第1章「条例施行後のキンシ町」
はるか昔、ソクラテスは言った。
「悪法もまた法なり」
現代でも、それは変わっていないようだ。
スミダー区の区長、田貫緑子は、区民ファーストを掲げ当選した後、ある条例を施行した。
吉田誠太郎(52)は、今夜もキンシ町駅のガード下にある居酒屋「天狗」に立ち寄った。
午後7時。
仕事帰りのサラリーマンたちで賑わう時間帯。
いや──「賑わっていた」時間帯、だ。
吉田は、暖簾をくぐった。
店内。
カウンターに10人ほどの客。
テーブル席に数組。
吉田は、その光景に違和感を覚えた。
テーブル席では、20代の女性グループが笑い声を上げている。
「ねえ、この前の合コンさ!」
「あー! あれマジでヤバかったよね!」
「だよね〜! あの人のLINE、まだ返信してないんだけど」
キャハハと笑い声。
別のテーブルでは、若い男性サラリーマンたち。
「いやー、今日のプレゼン、最悪だったわ」
「お疲れ! でも、部長の反応良かったじゃん」
「マジ? そうかな?」
彼らは、普通に話している。
普通に笑っている。
でも──
カウンター席の中年男性たちは、誰も話していない。
シーン。
聞こえるのは、グラスが氷に当たる音だけ。
全員、スマホを見つめながら、黙々と酒を飲んでいる。
吉田は、その異様な静けさに、まだ慣れていなかった。
(1年前まで…こんなじゃなかったよな)
***
1年前。
条例が施行される前。
このカウンター席は、「音」で溢れていた。
おじさんたちが大声で談笑。
「いや〜、今日の会議、マジでキツかったわ!」
「わかるわかる! うちの部長もさ〜」
「ははは! 部長なんてまだマシだって! うちなんてさ!」
ガハハと笑い声が響く。
常連のおじさんが店主と世間話。
「マスター、今日も大谷大活躍だな!」
「ああ! いい試合だった!」
「だろ? あのホームランはさ〜」
ここは、居酒屋だった。
年齢や性別に関係なく、人が集まり、語り合い、笑い合う場所だった。
でも、今は──
おじさんだけが、話さない。
おじさんだけが、笑わない。
若者や女性は、変わらず賑やか。
でも、中年男性だけが、まるで口を塞がれたように静かだ。
***
吉田は、カウンターの端に座った。
「生ビールください」
「はい」
店主も、必要最低限の言葉しか発しない。
吉田の隣に、50代くらいの男性。
スーツ姿。
疲れた表情で、ハイボールを飲んでいる。
吉田は、スマホを見た。
画面には、可愛らしい女の子のキャラクターが微笑んでいる。
ピンク色の髪。大きな瞳。
マナミちゃん
スミダー区民全員に、インストールが義務付けられている監視アプリだ。
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マナミちゃん 今日も快適な1日を♪
【今月の検知履歴】 武勇伝予兆: 2回
独り言過剰: 1回
【今月の通報履歴】 0回
【累積通報回数】 28回
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28回。
吉田は、その数字を見つめた。
(あと2回で…30回)
累積通報30回を超えると、何が起きるか。
吉田は知っている。
地下矯正施設「リボーン」への強制送致
3ヶ月間の再教育プログラム。
同僚の田中が、先月そこに送られた。
戻ってきた田中は、別人のようだった。
完璧な姿勢。
完璧な笑顔。
でも、目が死んでいた。
***
生ビールが運ばれてきた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
吉田は、グラスを持ち上げた。
そして、一口。
プハー、と息を吐きたかったが、我慢した。
「飲酒時の過剰な音声発生」も、通報対象だ。
隣のテーブルから、女性グループの笑い声。
「ちょっと! それ言っちゃダメでしょ!」
「いいじゃん! ここだけの話!」
