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三日後、ベンジャミンが祖父のアパートを訪ねると、部屋からは引っ越し業者が次々と家具を運び出している最中だった。
「こんにちは。マクリーシュさん」
階段を駆け上がって三階にある祖父の部屋まで向かうと、もぬけの空となった室内では、旅行鞄を足下に置いたクリスティーナが立っていた。愛想のない表情を浮かべているが、ベンジャミンを待っていたようにも見える。
先日と同じブロンズ色の外套を羽織り、手にはベージュの帽子を持っている。栗色の髪をきっちりと編み上げ、いまにも旅に出掛けられそうな装いだ。
「旦那様の家具や衣類はすべて教会に寄付したんです。教会のバザーで売りに出されて、売上金は戦災孤児のために使われるそうです。どれもたいした金額にはならないと思いますけど」
確かに、さきほどベンジャミンが見たトラックに積み込まれていく家具は、どれも古びた安物だった。
「君は、これから旅に出るのか?」
「はい」
楽しそうに微笑みクリスティーナは頷く。
「この後、部屋の鍵を大家さんに返したら、その足で駅に向かいます。お世話になったミリガンさんには昨日のうちに挨拶を済ませましたし、他に会っておきたい友人や知人もロンドンにはいないものですから」
「逃げるのかい?」
ベンジャミンが眉間に皺を寄せながらクリスティーナを凝視すると、彼女は不思議そうな表情を浮かべて首を傾げた。
「逃げる? わたしは、旦那様との約束を果たすため、旅に出るだけです」
「違う。君は、ルーク・バーガンディーの描いた絵と偽って売った絵の代金を持って、大陸に逃げるんだろう?」
「偽って? おっしゃっていることの意味がわかりませんが」
怪訝な表情になったクリスティーナは、声を尖らせた。
「僕は昨日、祖父の絵を買った人を訪ねて、その人が持っている祖父の絵を見せてもらった。それは新緑の草原に赤い花が咲き、真っ青な空に白い雲が浮かんでいる絵だった。絵の隅にはルーク・バーガンディーのサインがあり、確かにそのサインは一昨日君から譲ってもらった祖父の絵と同じものだった」
「じゃあ、旦那様の絵で間違いないじゃないですか。そもそも、何故わたしが旦那様の絵の偽物を売ったなんて思われたんですか? どうせ偽物を作るなら、もっと有名な画家の贋作を作った方が高く売れますのに」
「どういう事情があったかは知らないが、祖父はあんな絵を描く人じゃない。いや、祖父にはあの絵は描けない。絵を買った人には黙っておいたが、あの絵で祖父が描いたのは最後のサインだけだ」
ルーク・バーガンディーの絵を見てベンジャミンがまず驚いたのは、景色の迫力よりも鮮やかな配色だった。
「祖父は後天的な色覚異常があった。若い頃はあるていどの色を見分けられたらしいが、年を取るにつれてそれも難しくなったらしい。特に赤色が見えない。美術学校では色覚異常があることを隠すため、いつもデッサンばかり教えていた。祖父が絵をすべて白黒で描いていたのはそのためだ。絵描きとして色覚に問題があることが致命的とはいえないが、祖父は自分の目に映る色彩の乏しい世界を常に自分の絵で表現してきていた。祖父には空の青さや草原の草の色、それに僕が描いたぶどう畑の赤も見えてはいなかったんだ」
かつてベンジャミンが祖父のスケッチブックに描いた景色は、いくら祖父に見せても理解してもらえなかった。後になって祖母から、祖父の目には赤色がほぼ見えていないのだと教えられたが、当時のベンジャミンには理由がわからなかった。
「あの絵は、旦那様が描いたものです。下書きも、色つけも。ただ、絵の具を混ぜるお手伝いだけは、わたしがしましたけれど」
「……絵の具?」
「旦那様の絵は、どれも気が滅入りそうなほど暗いものですから、思わずわたしは言ってしまったんです。あそこに飾ってある絵の空の色の方が綺麗ですねって。旦那様は寝室にあなたの絵をずっと飾っていたんです。亡くなった奥様がこの絵をずっと寝室に飾っていて、それで自分も飾ったままにしているんだっておっしゃってましたわ」
「祖母が亡くなってから、祖父は放浪や引っ越しを繰り返していたはずなのに」
「亡くなった奥様が大切にされていた絵を、旦那様も大切にされていたんでしょうね。わたしがあなたの絵を誉めると、あれはただの落書きだってぶっきらぼうにおっしゃるだけで、誰が描いたものだとかどこを描いたものだとか、一切教えてくれませんでしたけれど」
