第28話:『ノイズの連帯(ソリダリティ)』
【盾となるノイズ】
視界を埋め尽くす白銀の虚無。 ヴァルターの指先から放たれる「絶対的な正解」が、私の存在そのものを情報の塵へと分解しようとしていた。 (……ああ、もう、何も聞こえない。何も見えない……) 意識が真っ白に塗り潰されようとした、その時だった。
「――いつまで寝ぼけてんだよ、このドジっ子ぉぉ!!」
爆鳴。 鼓膜を震わせる野性的な叫びと共に、白銀の静寂が、荒々しい黄金の閃光によって力任せに引き裂かれた。
「……え?」
私の瞳に、色彩が戻る。 目の前に立ちはだかっていたのは、眩いばかりのプラズマを撒き散らす、小さな、けれどこの世界で誰よりも頼もしい背中だった。
「リサ……お姉ちゃん……?」
「やっと目え覚ましたか。……ったく、何がアポテオーシスだか何だか知らないけどさぁ!」
リサは黄金の炎を纏った拳を振り上げ、迫り来るヴァルターの光の奔流を、真っ向から殴り飛ばした。 物理法則を書き換える神の力が、彼女の「ただの根性」の前に一瞬だけ歪み、弾かれる。 ヴァルターの背後に展開された多次元幾何学の翼が、想定外のエラーを検知したように不規則なノイズを走らせた。
『……理解不能ですね、リサ。私の調律は完璧だ。君のその、定義の定まらない粗雑な熱量に、私の数式を阻む権利などないはずですが』
神となったヴァルターが、初めて僅かな、氷のような「苛立ち」をその銀河の瞳に宿す。 だが、リサは鼻で笑い、黄金のプラズマをさらに激しく励起させた。
「理屈じゃねーんだよ、クソ眼鏡! あたしが『うっせぇ』って思ってんだから、あんたの理屈は全部間違いなんだよ! どきな、あんたの透かした数式ごと、あたしがブチ抜いてやるから!!」
それは論理への冒涜。神への不敬。 けれど、その圧倒的な非論理性が、死にかけていた私の心に、数式にない温度を叩き込んだ。
リサが激しい熱風を巻き起こしながら、私の肩を力強く掴んだ。 その手のひらから伝わってくる、火傷しそうなほどの熱量。 十年前の冷たい研究所の記憶。ヴァルターの凍てつく視線。それら全てが、この「生身の体温」によって、ボロボロと剥がれ落ちていく。
「……ダメだよ、お姉ちゃん。私は、バグなの。……パパたちが遺してくれたこの力も、私がバグだから……結局、壊すことしかできなくて……」
「バカじゃないの!? あんたが抱えてるその「愛されない呪い」なんて、あたしが全部上書きしてやるよ!」
リサの瞳が、至近距離で私を射抜く。
「いい? バグだからこそ、あたしたちは自由なんだよ! 完璧な数式は、決まった答えにしか辿り着けない。でも、バグだらけのあたしたちは、どこにだって行けるし、何にだってなれる。……あんたを「愛されない汚点」だって決めたのは、あそこにいる計算しかできない寂しい神様だけでしょ?」
心臓が、大きく跳ねた。 「愛されないバグ」。 それをリサは、「自由の証明」という新しい定義へと、力ずくで書き換えてしまった。
「あんたは、世界で一番誇らしい、あたしの……あたしたちの「愛すべき欠陥品」なんだよ。――立て、カイ!! あんたのデバッグを見せてやりな!!」
涙が、頬を伝った。 けれど、それはもう、絶望の雫ではなかった。 リサがくれた温度が、私の凍りついた演算回路を、最高速度で再起動させていく。
(……ああ。そうか。……私は、バグでいい。……いいえ、バグだからこそ、私は彼に勝てるんだ)
【神の解体】
私は立ち上がった。 折れていたはずの心が、リサの雷を燃料にして、今まで以上に鋭く研ぎ澄まされていく。 銀髪の隙間で、私の瞳がシアンの閃光を放った。
「……リア。聞こえる?」
『――ええ、いつでも。……管理者の帰還を確認。システム、オールグリーン。……これより、神の解体を開始します』
脳内に響くリアの、誇らしげな声。 私は視界を展開し、ヴァルターの「完璧な姿」を、エンジニアの眼で分解し始めた。
「……ヴァルター。あなたの無敵の論理を、三つのセクタに分割して攻略させてもらうわ」
一、時間。 彼の演算は「未来予測」に基づいている。なら、リサという予測不能な「情熱」を介在させ、彼の計算式に致命的なラグを発生させる。 二、空間。 彼のシステムが及ばない領域――それは、私たちが今繋いでいる「物理的な手の温もり」。データ化できない実数世界の絆で、彼の仮想空間を物理的に食い破る。
三、条件。 「完璧であること」こそが、あなたの唯一の弱点。不純物の混入を許さないその脆弱な美しさを、私たちの過剰なバグでオーバーフローさせてやる!
「……見つけたわ。ヴァルター、あなたの数式における、唯一の死角を」
それは、彼が「無駄なロス」として切り捨てた、感情という名の不確定要素。 彼が神として昇華するために捨て去ったものこそが、この世界を救うための、最後の一片だったのだ。
私の背後で、四つのデータパックがかつてないほど激しく共鳴を始めた。 シアンの光と黄金の雷が混ざり合い、絶対正解の白銀を、極彩色のノイズで塗り替えていく。
『……不快ですね。私の計算にない変数が、連帯している。……バグが集まったところで、ゼロを何度足してもゼロだというのに』
ヴァルターの声に、明確な「苛立ち」が混じる。 神が、人間に苛立っている。 それは、彼がもはや「現象」ではなく、再び「一人の男」へと引きずり下ろされ始めている証拠だった。
「……計算外? ああ、そうでしょうね。――ここからは、あなたの知らない『不確定性』の時間よ」
私はリサの手を握り、そしてリアの意識を自分に同期させた。 三人の鼓動が、一つの巨大なビートとなって、演算室を、いや、世界そのものを震わせる。
――発動準備。
「お姉ちゃん、リア! 行くわよ! ――これが、私たちの連帯の力!」
リサの黄金のプラズマが、私の『EXE-Cutor』の銃身に巻き付く。 リアのハッキングコードが、光の翼の幾何学構造を、内側から食い破るようにエンコードされていく。
白銀の神に対し、私たちは三位一体の武器を構えた。 カイの瞳に宿る、管理者の誇りと、人間としての祈り。
「ヴァルター。……あなたをデバッグして、私たちは……私たちの「未来」へ帰る!」
白く塗り潰された世界が、三人の熱量によって、今、鮮やかに再定義されようとしていた。




