第三章ー平和に微睡む
香ばしくて、少し苦い、コーヒーの香り溢れる空気を、きよは胸いっぱいに吸い込む。
「アイスコーヒー、Mで」
オーダーをすると、いつもの席に向かう。窓際で優しい日差しに包まれながら、出来たてのアイスコーヒーを口に含む。
某チェーンカフェ。昼過ぎ夕方前の微妙な時間にくつろぐ。そんな些細な事に幸せを覚える。
平和であった。子供達が走り去っていく。笑い声。賑やかな喧騒。
「~♪」
買ったばっかりの音楽雑誌を広げて、さらに上機嫌になる。そのまま上機嫌に拍車がかかり、ヘッドフォンをつけて音楽を楽しむ。
「良いねぇ~、やっぱり」
曲が終わって前のめりになってた身体を、背もたれに預けると、
「何が良いのかしら?」
「……」
赤いドレスが目に映った。
俺の平穏な休日を破壊するには充分な悪魔がいた。コイツも少なくとも俺の心に対して害悪な悪魔なのに、なんでコイツは殺してはいけないんだろう、と本気で考えると、取り合えず我関せず。見えてません、聞こえてませんを貫く。
だって、お店の人に知り合いだなんて思われたくないし。こんな赤いドレス着て、スーツの男を両サイドに従えている女なんて。ヤバい感じ全開じゃないか。
すると、急にヘッドフォンの音が遠退く。何事かと思うとスーツの男の片方がヘッドフォンを手に持っている。
「……何、しやがる、テメェ」
イラっとした。ヘッドフォンからジャカジャカと音が漏れてる。音漏れが鬱陶しく感じたきよはオーディオの電源を落とす。すると、スーツの男がヘッドフォンをきよになげやる。
きよがヘッドフォンを大事そうにキャッチすると、男が犬だ犬だとせせら笑う。
「……」
この女、殴られた腹いせにこんな事をしやがるのか。きよは近くに立て掛けてた刀の入った袋に手を伸ばす。
「テメェは俺の平穏な休日すらブッ壊すのか」
暴れる気はないが、もうすぐにここを立ち去りたい気分だった。お店の人が、迷惑そうな目線を送ってくるのが、本当に辛かった。
ゴッ、と瑠衣のヒールが男の足の甲を踏みつける。
「痛っ!」
男が屈むと、瑠衣は静かに言う。
「きよくんに謝りなさい」
ヒールをさらに捻り込む。
「痛痛痛痛っ!すみません、すみません!!」
「もう二度と、こんな事しないように、肝に命じなさい」
「……」
ポッカーン、きよは刀に手をかけた中途半端な姿勢で、阿呆のようにその光景を眺める。
なに?
それが、今のきよの精一杯の心情である。
「ごめんなさいね、きよくん。私は別にあなたの邪魔をしようと来た訳ではないの」
謝った!!きよはあまりの衝撃に目を丸くする。
「……お前、なんか悪いもん食ったのか?」
「今日のモーニングは最悪だったわ。シェフが代わったから仕方ないのだけれど、私好みでないのだもの」
「……シェフ、ねぇ」
さすが富豪。やること、出てくるものが違う。まさかシェフなんていってくるとは、夢にも思わなかった。
自分好みの味付け。そんなもの、きよにはまったく理解出来ない。食事は外食か、インスタントくらいだ。自炊は面倒臭くてやらない。
確かに、住んでる世界が違う気がした。いや、というか、少なくともコイツみたいなのは希少種のハズだ。だって富豪だし、ときよは独りでうんうんと頷く。
「で、何が良いのかしら?」
話を冒頭に戻された。きよは黙ってそっぽを向く。向かいの席に瑠衣が無断で座るのが解る。本当、いちいち堪にさわる女だ。
「聞こえてないのかしら?大きな音をヘッドフォンで聴いてばかりいると難聴になるそうよ」
「……なんなんだよ、お前は」
何がしたいのか、きよには検討もつかない。何故急に自分が良い、と言い出したものに興味を示しているのか。
仲良くなるためには相手の事を少しでも知ろうと瑠衣は思いたち、このようにおしかけたのだ。
その気持ちは哀れみ。不幸な彼に対する同情。
そして、それだけのものを背負いながらも悪魔という過去に挑むその姿勢に対する、尊敬。
そんな事、露程も知らないきよは、警戒する。疑い深い視線を送る。
「黙っていては解らないわ。何が良いのか、教えて頂けない?」
しかし、結論は特に何も企んでいない。それだった。何せ長い付き合いだった。瑠衣がしつこく言う事は本心。いつも適当な事ばかり言っている彼女の見極め方だった。
「……こういう、感じが良いんだよ」
結局折れる。いつまでたっても敵意も感じない。無視を突き通す事が出来なかった。
「こういう、感じ?」
「なんだよ」
