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沈黙のエンジニア(サイレント・エンジニア)は、四大元素の回路に、さよならを告げる。  作者: 霧ノシキ


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第27話:『欠落の神格化(アポテオーシス)』


【精神の牢獄】

 視界が、パチパチと音を立てて爆ぜる。 目の前の演算室の壁が剥がれ落ち、その下から現れたのは、十年前のあの冷たく湿ったコンクリートの肌だった。

(……ああ、まただ。また、ここに閉じ込められた)

鼻を突くのは、かつての地下研究所に満ちていた、安価な消毒液と錆びた鉄の匂い。 足元からは、逃げ場のなかった暗い隅っこの冷気が這い上がってくる。 バイザーを失ったヴァルターの素顔を見たその瞬間から、私の時間は、あの絶望の原点へと強制的に巻き戻されていた。

「……何を、震えているのですか。カイ」

ヴァルターの声が、頭上から降り注ぐ。 それは、かつて私の存在を「ノイズ」として定義し、鏡の向こうから私を観察していたあの男の声そのものだ。 今や、私たちを隔てる硝子バイザーさえ存在しない。 『硝子越しの悪夢』は、今や現実に溢れ出し、私の全存在を侵食していた。

「……パパとママは、あなたを信じていたのに。……あなたは、彼らさえも利用して……っ」

「信じる? 利用する? ――その言葉そのものが、君というデバイスが抱える論理的欠陥だ」

ヴァルターが一歩、近づく。 その動作は、もはや歩行という物理的現象を放棄していた。 彼はただ、「そこに存在する」という事象を、一瞬ごとに再定義しているに過ぎない。 私の思考が彼の速度に追いつけず、脳内には強烈な処理遅延ラグによる吐き気が込み上げる。

「君の両親が抱いたのは、愛という名の停滞だ。……だが、私は違う。私は彼らが視ることを恐れた深淵、アストラル・ノアの真実に手を伸ばした。……君が今、感じているその『恐怖』こそが、君というバグに刻まれた、私という絶対的なことわりへの敬虔な反応ですよ」

私は、震えを止めることができなかった。 歯の根が合わず、ガチガチと鳴る音が、静まり返った聖域に虚しく響く。 最強の管理者権限? そんなものは、彼が呼吸するように紡ぎ出す「世界の真理」の前では、稚拙な落書きにも等しい。 私はただの、愛される資格のないバグ。 十年前、彼が私を否定したあの日から、私の本質は一ビットも変わっていなかったのだ。

【論理の超越】

「――準備は、整いました」

ヴァルターが、自身の胸元に手を置いた。 その指先が触れた空間に、幾何学的な紋章が浮かび上がる。 アストラル・ノアの最終コード。世界を再構築し、あらゆる不条理を消去するための、禁忌の数式。

「人間という、バグまみれのハードウェアを捨て去る時が来た。……肉体は劣化し、感情はロスを生み、記憶は忘却へと逃げる。……そのような脆弱な檻の中に、真理を留めておくことはできない」

ヴァルターの身体から、眩いほどの白銀の光が溢れ出した。 それは熱を持たない光。 ただ、情報を。ただ、真理を。 爆発的に増幅させるための、論理の奔流。

「プロトコル・アポテオーシス。……これより、私自身の全ログをアストラル・ノアへ同期シンクロさせる。……私は、私という個を捨て、この世界を統べる『調律チューニング』そのものへと昇華する」

彼の瞳から、人間としての虹彩が消えた。 代わりに宿ったのは、銀河の渦のように無限に回り続ける、数兆の演算ログ。 彼の意識は、現在の技術体系を遥かに超越し、十五年、三十年……いや、数世紀先の未来へと加速していく。

「悲しみも、痛みも、……君というノイズさえも。すべては私の数式の中に収束し、調律される。……カイ。君が求めた救いとは、私という唯一の正解に統合されることだったのですよ」

