瀝青
曲子……くるこ
美土……みと
夜の学校舎は羅鉱祭をひかえて寄宿徒の息遣いに膨らんでいる。電灯を弱めて密やかに準備する誰かの物音が聞こえてくるようだった。宿舎で悪戯を企てるのと違って、また相部屋での寝息を聞きながら眠るのとも異なり、活気を含んで優しく見えもする。
級友は皆寝ている筈だ。僕だってこうやって手を抜いたところで何の事はない。珍しく仏心なんかを出して級友の一人を助けるから、仕事を押しつけられるのだ。嫌々でも仕方あるまい。あらかじめ輪郭の入った絵柄に色を付けるだけの看板を更に釘で打ち付けて、教室の入口に飾る算段だが、塗料で制服が汚れるのも嫌だし、真夜中にトンカチを振るうのも気が引けた。
とにかく、こうやって寝そべってしまうほど僕の気力をそいだので、ラジオの音を聞いているだけでも良かった。彼方の灯台を目指して波間に揺れる漁船に乗り込んでいるような辺りの雰囲気と、ラジオのノイズだけが心地良いのだ。瀝青に光る波と北極星めいた灯火で、その港には僕だけの親友・自動人形が幌布の外套に身を閉ざしていたりする。もちろん僕を出迎えにね。
瀝青の彼女が教室に引き返してきたので、僕は出窓から起きた。
「理科式倶楽部から塗料をもらった。これで色付けを再開できるさ」
曲子は手提げを持って寄ってくる。
「全然進んでいないじゃない、これ」
黒板の足許に寝かされているのが色付けの看板で、床を汚さないように固い布地を敷いていた。購買部はとうに閉まっているから、彼女は校外に買い出しをしていたのだ。
両腕を腰に当て看板を見下ろす様子は怒っているようにも見えたが、軽く振り返って、
「まあ、いいでしょう」
袋から缶を取り出すが、ゴソゴソと耳に痛い。ラジオのノイズより無作法に聞こえた。投げてよこしたのは珈琲缶だった。
僕は棚から硝子瓶を取ってぬるくなった珈琲を注いだ。隠しの燐棒に火を点けると、遠い港のような寂しい匂いをさせたまま、片手で瓦斯筒を開けて熱を写した。三脚台に瓶を乗せれば即席の薬缶はできた。一人だけずるいと言って彼女も中身を空ける。
この珈琲は校舎付近の「美土」で買ってきたものだ。厚さの均一でない缶は主人の工房でこさえられ、中身の一滴一滴を垂らしてゆく。味は悪くないのだが、どこか工場を連想させて好みの分かれる場所でもあり、これも主人の作品という煎器を通した茶豆の酒は、なんだか発明に見えていた。天井から伝うレトルト管を落ちる珈琲はさながら土砂混じりの雨水だったので、品がないと陰口を叩かれていたけれども。
羅鉱祭は夏と暮れに催されるので、僕らはその準備をしている。前夜祭を含めた三日間の大祭が、年中学校舎に閉じ込められている寄宿徒らの黄昏た情熱を気化させるだけではなくて、閉じられた内側をその家族らに窺わせるためでもあった。よほどの理由がない限り、両者ともおいそれと出入りできぬほど門扉は堅い。だから内と外を成すバザールが毎年盛況で、ここぞと寄宿徒は派手に催し、家の者は我が子を見て安心する。
もともと学校舎創立に由来する聖祭であったが、暗く沈みがちとなる寄宿生活だ。その余韻は次の、また次の大祭にまで後引き、いろんな企てをする者もいた。しかし、僕らの学級は何かを創るよりも見物して回るのが性に合っているようで、他方押し付け合いになる仕事がこうして運のない者へと巡ってくる。曲子も同じだった。
瀝青の外套を被っている彼女。先ほどの僕の幻想はその色が結びついていた。
珈琲香の漂う彼女は僕の嫌いな昼間の曲子と別人に思える。教卓に腰掛けて何やら群青の固まりを光にかざしている。
温まった珈琲を缶に戻していると「三百年前の絵の具なの」、彼女が僕の鼻先に固まりを差し出した。しかし、それは群青からヨモギ色に変化していた。岩石に見えはするが、流砂のようにサラサラとしている。脆く、包んでいたハンカチが青く粉を吹いていた。
曲子が手を伸ばし固まりを覆うと群青に戻り、掌をどかすと明かりを取り込んでヨモギに変じた。
「昔の人は天気柱にこれを填め込んで、その色の具合で占いをしていたのだって。石の綺麗なのや染めた布も使われていたらしいけれど、誰かがこの絵の具の事を気付いたんだね……天にかざしながら」
彼女の父は作家だった。思いつくままに放浪し、土地の人と共に住まい、筆を進めていったという。曲子が言うには父の書くものは夢の話ばかりで退屈だというが、時々思い出したように父ゆかりの品を僕に見せた。
「枯れ井戸の最後の水分が凝固すると、水の記憶が残るのですって。土の成分によって色は様々というけれど、こういう綺麗なブルーになると記憶を宿すと言うわ。人の営みがこれに残るのですって」
床に膝まづいて曲子は青石を削り出す。既存の塗料と共に理科一式と混ぜ合わせていく。片膝を立てて珈琲をすすりながら、
「晩年、父は妄想にとりつかれていたのでしょう。そうとしか思えないの。押し売り人みたいに忘れた頃家に戻ってきて、私や母はいつも驚かされていた。弟なんて父の名ですら忘れていたのだから」
僕の手元には古びた本がある。彼女の父が書き残したもので、取材時の手帳であるという。しかし、所々おかしなものだった。その日の出来事を日記のようにして読ませるのだが、およそ現実とはかけ離れたものだった。
「僕にはなんと言って良いか分からないんだ。幻想小説だと思うのだけど、君も読んだのだから分かるだろう?」
「低俗な三文小説といった方が良くはないかしら? 父だって放浪暮らしで路銀が尽きたのだと思うわ。だから、特別な人達が好みそうなものを書いた……そうかもしれない。けれど本当は、転々と生活していたと私が思い込んでいるだけで、父の心は遠い世界に行ってしまっていたのではないかしら」
なぜ、曲子は本を勧めたのだろう。
「だって、そうじゃない? 聞いたこともない元号、文化、決して人には見せられない紀行なんて……」
曲子の父は余人未踏の郷へ迷い込んだらしい。曲子は嘘と言う。だが、この見知らぬ国の冒険は長大に書き留められている。その国への侵入から、家族制度、風俗、脱出までが厚く見聞され、表紙に『旅行記1』と記されていた。
巻頭にこの本を残すに至った経緯と、次巻へと続く断りがある。巻末に奥付と署名が薄くあり、日付に「天母年204」とあった。
まずこう書かれている――。