自分の絵よりも孫の落書きの方が良いと、絵に関しては素人であるメイドに言われたときの祖父の気持ちがベンジャミンには想像できなかった。
「それならお前は空をどんな色で塗るんだって旦那様に訊かれたので、絵の具を混ぜてみせたんです。そうしたら旦那様がそのままの色で塗ってしまわれて……他の部分もわたしが混ぜた色をそのまま塗って、絵を完成させられたんです。それをミリガンさんに見せたら、ひとまず預かって画廊に飾ってくださることになったんです。もし買いたいという人が現れたら連絡する、っておっしゃって。一週間ほどで、すぐに買い手が付いたのには、旦那様もミリガンさんも驚いていましたわ」
「つまり、君はあの絵を自分と祖父の共同製作だと言いたいのか?」
「あれは旦那様の絵です。わたしはただの助手ですもの。画家の助手というのは、師匠のために絵の具を混ぜたりもするのでしょう? それに、昔の絵は工房で師匠と助手が一緒に制作していたと旦那様は教えてくれましたわ。だからわたしは、バーガンディー工房の助手なんです。工房で製作した絵は、工房主である師匠が署名するものだそうですよ」
いつの時代の話だ、と思ったが、ベンジャミンは大きな溜息をつくだけに留めた。
祖父が画家として大成できないのは色覚という問題を抱えているからだとベンジャミンたち家族は考えていたが、ルーク・バーガンディーは助手という存在を手に入れたことで、この問題を乗り越えていたのだ。
「旦那様はいつも室内に籠もって絵を描いていらっしゃいました。煤煙で汚れた外の空気が苦手だったんだそうです。それなら田舎に引っ越したらどうですかって申し上げたら、田舎は空気が澄みすぎているので苦手だっておっしゃってました。それなのに、田舎の風景画ばっかり描かれるんです」
偏屈なところはやはり祖父だ、とベンジャミンは妙に感心した。
「だからわたしが、この調子だと旦那様の記憶の中にある田舎の風景は尽きてしまうんじゃないですかって申し上げましたら、そのときはまだ見たことがない田舎を見に行くっておっしゃったんです。だから、そのときはあの絵の風景を探しに行きましょうねって旦那様と約束したんです。わたしは旦那様があの絵にある風景をどんな風に描かれるのか、見てみたかったんですわ」
「……君は、祖父の絵が好きだったのか?」
「好きでしたわ。絵の良し悪しはわかりませんけれど、旦那様の絵は、見る者の気分を良くも悪くもできるんですもの」
鑑賞者の気分を悪くする絵はどうかと思ったが、祖父の絵が評価されていると思うことにした。確かに、自分の手元に残された祖父の絵は、一瞥して忘れられるようなものではない。強烈な印象が残り、見たものを陰鬱にさせる力がある。
「ミリガンさんも、旦那様の絵は美術評論家のような玄人向けではなく、居間に絵を飾りたい素人が十ポンドや二十ポンド奮発して買うものだから、あのくらい適度に力を抜いている方が良いって誉めてましたわ」
「君は、自分に画家としての才能があると考えたことはないのか?」
「ありませんわ」
口元を手で押さえてくすくすと笑い出したクリスティーナは、細めた目でベンジャミンを見つめた。
「わたしは絵の具を混ぜる腕だけは磨かれましたけれど、絵を描くのは下手なんです。でも、いいんです。わたし、この旅のためにこれを買いましたから」
嬉しそうに顔をほころばせると、クリスティーナは旅行鞄からカメラを取り出した。
「絵を描かなくても、写真を撮ってそこに色を塗ればいいんです。そうやって旅した各地の風景を旦那様に報告できますでしょう?」
確かに、白黒写真に彩色を施すのは良い考えだとベンジャミンは感心した。
「君はいずれロンドンに帰ってくるのか?」
「旅費が尽きたら帰ってきます。旦那様のお墓に、旅の報告もしなければなりませんし」
「それなら、旅費に余裕があれば、僕が祖父のスケッチブックに描いた風景がどうなっているか、見てきてくれないだろうか」
「いいですよ。写真も撮ってきますね」
カメラを鞄に仕舞うと、クリスティーナは鞄を手に取った。
慌ててベンジャミンは素早く手帳に当時の住所と現在の連絡先を書き記し、ページを破って差し出す。
「あと、僕の絵は……」
「持って行きますよ。でも、絵にある風景と同じ景色を見つけて帰ってきたら、ちゃんとお返ししますわ」
ページの切れ端を外套のポケットにしまったクリスティーナは、出した手を引っ込める機会を失っているベンジャミンに向かって微笑むと、軽い足取りで部屋を出て行く。
「良い旅を!」
クリスティーナの背中に向かってベンジャミンが叫ぶと、階段を降りかけていた彼女は振り返り、驚きながらも軽く会釈をした。