本当のこと
暗い道をまるで昼のような足取りでハンナは歩いた。
何とか歩ける状態のユージーンの手を引く。
「ハンナあのひとついてくるよ」
少し振り返りつつユージーンが言う。
「ほっとけ。変な人についていくとややこしい事になるのがよく分かっただろう」
「うん」
首を傾げながら幼い‘息子’は頷いた。
家に着くとユージーンはすぐに寝息を立てた。
ハンナはため息をつく。小さな頭で今日は沢山のことに混乱しただろう。そっと小さな頭を撫でる。
ふと、先ほど見た奏の顔を思い出して頭を振る。今もきっと家の外にいるだろう。
そこに、ドアがコンコンとなる。
誰かはもう分かっている。どうすべきかしばらく悩みドアを開けた。
「押しかけて悪い」
立っていたのは奏一人だった。
「入ったら」
身を引いて奏を家の中に入れる。変質者が家の前にいると騒ぎになっても困る。
「子供は…」
「ユージーンなら隣りの部屋で寝てる」
警戒心は解かないまま、キッチンのテーブルの椅子を勧める。
向かい合うように座った途端、奏の顔色が変わる。
「…ハンジは?」
「あ、ああ。置いてきた。あんまり騒ぐなって忠告されたけどな」
少し赤い顔のまま奏は黙り込む。
「・・・」
急におとなしくなった理由がわからずハンナは次のアクションを待ったが何も言ってくる様子が無い。
「どうしたんだ?」
さっきまでの血の気の多さはどこへ行ったのだろう?
何も出さないわけにいかずユージーンのために買った牛乳を二人分に注ぎ分ける。
「…いや、その、綺麗になったな、と」
突然の言葉に危うく牛乳をこぼしそうになる。
「は?」
奏の顔が真っ赤に染まる。
今更こいつは何を言ってるんだ。
「そういうことじゃなかったな。あんまり変わったからつい」
「…関係ないこと話に来たんなら帰ってくれないか」
白けたハンナの言葉に首を振った。
奏は慌てて改まった顔をしてやっと本題を口にする。
「わかってる。本名はどっちだ? あの国の諜報部員か?」
これっきりだと言い聞かせて口を開く。
「…ハンナが本名だ。私は、アンタについて行くつもりは全く無いからな」
「ハンナ、俺の事嫌いか?」
またしても唐突の言葉にハンナは固まる。
「俺の妻になるのが嫌なのか? 俺はこの五年間ハンナを忘れた事は無い」
冗談ではない真剣な顔に頭が混乱する。
好きか嫌いか、考える余裕など五年間で全く無かった。ただ、自分の前から何も言わず突然消えた奏が憎かった。
「嫌いだ。アンタの妻なんてごめんだね」
「だから、待たなかったのか?」
まるで被害者の顔で訊ねる奏にハンナは頭に血が上るのを感じた。
「待ったよ。でも、アンタは思い違いしている。急に消えて私に何も残していかなかった。伝言も手紙も。そうこうしてる間に帰還命令が来て、来るかもわからないアンタを待つなんてできないだろ。だから、私は…」
奏の顔が強張る。
「何も? 俺、お前の部屋にちゃんと紋章のプレートと手紙を…」
「なかった」
ハンナは少しだけ嘘をつく。それまで見たことの無かった小さな紋章が入ったプレート。
奏が口元を押さえる。
「…俺の従者が捨てたのかもしれん」
その言葉にハンナが顔を上げる。
「言い訳に聞こえるかもしれないが、あの頃ハンジ以外の従者はお前と付き合うことに反対していたんだ。」
苦りきった顔で告げられて、ハンナは今度は血が引いていくのを感じた。
「帰ってくれないか」
「話は終わってないだろ」
「終わった…」
終わったのだ。
この国に再び来た理由に、憎くとも奏にまた会えるかもしれないという期待もしていた。自分とつりあわなくともせいぜい地方貴族くらいだと勘違いしていた。例えば十年後に何かの縁で再会してその頃には憎さも忘れる大人になっていて。それならば、もしかすると自分と来てくれるかもしれない、などと甘い期待。
違うのだ住む世界が、他国の孤児で親が誰かもわからない私と、国王の息子では。
「急にどうした? 悪かったよ、俺がちゃんと直接お前と約束するべきだった。でも、こうして会えたんだ」