キャハハ。
彼女たちは、自由だ。
何を話しても、通報されない。
テレビが、ニュースを流している。
音量は小さい。
「スミダー区の快適性指数、過去最高を記録」
画面に映るのは、スミダー区役所。
そして、区長の顔。
田貫緑子(45)
吉田は、その顔を見つめた。
この女が、すべての始まりだ。
***
スミダー区男性公衆マナー維持条例
施行から、ちょうど1年。
通称「おっさん排除条例」。
目的は、シンプル。
「公共空間における不快な男性行動の根絶」
対象は、45歳以上の男性……だけではない。
年齢に関わらず、「おじさん的言動」をする全男性が処罰される。
田貫区長は、条例制定の演説でこう言った。
「私は、毎日電車で不快な思いをしています」
「ガー、ペッ、ズズッ」
「武勇伝、求められていないアドバイス」
「これらは全て、特定の年齢層、特定の性別に集中しています」
「データが証明しています」
「もう、我慢する必要はありません」
その演説は、大きな支持を集めた。
特に、若い女性と、若い男性から。
SNSには、賛同の声が溢れた。
「やっと! 本当にやっと!」
「田貫区長、神!」
「これで電車が快適になる!」
反対したのは、50代以上の男性議員だけだった。
でも、彼らの声はかき消された。
条例は、圧倒的多数で可決された。
***
吉田は、ビールを飲み干した。
「すみません、もう一杯」
「はい」
隣の男性が、小さくため息をついた。
吉田は、その男性を見た。
目が合った。
男性も、疲れた目をしている。
(この人も…きっと同じなんだろうな)
二人、何も言わずに視線をそらした。
背後から、また笑い声。
「ねえ、次どこ行く?」
「カラオケ行こうよ!」
「いいね〜!」
女性たちは立ち上がり、楽しそうに店を出ていく。
吉田は、その後ろ姿を見送った。
(俺たちだけが…)
(なぜ、俺たちだけが…)
***
翌朝。
吉田は、キンシ町駅のホームに立っていた。
午前8時15分。通勤ラッシュのピーク。
ホームには、黙って並ぶサラリーマンたちの列。
電車が滑り込んできた。
ドアが開く。
吉田は、車内に乗り込んだ。
満員電車。
吉田の隣に、若手社員の小林大地(27)が立った。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
吉田は、小林に話しかけようとした。
昨日、大きな商談があった。
小林が担当だったが、少し失敗があった。
吉田は、アドバイスしてあげようと思った。
「なあ、小林」
「はい」
「昨日の商談だけどさ──」
小林が、微かに表情を曇らせた。
吉田は気づかなかった。
「俺の経験から言うとな、ああいう時はさ──」
その瞬間。
ピピピピッ!
吉田のスマホが、ポケットの中で震えた。
同時に、周囲の乗客たちのスマホも、次々と通知音を鳴らす。
ピロン。
ピロン。
ピロン。
吉田は、慌ててスマホを取り出した。
画面に、大きく表示される赤文字。
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マナミちゃん検知
違反行為を検出しました
【武勇伝予兆】91%
【求められざる助言】87%
このまま続けると通報される可能性があります
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吉田、息を飲んだ。
(え…? 俺、何か言ったか?)
周囲の乗客たちが、吉田から距離を取り始めた。
まるで吉田が、伝染病患者のように。
小林も、申し訳なさそうな顔で、一歩後ずさった。
吉田は、小林のスマホ画面がチラリと見えた。
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近くで違反行為を検知
半径5m以内
【武勇伝予兆】91% 【求められざる助言】87%
不快に感じましたか?
