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「ベンジャミン。お祖父さんの足跡はわかったのかい?」
事務所の長椅子に寝転がって仮眠を取っていたベンジャミンは、騒々しいサイラス・アーキンの声で渋々目を覚ました。頭から被っていた新聞を取り上半身を起こすと、不機嫌そうに顔を顰めて共同経営者を睨み付ける。
「その様子だと、お祖父さんの遺産は一ポンドも奪えなかったようだね」
「売れ残っていた祖父の絵は手に入れることができたけどね。現金はメイドに渡っていた」
大きな溜息とともに、部屋の隅に立て掛けてある絵を顎でしゃくって示した。
日没が近いというのに、電灯を点けていない室内は薄暗い。その中で、百号ほどの大きさの絵が数枚、壁に寄り掛かるようにして置かれていた。この絵を事務所に運ぶためには運送屋に依頼する必要があり、予想外の出費だった。
絵はどれも黒と白の絵の具のみで描かれた油絵で、暗い印象だ。見ているだけで憂鬱な気分にさせられるため、壁側に向けている。
幼い頃から幾度か祖父の絵を見てきたベンジャミンは、祖父の絵が持つ陰気な空気が苦手だった。子供の頃は寡黙で偏屈な祖父を知っているからこそ、絵にも良い印象が持てないのだろうと考えていたが、いまになって絵を見直しても鑑賞に堪えうる絵ではない。
こんな絵を描いていた祖父が、いくら心機一転して売れる絵を描こうと決意したところで、画廊に出すと同時に客が買うような絵が描けるものだろうか。
「この絵で俺たちの負債を補填できそうか?」
「まず無理だろうね」
一番手前の絵を持ち上げて眺めたサイラスの表情に目を遣り、ベンジャミンは首を横に振った。
「百ポンドどころか、すべてを合わせても十ポンドにも化けないだろうね」
二年ほど前から、ベンジャミンはサイラスと小さな貿易会社を共同経営している。設立当初は戦後の好景気を享受できていたが、ここ半年ほどは赤字続きだ。一ヶ月ほど前から毎日のようにサイラスと二人で金策に駆けずり回っている。
二人で頭を抱えていたところ、ベンジャミンは祖父ルーク・バーガンディーの死を新聞で知った。同時に、祖父が死の直前には人気画家として儲けていたことも。
なんとか祖父の遺産を手に入れることができないものかと、祖父が懇意にしていた画廊を探し出して訪ねたものの、絵の代金は祖父の死を看取ったメイドの手に渡っていた。しかも、絵はすべてメイドに託す趣旨の遺書まで書かれていたのだ。ベンジャミンが血縁者であることを理由に、絵の代金を寄越すよう請求することは出来ない。
「メイドは祖父の絵には執着していなかったが、売れる絵はすべて売ってしまって金に換えているんだ。そこにある絵はどれも売れ残ったものだから不要だということで、僕に譲ってくれたんだ」
「つまり、そのメイドはこの絵が売れるものではないと判断したわけだ?」
「判断したというか、この絵を僕が誰かに売ろうが、物置の片隅で埃をかぶろうが気にしないということだろうね」
実際、メイドのクリスティーナは絵に関して完全に素人だった。
ベンジャミンが子供の頃に描いた絵を気に入って手放さないかと思えば、死の直前に人気が出た画家の不遇な時代の絵をあっさりと譲るような気紛れぶりだ。
「君のお祖父さんは、いったいどんな絵を描いて人気を博したんだい?」
「それが実物を見ることはできなかったんだ。二枚ほど、画商のミリガン氏が絵を画廊に飾ったところを写真に撮っていたんだが、そこにある絵と大差ないように見えた」
モノクロの写真には、装飾過多の額縁に収められた風景画らしきものが写っていたが、特別素晴らしい絵には見えなかった。もっとも、ベンジャミンも絵に関しては素人だ。
「祖父は人に理解されるような絵を描けない画家だと思っていた」
「俺も、君の意見に賛成するよ。君のお祖父さんには悪いが、この絵を居間に飾ろうとする奴の気が知れないな。ただでさえいまの会社の経営状態に絶望しかかっているというのに、追い打ちを掛けられそうな絵だよ。他人を精神的に追い詰めたいときは、嫌がらせとしてこの絵を送るといいかもしれないな」
軽口を叩いているところを見ると、まだサイラスには多少の余裕があるようだ。
「祖父は雇っていたメイドと旅をするために、旅費を稼ぐ目的で絵を描いていたらしい。ただ、売れる絵を描くと決心したとはいえ、そう簡単に売れる絵が描けるものなら誰も苦労しないはずだ」
散々売れない画家としての人生を送ってきた祖父が、多少画風を変えたところで売れる画家になれるものだろうか。
「それほど気になるなら、実際にそのお祖父さんの絵を見に行けばいいじゃないか」
「祖父の絵を?」
「絵を買った人を訪ねて、亡くなった祖父の絵を見せてくれるよう頼めば、相手だって嫌だとは言わないんじゃないかな」
「……それもそうか」
画商のミリガンは、画家ルーク・バーガンディーの絵にしては高値で売れた、と言っていたが、どれも値段は二十ポンド前後だ。購入者は皆、美術品として投資目的で買ったわけではないのだから、しまい込んでいることはないだろう。
「あと、その絵は君の実家の物置にでもしまっておくといいよ」
「何故?」
「来週にでもこの事務所を引き払って、倒産の手続きをしなければならないだろうからね。でも君のお祖父さんの絵は、あと五十年くらいして酔狂な愛好家が引き取ってくれるかもしれないじゃないか」
「運送費だけでも馬鹿にならないんだが」
「それくらいはお祖父さんに敬意を表して支払いたまえ」
サイラスの諭すような口調に、ベンジャミンは軽く肩をすくめた。