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ルーカスは教会の片隅の共同墓地に眠っていた。名前と生没年月日だけが彫られた墓石は、画家の墓とは思えないくらい簡素だ。
墓にユリの花束を供えたベンジャミンは、しばらくの間、黙って墓を見下ろしていた。
その背後に立つクリスティーナも、自分からは口を開こうとしない。
自分が幼い頃に描いた落書きのような絵が祖父の手元に残っていたことに、ベンジャミンはまだ呆然としていた。
この絵の場所はどこですか、と尋ねるクリスティーナの質問には答えず、祖父の墓に案内してください、と一方的に頼んで連れてきてもらった。
ミリガンの画廊を出る際、絵はクリスティーナによって取り返されてしまった。いまは彼女が、新聞紙で包み麻紐で縛り直して、大切そうに両腕で抱きかかえている。
「僕は八つのときの夏休みを祖父母の家で過ごしたんです」
ルーカスの墓に目を遣ったまま、ベンジャミンは独り言のように話し始めた。
「当時の祖父は画家としての収入はほとんどなく、美術学校の教師をして生活していました。芸術家肌の人で、自分の絵が売れないのは、世間が自分の美学を理解できないからだとよく愚痴っていました。祖父は孫である僕に大して関心は持っていませんでしたが、近所に歳の近い子供がおらず退屈そうにしていた僕に自分のスケッチブックを差し出して、鉛筆と水彩絵具を貸してくれました」
訥々 と喋っているうちに、約十七年前の出来事がゆっくりと記憶に蘇ってきた。
「じゃあ、これはその当時、旦那様が奥様と一緒に住んでいた場所ですか?」
「いいえ。僕が六つの頃まで両親と住んでいた村の景色です。それは写生ではなく、僕の記憶だけで描いた風景なんです」
振り返ったベンジャミンは、懐かしげな視線をクリスティーナの手元に向けた。
「この絵の赤い花はなんですか?」
「それは花ではなく、ぶどう畑です」
「え? 旦那様は、赤いならヒナゲシかサルビアだろうっておっしゃっていたのですが」
クリスティーナはルーカスの予想が外れたことに不満げな表情を浮かべる。
「僕の両親がかつて経営していたぶどう農場の景色を描いたものなのです」
いま見ると実際の風景とは似ても似つかない景色の絵だが、自分ではぶどう農場のつもりで描いたのだ。
「僕が六つのとき、その農場のぶどうの木は病気に罹って全滅してしまったんです。それで多額の借金を背負うはめになった父は農場を畳みました。いまは知人のぶどう農場で働いています。戦争中はぶどう作りも中断していたのですが、二年前に再開されました」
「あなたもぶどう農場で働いていらっしゃるのですか?」
いいえ、とベンジャミンが首を横に振ると、クリスティーナは納得したような顔をした。
「旦那様はこの絵がどこなのか、ご存じありませんでした。でも、いつかこの絵に描かれている場所へ二人で行きましょうと約束をしたんです。それで旦那様は旅費を作るために売れる絵をたくさん描くようになりました」
「売れる絵?」
ベンジャミンが怪訝な表情を浮かべた。
「五十年以上、自分の画風を貫いていたあの祖父が、金のために絵を描いていたなんて信じられないですね」
ルーカスの当時の正気を疑うように、ベンジャミンは墓を振り返る。
「戦時中はともかく、戦争が終わった後は旦那様が描く暗い油絵はまったく売れなくなったんです。それで、皆が居間に飾るために買ってくれる風景画を描いて、売りまくりましょうということになったんです」
「とんだ商業主義ですね」
顔を顰め、ベンジャミンが吐き捨てる。
「祖父は、世間に媚びへつらうような絵を描く人ではなかったのに」
「ミリガンさんも最初は驚いていました。でも画廊に展示すると数日で旦那様の絵を買いたいという人が次々と現れて、絵は飛ぶように売れたんです。旦那様も、面白いくらいに絵が売れるものですから、これなら二十枚くらい絵を描けばすぐに旅ができるだろうって話していました」
結局、ルーカスは一ヶ月前に突然倒れた。診察した医者は、一週間ほど寝ていれば治ると言ったが、十日後に意識不明となり、その三日後に息を引き取った。あとになって、心臓が弱っていたとわかったという。
ルーカスの絵の代金の半分は医者代となったが、半分はクリスティーナの手元に残った。彼は遺書に、絵はすべてクリスティーナ・ゲイルに遺す、と書いていたことから、彼の葬儀が終わった後、残っていた絵はミリガンに買い取ってもらったと彼女は告げた。
「一枚くらい、形見として手元に残しておいたらどうかと言う人もいましたが、旦那様が売るために描いた絵ですから、売れる絵は売ってお金に換えました。旦那様の昔の絵は残っていますから、よろしければ、そちらの方はマクリーシュさんに差し上げますよ」
どの絵も百号のカンバスのものが多いため、邪魔になっていたところだという。
「ありがとう。できれば、その絵も譲ってもらえると嬉しいのだが」
ベンジャミンはクリスティーナが抱きかかえたまま離さない絵を、物欲しげに見遣った。
「これは駄目です」
きっぱりとクリスティーナは断る。
「わたしはこの絵を旅に持っていかなければなりませんから」
「その絵で描いた場所なら、もうぶどう畑もなにも残っては……」
「あなたがこの絵で描いた場所を見たいわけではないんです。この絵とよく似た風景を見たいだけです。戦争が終わったいまなら、お金さえあれば世界中を旅することができるから、二人でこの絵にある風景を探しに出掛けましょうって約束をしたんです。旦那様は亡くなってしまわれましたが、わたしは約束どおり旅に出ます」
「子供が暇潰しに描いた絵を持って?」
「はい」
クリスティーナは大きく頷いた。