[通報する] [通報しない]
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小林の指が、画面の上で迷っている。
吉田と、目が合った。
小林は、視線をそらした。
そして──
タップ。
ピッ。
吉田のスマホが、再び震えた。
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通報されました
【違反内容】 ・武勇伝展開行為
・求められざる助言行為
【過料】 3万円
【支払い】 マナー警察隊が向かっています
到着後、その場で決済してください
【累積通報回数】 29回 → 30回
警告:累積30回を超えました
次回通報で矯正施設送致の対象です
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吉田は、呆然とした。
(30回…)
(次…通報されたら…)
車内アナウンスが流れる。
「当該車両内で、条例違反行為が検知されました。快適性指数が一時低下しましたが、現在回復しております。スミダー区男性公衆マナー維持条例にご協力いただき、ありがとうございます」
周囲の乗客たちが、安堵の表情を浮かべる。
誰も、吉田を見ない。
誰も、声をかけない。
ただ、距離を取る。
***
1分後、次の駅。
ドアが開くと、紺色の制服を着た2人の警察官が乗り込んできた。
胸に、エンブレム。
「スミダー区マナー警察隊」
警察官の一人が、タブレットで車内をスキャンする。
画面に、乗客たちの顔が次々と認識されていく。
そして──
吉田の顔で、赤い枠。
ピピッ。
警察官が、吉田に近づいた。
「吉田誠太郎さんですね」
周囲の視線が、一斉に吉田に集まる。
吉田は、小さく頷いた。
「……はい」
警察官が、タブレットを向ける。
画面には、吉田の顔写真と、違反内容が表示されている。
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吉田誠太郎(52)
【本日の違反】 08:17 武勇伝展開行為
求められざる助言行為
【発話内容】 「俺の経験から言うとな、
ああいう時はさ──」
【AI判定】 主語「俺」使用: 不適切
「経験」言及: 武勇伝予兆
「ああいう時」: 上から目線
総合判定: 違反
【過料】 3万円
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警察官が、淡々と告げる。
「スミダー区男性公衆マナー維持条例違反です。武勇伝展開行為、および求められざる助言行為。過料3万円をお支払いください」
吉田は、何も言えなかった。
(俺…何したんだ?)
(ただ、アドバイスしようとしただけなのに)
警察官が、続ける。
「その場で、決済をお願いします」
吉田は、震える手でスマホを取り出した。
警察官のタブレットに表示されたQRコードを読み取る。
決済画面。
3万円
吉田は、[支払う]ボタンをタップした。
ピッ。
「決済完了しました。今後、ご注意ください」
警察官は、次の車両へ移動した。
***
車内に、静寂が戻る。
でも、吉田の周囲だけは、明らかに空間が空いている。
半径1メートル、誰もいない。
吉田は、小林を見た。
小林は、視線を合わせられない。
スマホを見つめたまま、黙っている。
吉田は、何も言えなかった。
***
次の駅で、吉田は降りた。
ホームの電光掲示板に、メッセージが流れる。
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快適なスミダー区を、みんなの手で
スミダー区長 田貫緑子
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吉田は、その名前を見つめた。
田貫緑子
この条例を作った女。
45歳。スミダー区長。
吉田は、改札を出た。
駅前の広場。
そこにも、スローガンが掲げられている。
大きな看板。
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スミダー区は、日本一快適な街へ
【おっさん行動、ゼロ宣言!】
みんなで作ろう、静かな街
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その下に、可愛いマナミちゃんのイラスト。
笑顔で、ピースサイン。
吉田は、それを見上げた。
そして、小さく舌打ちしそうになって──
慌てて飲み込んだ。
舌打ちも、通報対象だ。
「威圧的態度行為」に分類される。
吉田は、スマホを見た。
画面には、マナミちゃんが微笑んでいる。
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今日も1日お疲れさまでした♪
【本日の通報】1件
【累積通報】30回
次回通報で矯正施設送致です
十分ご注意ください♪
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吉田は、ため息をついた。
(明日から…どうすればいい)
(何も話さず、誰とも関わらず)
(ただ、息をひそめて生きるのか?)
その時、スマホに新着通知。
会社の同僚グループLINE。
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田中さん、
矯正施設でのプログラムを終了し、
明日から出社予定です。
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吉田は、そのメッセージを見つめた。
田中。
先月、矯正施設に送られた同僚。
戻ってきた田中は、どうなっているのか。
吉田は、そこで何が行われているのか、知らない。
でも──
(俺も、あと1回で…)
吉田の指が、震えた。
画面の向こうで、マナミちゃんが微笑んでいる。
可愛い笑顔。
でも、吉田には、その笑顔が──
何か、別のものに見えた。
吉田は、夜空を見上げた。
キンシ町の街並み。
遠くに見える、駅前のビル。
あの9階建ての建物。
最上階に、天空湯の看板が見える。
(もう、あの場所にしか、自由はないのか……)
※この物語はフィクションです。
実在の人物・団体・地名とは、”一切”関係ありません。