「こういう感じとは、どの事をさしてるのか、具体的に聴けないかしら」
「……うけい……」
「……?」
「平和な風景だよ。チェーンカフェでコーヒー飲んで、音楽聴いて、雑誌見て、それで表を子供が、楽しそうに笑いながら走ってく。こういう感じってのはそういう事だよ」
口に出すと少し恥ずかしくなり再びそっぽを向く。瑠衣が面食らってるのが気配だけで解る。いや、予想だけでも充分過ぎる程だった。
「……意外だわ」
何が、と顔を向けずに問う。だって、と笑っているのが解る。
「きよくんは乱暴で短気で、粗野だから、そんな『こういう感じ』とは、無縁だと思っていたの」
フフフ、と笑うのを堪えているが、もはや声が零れている。
等々力からの話を聞いた後、きよが聖十字軍にいるのは悪魔崇拝に対する復讐と贖罪だと思い込んでいたが、見当違いだった。
きよは純粋に平和な風景が好きだった。それを守る術を、殺しの業しかしらないと思っているに違いないだろう。
「ねぇ、きよくん」
「……なんだよ、オヒメサマ」
「あなたのそれが欲しいの。どうやって頼めば良いかしら」
言いながらきよの飲んでいるアイスコーヒーを指さす。とんだお嬢様であった。オーダーの仕方が解らないとは。
「……」
きよは黙ってカウンターに向かう。レジに立ってた店員が、哀れみの視線を送ってくる。それには一切触れず五月蝿くてすみませんとだけ謝罪して席に向かう。
「ほら」
ミルクとガムシロップを三つずつくらいと一緒にコーヒーを瑠衣の目の前におく。
「ありがとう、いくらかしら?」
「お前じゃ出せない」
「バカにしないでくれる?現金だって持ち歩いてるのよ?」
「なら200円、出してみせろ」
「え」
瑠衣はスーツの二人から慌てて財布を受け取り、中を覗くが、滑稽にも、札入れを覗くばかりだった。
「お嬢、200円は小銭入れです」
スーツの片方がそういうが、きよの耳は異常に良い。小銭の音がしないのを見抜いていた。
普段金を出す習慣などないのが目に見て解る。大方いつもクレジットしか使っていないのだろう。
「出せねぇだろ?」
「……そのようで」
きよが得意気に言うと、瑠衣は悔しそうに頷く。きよの言う通りなのが悔しいのだろう。
「早くのめよ」
言いながらきよは自分の分を嫌味ったらしく飲みきってしまう。瑠衣が忌々しげに睨む。
「……」
瑠衣が、コーヒーを口に運ぶ。成程。きよは頷く。さすがお嬢様、チェーン店のコーヒーでも高級感が出る。
「……なんなのかしら、これは」
そのしかめっ面は恐ろしいものだった。
「雑味が凄いし、入れたばかりなのに、酸化して味が壊れてるわ」
「それがチェーン店のコーヒーさ。それがまた良いんだ」
「きよくんはコーヒー通っと聞いてたんですがね」
「そうだよ。コーヒーの味を楽しむなら他にもいくらでも店はある。けど、俺が行きたいのはそんな店じゃない。ここで楽しめるのは雰囲気、風景、空間だ。もう少しこの空間を堪能して見たらどうだ?」
「キサマ」
控えてた男達が身を乗り出す。するときよは、
「とりあえず、お前の後ろにいる二人がさっきからこの空気を壊していてしょうがないんだけどな」
「下がりなさい、齊藤、田島」
きよが言うと、すかさずに瑠衣が言う。男達は、瑠衣の言葉を聞くと、しかし、とごねるが、すぐに追い返される。
「よく教育されてる犬だな」
きよが二人に聞こえるように言う。先刻の意向返しだが、この空間においては瑠衣というバックがいる。男達は瑠衣に睨まれて静かに外に出ていく。
「今のは感心しないわ、きよくん。あなたの発言はこの空間を損うものじゃないの?」
「よく解ってるね。だけど、そんな事はない。人間、なくなったものには興味しかない。トラブルがないなら、当然ね」
確かに興味の視線は感じるが、迷惑がってはいないようだ。
そして、瑠衣もその平和な空間を楽しむ。
「成程。確かに、良いわね」
不味いコーヒーも、そういう雰囲気の中だと、味も変わってくる気がした。自然と、瑠衣の顔に笑みが零れる。
しかし、きよは急に顔に顔色を変える。目が鋭くなり、冷たさを帯びる。そして、荷物をひったくると、表に飛び出す。
「きよくん?」
慌てて瑠衣が表に出てくる。きよは、振り返りもしなかったが、一言だけ呟く。
「悪魔だ」
呟くと、すかさず走り出す。その足は異常に速い。入り組んだ路地を、塀や屋根の上を飛び越えて直線距離で、目的地まで駆け抜ける。
そっとビルの合間から顔を覗かせて、ターゲットを見極める。
黒いもやを纏った、悪魔がいた。