「帰ってくれ。話す事は無い」
「あるだろ。ユージーンはハンナの子供だろ? あの年頃からしてどう考えても俺の子になるぞ」
ハンナは慌てていつの間にか落ちていた目線をあげる。
「ユージーンは渡さない。あの子は私の子供だ、誰の子供でもない」
「奪おうなんて思ってない」
ハンナの気が立ってきているのを感じて奏は声を和らげる。
「どうしたんだ? 俺は素直にユージーンが俺の子供で嬉しい」
「子供が…子供を育てる大変さなんて分からないくせに!」
「側にいてやれなくて…ごめんな」
奏がハンナの頬に手を伸ばす。
気付いたハンナは慌てて立ち上がった。
不覚にも奏のペースに巻き込まれそうになる。自分は奏を恨んでいなければならないのに。その上、淡い期待さえも身分不相応だとわきまえたばかりなのに、奏を目の前にして昨日までの憎いという感情がどこかへ消えていきそうだった。
「ユージーンは私が立派に育てるから心配要らない。もう王都へ帰れ」
奏に背を向けて告げる。ハンナを探すために費やした五年を早く王都へ帰り取り戻すべきだ。
奏の立ち上がる音が聞こえ、ハンナは息をついてそのままユージーンの様子を見に寝室へと体の向きを変えた。
「そんなの聞けるわけないだろう」
急に背後から降ってきた声にハンナは顔を向ける。その事をすぐさま後悔した。
ハンナの唇はあっさり奏に奪われていた。抵抗しようにも奏に強く抱きすくめられて動けない。昔からそういうやつなのだ。
決して短くないの拘束から開放されるとハンナの拳は奏の頬に吸い込まれた。
「最低」
うっすら涙を浮かべたハンナに睨まれて、頬を押さえつつ奏は肩をすくめた。
「全くだ。五年かけて見つけ出した最愛の人からこんな仕打ち受けるなんてな」
「私は嫌いだと言っただろう。それにこんな小汚い小娘を連れて帰ってどうする。笑い者だぞ」
「俺は連れて帰るからな、二人とも。俺を嫌いなんて嘘だろう? だから今もそんなに泣きそうな顔をしてるんだ」
奏の手があっさりとハンナの頬に触れる。
ハンナは避けることもせずに毅然と顔を上げた。精一杯の冷たい声音で告げる憎憎しさいっぱいに。
「出て行け。二度と目の前に現れないでくれ、じゃないと私は…」
奏について行ってしまう。目の前の優しさに飛び込んでしまう。そんなことは絶対にしては行けない。
「…そんなに、俺が嫌いか? 二度と会いたくないほどに、震えるほどに嫌いなのか」
僅かに震え始めていたハンナの頬から手を離すと、奏は身を翻した。
「そんなに簡単に諦めないからな。明日また来る」
ドアのバタンという音と共に奏は消えた。
「…は…皇子らしくない皇子様…」
気が抜けてずるずると床に座り込む。しばらく立ち上がれそうにも無い。
最後に見た奏の傷ついた顔が瞼に残っている。
憎いと思っていたのに今日、気付かされてしまった。自分は、奏の事がまだ好きだという事に。そして、自分だけだったら付いて行ってしまうかもしれないという危ない状態にも。
自分には、そんな事絶対出来ないことがわかった。ユージーンがこの大国の皇子に血縁の上ではなっているのだ。
権力という物が暴走するとどうなるのか、幼少からの経験でよく知っていた。まして、皇子候補ではどんな陰謀に巻き込まれるのか想像がつかない。そんな所にユージーンは決して連れて行かない。
ハンナは、自分の身体を強く抱きしめた。
誰よりも、ユージーンの小さな手を守ろうと決意した。
悔しいけれどお守りにしてきた奏にもらった鈍い色の紋章のプレートとユージーンの笑顔があれば十分だ。
「さて、と準備しないと」
ゆっくりハンナは立ち上がった。
こうして冒頭の逃亡につながるのです。
思ったよりも話数が多くなりました。
奏の執念が実るのか、自国軍と奏からハンナが逃げ切るのかはいつか書きたいですね。
補足ですが、ハンナとユージーンが軍から逃げた理由はユージーンが奏の子供だとばれていて外交に利用されそうな気配をハンナが察したからです。
ここまでお読みいただいてありがとうございました。