇ」
嫌みが通じない……だと? まあいつものことだけどね。いいけどね、緑茶も嫌いじゃないし、甘栗にはちょうどいいし。って、にっがぁ! 苦すぎるよこれまさか毒か! でもこの苦さが痺れる癖になる!
「……、茶、ありがとう、……母さん」
さっそくお茶請けに甘栗の袋を開けて広げていると、司君がまたもやボソボソと言った。目線を思い切りそらして、蚊の鳴くような小さな声だったけれど、きちんとおばさんには届いたようだ。嬉しそうに「どういたしまして」と笑った。
一仕事終えたようにホッと息をついた司君は、私にチラリと視線を向けた。
「……つーか、今ので合ってたか?」
「はん? 何が」
私は剥けちゃってる甘栗をポイッと口に放り込んで首を傾げた。
「呼び方。間違ってたら直す」
「ああ、おばさんへの? うん、司君はずっと『母さん』って呼んでたよ。でもそんなことどうでもいいんじゃない? ね、おばさん」
「ええ、なんでもいいのよ」
「なんでもいいのかよ」
なんだその不満げな顔は。
「いいんだよ。司君が呼びたいように呼べばいいし、したいことをすればいい。なくした記憶を知るのが悪いとは思わないけど、前の自分に言葉や行動を無理に摺り合わせる必要はないでしょうよ。頑張って『つっくん』になろうとしなくていい。君は君が思うまま、好きなように生きればいいんだよ」
甘栗をポイポイ口に放り込んでいく。おいしすぎてやめられない止まらない。そして舌が痺れそうな濃すぎる緑茶が合いすぎる。おばさんナイスチョイスだよこれ。
「……その『つっくん』ってのはまさか俺のことか」
「そのまさかだね」
「おまえは、いくら俺がその『つっくん』の真似をしても、所詮はおまえの望む幼なじみにはなれやしねぇって、そう言いてぇのかよ。おまえの幼なじみは十六年分の記憶を持った俺だけだと?」
またあの暗い瞳だ。ああもうなんだよ面倒くさい。さすがネガティブキングだな。本当にこういうとこ変わらないんだから。
「そういうふうに区別したつもりはない。つっくんは司君のことだよ」
「記憶のない俺のことは『司君』で、前の俺は『つっくん』なんだろ。はっきり区別してるだろうが」
「じゃあ君は、つっくんって呼ばれたいの? 呼んでいいの?」
「……俺はおまえの幼なじみなんだろ。だったらそう呼べ」
「ふーん。じやあそうするけど。寂しくなっても知らないからね」
「どういう意味だ……?」
「べっつにー。それよりつっくん、この甘栗おいしいよ。君も食べたら? この濃すぎ渋すぎ苦すぎな緑茶との相性ばっちりだから。ほらほらつっくん、食べなっせ」
話題を変えるために甘栗を勧める。本当は一人で食べ尽くしたいほどおいしいが、さすがに独り占めなんかしない。私はお母さんと違っておいしいお菓子を分け合う優しい心を持っている。
おばさんはハラハラとした表情でこちらを見守りながら、その手は甘栗を次々に口に運び、口はずっともぐもぐと動いている。なんかドラマの盛り上がるシーンを見てるような顔だな。そんなに面白い展開なんかないよ。ご期待には沿えません。
「――おい」
「ん? 何よ、つっくん」
「呼ぶな」
「何を? つっくんどしたの?」
「呼ぶなっつってんだろ!」
「つっくん」
「呼ぶな!」
二人で座ってるソファの背を殴りながら怒鳴る司君に、私は白けた視線を向ける
「君が呼べって言った」
「やっぱり呼ぶな。胸くそわりぃ」
「つっくんは君だけどね」
「わかってるよ……っ! けど駄目だ。呼ぶな。……記憶が飛ぶ前の俺を求めんな」
うむ、想像通りの反応だ。
「ほらね、やっぱり拗ねた。だから言ったじゃないの、寂しくなっても知らないよって」
みんなと同じように普通に名前で呼んでいただけなら、こんなふうにはならなかっただろう。『つっくん』という呼び方は私しかしない。私はずっとそう呼んでいた。でも司君にはそう呼ばれていた記憶もないわけで、十六年の記憶が詰まった知らない呼び方で呼ばれると、すごくもどかしいような気持ちになるのかも知れない。
「べつにそういうんじゃねぇし。……ただムカついただけだ」
「そうやってうじうじすると思ったからつっくんって呼ばないようにしてたのに。だいたい私は呼び方なんてなんでもいいんだよ。つっくんでも司君でもつーちゃんでも根暗馬鹿でも俺様野郎でもネガティブキングでも」
「……後半ただの悪口だろ殴るぞ」
「さーせん。痛っ!」
いつの間にかおばさんが持ってきてたせんべいをバリバリと頬張りながら食べている私の後頭部に衝撃が走る。憮然とした顔の司君に殴られたのだ。
く、この男……せんべい口の中に突っ込んで
口内ズタズタにしてやろうか?
「なあ」
「ああん?」
私を殴ったあとも、私の頭の辺りでもそもそと手を動かしていた司君がぼんやりとした口調で話しかけてきた。なんだよこの手は、邪魔だなおい。もう一撃くるのか? 二発目をどこにぶち込むか探ってるのか? 勘弁してくださいごめんなさい。
「節」
「ん?」
「……この呼び方は、合ってんのか?」
「まだ言うか。しつこいな君は。呼び方に正解も間違いもないよ」
「いいから教えろ。俺はおまえのこと、なんて呼んでたんだ?」
「聞いたら司君は、たぶん後悔すると思う」
「しねぇよ」
「本当に? 聞いたあとで殴ったりしないでね。私は悪くないからね」
「しねぇって。早く言え」
「じゃあ言うけど。……司君は子供の頃からずっと、私のことは『せっちゃん』って呼んでたよ」
「――は?」
司君の切れ長の瞳が信じられないことを聞いたというように見開かれた。そうだよね。驚きだよね。言葉遣いも悪い俺様司様が、幼なじみの女の子をそんな可愛い呼び方してたなんて。
でも仕方ないんだよ。私たちは赤ちゃんの頃からずっと一緒だったのだ。大人たちが私のことを節ちゃんと呼んでいたから、司君もそう呼んでいたつもりだったんだろうけど、言えてなかったんだよ、君は……。
成長するにつれ言葉遣いや態度が変わっても、なぜかお互い呼び方だけは変わらずここまできてしまった。
中学のときは小学校からの持ち上がりの子たちが多かったから、俺様クール系イケメンの司君が幼なじみを『せっちゃん』なんて甘ったれた呼び方をしていても、みんな聞き慣れていたから気にされなかったけど、高校ではかなり周りから驚かれた。司君は性格がわりとアレだったから、余計に奇異に映ったんだろう。なぜか私が女子たちに『どうせ桐原君に無理やり呼ばせてるんでしょ。幼なじみアピールうざいんだけど』なんて責められたりもした。そんなバカな。私は無実だ。
そんなことがあっても、私たちが呼び方を変えることはなかった。それが私たちの普通だったからだ。
「……『つっくん』に『せっちゃん』だと? 俺が……? ありえねぇ……。おまえマジで一体何者だよ」
衝撃を受けたらしく頭を抱えた司君が胡乱な視線を向けてきた。
何者だと言われても、ただの幼なじみですよ。