白銀の光が、演算室を飲み込んでいく。 物理的な質量を伴った光。 空間が、次元が、彼の「書き換え」によって軋み、悲鳴を上げていた。

【神の顕現】

それは、もはや「変貌」という言葉では形容し得ない現象だった。

ヴァルターの肉体は、物理的な細胞を放棄し、微細な結晶構造へと相転移していく。 彼の背後に展開されたのは、多次元幾何学――フラクタル構造によって編み上げられた、巨大な『光の翼』。 それはユークリッド幾何学の極致であり、黄金比の具現。 人の手では決して描き得ない、冷酷なまでに完璧な美しさを纏った、数理の神の姿だった。

「……特異点シンギュラリティに、到達しました」

彼が呼吸する。 ただ、それだけの行為で、演算室の次元が波打ち、歪む。 重力は方向を失い、時間は粒子となって滞留した。

私は、せめて抵抗しようと『EXE-Cutorエグゼ・キューター』を構えようとした。 だが、私の指が触れた愛銃は、もはや武器ですらなかった。

『ERROR: UNKNOWN_AUTHORITY』 『SYSTEM_REJECTED_BY_WORLD_PRINCIPLE』

ホログラムの警告が赤く明滅し、次の瞬間、『EXE-Cutor』は私の手の中で重い鉄屑へと変質した。 銃身に刻まれた魔法回路が、ヴァルターが放つ「絶対的な正解」の前に、自らの存在意義を失い、崩壊していったのだ。

「……ああ、あ……」

喉の奥で、声にならない悲鳴が凍りつく。 足の感覚が消え、自分が地面に立っているのか、深淵に浮いているのかさえ分からない。 目の前に君臨する『神』は、私に怒りを向けることさえなかった。 嵐が道端の石を気に留めないように。 重力が塵の一つ一つを憎まないように。 彼はただ、慈悲深い無関心をもって、私というゴミを眺めていた。

「君というバグは、実に長きにわたって私の計算を乱した。……だが、それも終わる。……この世界の歪みを、今、私が正し(チューニング)てあげましょう」

ヴァルターが、指先をゆっくりと空間にかざした。 その指先が触れる場所から、世界が、色が、存在が。 音もなく、白く、静かに塗り潰されていく。 『アストラル・ノア』による、全生命のフォーマット。 抵抗する術など、この宇宙のどこにも存在しなかった。

私の瞳から、光が消えた。 心臓の鼓動が、恐怖に耐えかねて停止しようとしていた。 (……ごめんね、パパ。ママ。……私は、やっぱり、ダメな子だったよ……) 深い、深い、冷たい絶望の底へと、私はゆっくりと沈んでいった。

【楔】

世界が、白銀の虚無に染まる。 ヴァルターの指先が、世界の最深部――全情報の根源へと触れようとした、その瞬間だった。

『――ふざけんなよ、このクソ眼鏡ぇぇぇ!!』

凍りついた空間に、あまりにも不吉で、あまりにも「非合理」な叫びが突き刺さった。

通信ログの彼方から、あるいはこの世界の理さえも無視して物理的に扉を蹴破ったのか。 激しいパケットノイズを撒き散らしながら、黄金のプラズマを纏った一つの影が、絶対零度の静寂の中に乱入した。

「リサ……お姉ちゃん……?」

私の、光の消えかけた意識の端で、その声だけが鮮明に響いた。 それはヴァルターが定義した、どの美しい数式にも当てはまらない、歪で、熱い、ただの「情熱」。 完璧に調律された神の世界において、その叫びは、最悪の、そして唯一の「不確定なノイズ」となってシステムを激しく拒絶した。

神の指先が、一瞬だけ止まる。

「……計算外ですね。リサ。……君のその、無意味な執着は」

ヴァルターが、初めて僅かに、眉を動かした。 だが、白銀のオーバーライトは止まらない。 世界が、圧倒的な正解に塗り潰されていく。

世界が白く塗り潰される中、ただ、彼女の――少女の叫びだけが、この冷酷なシステムを真っ向から拒絶し続けていた。

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