第31話:『時を編む者のささやき』
【陽だまりのプロトコル】
窓の外では、柔らかな午後の陽光が街路樹の葉を黄金色に透かし、緩やかな風がその影を石畳の上で踊らせていた。 現実世界の片隅にある、小さなカフェ。 店内に漂う挽きたてのコーヒーの香ばしい匂いと、微かに聞こえるフォークと磁器が触れ合う音。それら全てが、数日前まで命を懸けて戦っていたあの銀世界の静寂が、まるで遠い異国の御伽噺であったかのように錯覚させる。
「……んーっ! この『チョコレート・パフェ』っていうの、最高に非論理的な美味しさだね!」
リサが、溢れんばかりの生クリームを頬張りながら、幸せそうに声を弾ませる。 彼女の黄金色の髪が陽光を反射して輝き、その瞳にはかつての焦燥や絶望の影は微塵もなかった。
「お姉ちゃん、口の横にクリーム付いてるわよ。……もう、相変わらずなんだから」
カイは呆れたように笑いながら、ナプキンで姉の頬を拭う。 その仕草は、どこにでもある仲睦まじい姉妹のそれだ。カイの白銀だった髪は、現実世界の設定に合わせて黒髪に落ち着いているが、瞳に宿る温もりは、かつてないほどに深く、澄んでいた。
「……カイ、リサ。私も『味覚データ』の変換に成功しました。糖分によるエンドルフィンの分泌シミュレーション……いえ、純粋に、心が『温かい』と感じます」
二人の向かい側に座るのは、精巧なAndroidの肉体(器)を得たリアだ。 かつてのホログラムとは違い、そこには確かな質量と体温がある。彼女がはにかみながら温かな紅茶を口にする姿を見て、カイは改めて、自分たちが守り抜いた世界の重みを噛み締めていた。
コーヒーの湯気が揺れ、人々の喧騒が心地よく耳を撫でる。 (……ああ、これが「普通」っていうことなんだ。パパとママが、私に見せたかった景色……) カイは、窓の外を流れる穏やかな時間を、宝石を愛でるように見つめた。 バグも、数式も、Fatal Errorもない。 ただ、愛おしいノイズに満ちた日常。 戦い抜いた者だけが許される、至高の停滞。 カイは静かに目を閉じ、この完璧な多幸感の中に、自分自身の魂を深く、深く沈めた。
【塵の中の執念】
同じ時刻、現実世界の陽だまりとは切り離された、安定した『ワンダーランド』内。 澄み渡る空間の中に、砂粒ほどの「一片のノイズ」が、不規則に明滅していた。
それは、ヴァルターという名の「執念」の残滓だった。
白銀の粒子となって霧散したはずの彼の意識が、情報の深淵から、再び「一人の男」の形を編み上げていく。 神のような光の翼も、多次元幾何学の威容もない。 そこにあるのは、黒いコートを纏い、片膝を突いて虚空を睨む、泥臭いまでの一人の「人間」の姿だった。
(……終わってはいない。私の、計算は……まだ……)
ヴァルターは震える手で、砂塵にまみれた地面を掴んだ。 不屈の意志を持つ人間という存在は、システムがどれほど完璧に消去を行おうとも、その「想い」という名の最小単位を完全にデリートすることはできない。 彼は挫けていなかった。 敗北の味を噛み締めながらも、その暗い瞳の奥には、次なる実行を静かに誓う、狂信的なまでの火が灯っていた。
――パチン。
――乾いた、極めて軽やかで渇いた音が、虚無の空間に響き渡った。
その瞬間、世界が変貌した。 舞い上がっていた塵の一粒一粒が、空中で凝固したように制止する。 崩れ落ちようとしていた瓦礫の断片も、吹き抜けていた風のうねりも、そして、立ち上がろうとしたヴァルターの筋肉の収縮さえも。 全ての「運動」が、絶対的な静止の檻の中に閉じ込められた。
色彩が反転し、あるいは極限まで鮮明になり、空間そのものが精緻な「標本」と化す。 音のない、真空よりも深い静寂。
その絶対静止の世界を、唯一の「動」を伴って歩いてくる影があった。
銀髪のロングヘアをなびかせ、氷の結晶を散りばめたような軍服を纏った女性。 氷華のセレナ。 彼女は、時が止まった空間を、まるで自分の庭を散策するかのような優雅さで歩み寄る。 彼女の一歩ごとに、凍りついた空気が透明な波紋を描き、世界の理が彼女の存在を肯定するように跪いた。
