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「ミリガンさん、こんにちは」
新聞紙に包んだ荷物を小脇に抱え、ベージュの帽子をかぶった十代後半の女性が画廊に現れた。ブロンズ色の外套を羽織り、焦げ茶色の手袋に黒い編み上げ靴を履いているが、どれも着古した感じだ。
画廊内に展示されている絵を眺めていたベンジャミン・マクリーシュが視線を向けると、彼女は一瞬怯んだように笑顔を引っ込める。が、すぐに作り笑いを浮かべながら帽子を脱ぐと、結い上げた栗色の髪を手で整えた。
「やぁクリス。ちょうど良いところに来たね」
画廊の主人である禿頭のミリガンが、恰幅の良い身体を揺らしながら奥のカウンターから出てくると、親しげに女性に声を掛ける。
「実は今日は、見ていただきたい物があって」
女性は持ってきた物を差し出そうとしたが、ミリガンがそれを遮った。
「マクリーシュさん。彼女がさきほど話した、ルーカスのところのメイドのクリスティーナ・ゲイルだ」
ベンジャミンの肩を叩くと、ミリガンは女性を紹介した。
「クリス。彼はベンジャミン・マクリーシュさんだ。俺もほんの十分ほど前に知り合ったばかりなんだが、ルーカスの孫だという話だ」
「旦那様の?」
クリスティーナは驚いた様子で大きく目を見開く。
どうやら彼女は亡きルーカス・バーガンディーに孫がいたことを知らなかったようだ。ルーカスの面影がないか探るように、まじまじとベンジャミンの顔を凝視する。
「はじめまして。あなたが祖父の最期を看取ってくれた方ですか。その節は、大変お世話になりました」
軽く会釈をしながら、ベンジャミンは淡々と挨拶をした。
「いえ……仕事ですから」
僅かに俯き、クリスティーナは言葉を濁す。
「十日前に新聞の慶弔欄でたまたま祖父と同じ名前を見つけ、もしやと思い、あちらこちらを訪ねて回っていたところです。昨日になって、こちらのミリガンさんが祖父の絵を扱っている画商だと知ったものですから、早速伺った次第です」
「ご連絡を怠り、申し訳ございません。ただ、旦那様はご家族のことをほとんど話されなかったものですから」
「僕も母も、祖父とは十五年以上連絡を取っていませんでしたから、お互い様です」
ベンジャミンは自嘲気味に微笑んだ。
「さきほどミリガンさんから祖父の画家としての活躍を聞いていたところです。祖父が画家として成功したという話に、耳を疑いましたよ。祖母も母も、まったく売れない絵ばかりを描いていた祖父のおかげで苦労したという話を、僕は幼い頃から散々聞かされて育ったものですから」
祖父ルーカス・バーガンディーは、画家としては一ポンドどころか一ペニーだって稼いだことがない人だった。五十代半ばまでは美術学校の教師を勤めることでなんとか生活ができていたが、戦争が始まり学校は閉校。ルーカスは失業した。その後、妻に先立たれ独り身になったルーカスは、ベンジャミンの母親との同居の誘いを断り姿を消した。
その祖父が、最近では一枚二十ポンド以上の値で買い手がつく絵を次々と描いていたというのだから、俄には信じ難かった。
「一年くらい前から、ルーカスの画風はかなり変わったからね。それ以前の絵はぱっとしないものばかりだが、最近の作品はどれも高値で売れたよ。七十歳を過ぎて、ようやく画家としての道が開けてきたとこちらも喜んでいたところだったんだがね」
ルーカスの死を惜しむように目を細めたミリガンが口を挟む。
「祖父の絵は、もうこちらには残っていないんですか?」
「ないね。全部売れてしまったよ。彼が死の直前に描き上げた油絵も、一昨日買い手がついて、引き渡してしまったよ」
「失礼ですが、その絵の代金は……?」
「全額、クリスに渡したよ。ルーカスは自分の絵をすべてクリスに遺したからね」
「メイドの彼女に?」
怪訝な表情を浮かべたベンジャミンの視線がクリスティーナに向けられる。
「クリスはただのメイドじゃない。ルーカスにとっては助手であり、看護婦でもあったんだ。彼が最後まで絵を描き続けることができたのは、クリスがいたおかげだよ」
ミリガンはクリスティーナを擁護したが、ベンジャミンは納得できなかった。老人が若い娘に遺産を残すとなれば、遺児か愛人と相場は決まっている。
「ところでクリス、用事があったから来てくれたんじゃないのか? もしかしてそれは、絵か? ルーカスの絵がまだアパートに残っていたのか?」
険悪な空気が漂い始めたのを察し、ミリガンはクリスティーナが持ち込んだ物に目を遣ると、画商の顔になった。
「これは旦那様の絵ではないと思うのですが、お尋ねしたいことがありまして」
新聞紙の包装を解いたクリスティーナは、急いで用事を済ませようと決心したのか、勢いよく捲くし立てる。
「ミリガンさんは、この風景画に描かれている場所をご存じありませんか」
新聞紙半分くらいの大きさの額縁に収められた水彩画を、ミリガンに差し出した。
画用紙に鉛筆と水彩絵具で描かれているのは、新緑の丘と晴れ渡る空、そして赤い花のようなものの群生だ。写生画のたぐいで、たいして上手いわけではない。年月を経て画用紙は日に焼けており、彩色は褪せている。
「これは……どこだろうなぁ」
額縁を手にしたミリガンが首を捻ったときだった。
横から絵をなにげなく眺めていたベンジャミンは、信じられない物を目にした驚きで息を飲んだ。
「なんで、その絵が……」
ベンジャミンが唸るように呟く。
「この絵、ご覧になったことがあるんですか」
クリスティーナが期待の籠もった眼差しをベンジャミンに向ける。
大きく頷いたベンジャミンは、上擦った声で答えた。
「僕が八つのとき、祖父のスケッチブックに描いた故郷の絵です」