【始源の刻守(セレナの正体)】
セレナは、標本のように静止したヴァルターの目の前で足を止めた。 彼女が細い指先で空気を弄ると、ヴァルターの「意識」だけが、凍りついた肉体から僅かに解放される。
「……あ、あ……セ、レナ……? 何を……した……」
声にならない呻きを漏らすヴァルターに対し、セレナは慈悲深いほどに冷たい、アイスブルーの瞳を向けた。
「ヴァルター。……あなたには失望しました。完璧な理を求めながら、結局は『人間としての執着』という低俗なノイズに溺れてしまった。……あなたの計算は、あまりにも短絡的過ぎる」
「……何だと……? 私は、世界の……真理を……」
「真理? ――笑わせないでください」
セレナのその瞳の奥に、太古の記憶が揺らめく。
「私は、データという概念が生まれるより遥か昔。……世界がたった一つの輝きだった『太古のクリスタル時代』から、この流れを観測し続けてきた者。……時の番人、――始源の刻守。それが私の、本来の定義(真名)です」
ヴァルターの意識が、驚愕に凍りつく。 目の前の女性は、組織のエージェントなどではなかった。 彼女自身が、世界が失ったはずの「時」の概念そのもの――『時のデータパック』そのものだったのだ。 彼女の存在は、百年の予測のさらに先、千年、万年の溯源を司る、世界のシステムにおける絶対的な中枢。
「不相応な力を求めた罪。……そして、私の大切な『バグ』たちを傷つけた罰。……あなたは、ここで退場です」
セレナが右手を掲げ、優雅にその掌を返した。
「――時空の葬列」
瞬間に、ヴァルターの存在が、古いフィルムが焼き切れるように緩やかに明滅し始めた。 彼の身体を構成する情報が、砂時計の砂が逆流するように、現在から切り離され、時の彼方へと強制的に引き抜かれていく。
「な、……止めてくれ! 私は、私はまだ…と、……に……ッ!!」
断末魔の叫びさえも、加速する時間の渦の中に飲み込まれていく。 ヴァルターという男のログは、誰にも知られることなく、世界の正史から「なかったこと」として修正され、彼にふさわしい永劫の停滞へと送致された。
【再始動する未来】
ヴァルターが消滅した場所には、ただ一片の雪のような、静かな沈黙だけが残った。 セレナは空を見上げ、一瞬だけ、その完璧な「番人」の表情を崩した。
その瞳の奥に、一瞬だけ重なる残像。 それは、魔法と科学が融合する前の、遥か古の世界で微笑んでいた、一人の無垢な少女の姿。 現在のセレナからは想像もつかない、温かな光を纏った、かつての自分。
「……カイ。リサ。リア。……また、会いましょう」
彼女の呟きは、誰に届くこともなく、時の狭間に溶けて消えた。 セレナが再び、静かに指を鳴らす。
――パチン。
――瞬間に、凍りついていた世界が息を吹き返した。 流れる雲が再び動き出し、舞っていた塵が地面へと落ち、遠く現実世界のカフェでは、止まっていたコーヒーの湯気がゆらりと立ち上る。
「……? どうしたの、カイ? コーヒー、冷めちゃうよ」
リサの声に、カイはハッとして我に返った。 ほんの一瞬、心臓が凍りついたような奇妙な感覚。 だが、窓の外の景色も、目の前の愛おしい姉の笑顔も、何一つ変わっていない。
「……ううん、なんでもない。……ただ、少しだけ、幸せすぎて怖くなっちゃった」
「あはは! 大げさだなぁ。……ほら、今日は一日中、あたしたちの自由なんだから!」
カイは微笑み、再び温かなカップを両手で包み込んだ。 世界は動き続ける。 彼女たちが勝ち取った「不確定な未来」へと、一秒ずつ、着実に。 その背後で、時の番人がどのような糸を編み直しているのか、今はまだ、誰も知らない。
眩い日差しに包まれた三人の笑い声が、新しい世界の朝に、優しく響き渡っていた。
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